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優しい榊さんの話

母親

作者: リコリス
掲載日:2026/05/18

 休日の昼下がり。


 榊透は駅前のカフェで本を読んでいた。


 店内は静かだったが、少し離れた席だけが落ち着かない空気を纏っている。


「ほら、静かにしなさい」


 若い母親が、小さな男の子に何度も言い聞かせていた。


 五歳くらいだろうか。


 男の子は椅子の上でもぞもぞと動き、ストローの袋を指で弄んでいる。


「すみません……本当にすみません」


 母親は周囲へ何度も頭を下げていた。


 テーブルのコーヒーはほとんど減っていない。


 目の下には薄い隈が浮かんでいる。


 その時、男の子の手がジュースに当たった。


 氷の入ったグラスが倒れ、机に中身が広がる。


「あっ……!」


 母親の顔が強張る。


「だからちゃんとしてって言ったでしょ!」


 思ったより強い声が店内に響いた。


 男の子はびくりと肩を震わせる。


 榊は静かに立ち上がり、近くの紙ナプキンを取った。


「大丈夫ですよ」


 穏やかな声。


 母親は何度も頭を下げた。


「すみません……本当に……」


「よくあることですから」


 榊が笑うと、母親は少しだけ力を抜いた。


 それがきっかけで、少し会話をするようになった。


 母親の名前は遥。


 夫は仕事が忙しく、ほとんど家にいないらしい。


「最近、ずっと余裕なくて……」


 遥は疲れたように笑った。


「ちゃんと育てなきゃって思うほど、空回りしちゃって……」


 男の子は黙ったままジュースを飲んでいる。


「怒っちゃダメなのに、ついイライラしちゃって」


 遥は俯く。


「母親失格ですよね」


 周囲なら、

 「そんなことないですよ」と慌てて慰めるのだろう。


 けれど榊は違った。


「それだけ大事なんですね」


 遥はゆっくり顔を上げた。


「え……?」


「ちゃんと向き合おうとしてるから、苦しくなるんですよ」


 榊の声は穏やかだった。


 遥の目が少し潤む。


「そんな風に言われたの、初めてです」


 それから二人は、時々そのカフェで会うようになった。


 遥は少しずつ、色々な話をするようになった。


 子どもの友達関係が不安なこと。


 変な人に連れて行かれないか心配なこと。


 小学校に上がった後、ちゃんと馴染めるのか不安なこと。


「最近、GPS持たせたんです」


 遥はスマホを見せながら言った。


「あと、知らない子の家には行かない約束もしてて」


 少し申し訳なさそうに笑う。


「考えすぎって、夫には言われるんですけど」


 榊は静かに頷いた。


「遥さんがお子さんを大事にしてること、ちゃんと伝わってると思いますよ」


 遥は安心したように目を伏せた。


「……そうだといいんですけど」


「そこまで気にかけてもらえるお子さん、幸せですね」


 遥は安心したように息を吐いた。


 それからさらに数週間後。


 遥は以前より穏やかに笑うようになっていた。


 けれど男の子は、前より口数が減っていた。


「最近、この子の持ち物全部確認するようになったんです」


 遥は少し誇らしそうに言う。


「変な物持ってないか気になるし、交友関係もちゃんと把握したくて」


「ちゃんと見てるんですね」


「あと、子ども部屋にも見守り用のカメラつけようと思ってて」


 遥は小さく笑った。


「心配しすぎですかね?」


 榊は静かにコーヒーを飲む。


「ずっと見てあげられるなら、お子さんも安心じゃないですか」


 遥は嬉しそうに笑った。


「榊さんと話すと、自分のやってること間違ってないって思えるんです」


 窓の外では、夕方の光が街を照らしていた。


 帰る準備をしながら、遥は男の子の手を握った。


「ほら、行こう?」


 男の子は小さく頷く。


 その時、不意に榊を見上げた。


「ねぇ、おにいちゃん」


 榊は穏やかに目を向ける。


「なんですか?」


 男の子は少し迷ってから、小さな声で言った。


「ママ、ぼくの部屋にもカメラつけるの?」


 一瞬だけ、遥の笑顔が止まる。


 けれどすぐに、困ったように笑った。


「心配だからよ」


 榊は静かに頷く。


「遥さん、ちゃんと見てあげてるんですね」


 男の子は何も言わなかった。


「それじゃ、気をつけて」


 榊がそう言うと、遥は嬉しそうに頭を下げる。


「ありがとうございます、榊さん」


 母親に手を引かれながら、

男の子も小さく会釈した。


 榊は最後まで、

その子の名前を知らなかった。

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