母親
休日の昼下がり。
榊透は駅前のカフェで本を読んでいた。
店内は静かだったが、少し離れた席だけが落ち着かない空気を纏っている。
「ほら、静かにしなさい」
若い母親が、小さな男の子に何度も言い聞かせていた。
五歳くらいだろうか。
男の子は椅子の上でもぞもぞと動き、ストローの袋を指で弄んでいる。
「すみません……本当にすみません」
母親は周囲へ何度も頭を下げていた。
テーブルのコーヒーはほとんど減っていない。
目の下には薄い隈が浮かんでいる。
その時、男の子の手がジュースに当たった。
氷の入ったグラスが倒れ、机に中身が広がる。
「あっ……!」
母親の顔が強張る。
「だからちゃんとしてって言ったでしょ!」
思ったより強い声が店内に響いた。
男の子はびくりと肩を震わせる。
榊は静かに立ち上がり、近くの紙ナプキンを取った。
「大丈夫ですよ」
穏やかな声。
母親は何度も頭を下げた。
「すみません……本当に……」
「よくあることですから」
榊が笑うと、母親は少しだけ力を抜いた。
それがきっかけで、少し会話をするようになった。
母親の名前は遥。
夫は仕事が忙しく、ほとんど家にいないらしい。
「最近、ずっと余裕なくて……」
遥は疲れたように笑った。
「ちゃんと育てなきゃって思うほど、空回りしちゃって……」
男の子は黙ったままジュースを飲んでいる。
「怒っちゃダメなのに、ついイライラしちゃって」
遥は俯く。
「母親失格ですよね」
周囲なら、
「そんなことないですよ」と慌てて慰めるのだろう。
けれど榊は違った。
「それだけ大事なんですね」
遥はゆっくり顔を上げた。
「え……?」
「ちゃんと向き合おうとしてるから、苦しくなるんですよ」
榊の声は穏やかだった。
遥の目が少し潤む。
「そんな風に言われたの、初めてです」
それから二人は、時々そのカフェで会うようになった。
遥は少しずつ、色々な話をするようになった。
子どもの友達関係が不安なこと。
変な人に連れて行かれないか心配なこと。
小学校に上がった後、ちゃんと馴染めるのか不安なこと。
「最近、GPS持たせたんです」
遥はスマホを見せながら言った。
「あと、知らない子の家には行かない約束もしてて」
少し申し訳なさそうに笑う。
「考えすぎって、夫には言われるんですけど」
榊は静かに頷いた。
「遥さんがお子さんを大事にしてること、ちゃんと伝わってると思いますよ」
遥は安心したように目を伏せた。
「……そうだといいんですけど」
「そこまで気にかけてもらえるお子さん、幸せですね」
遥は安心したように息を吐いた。
それからさらに数週間後。
遥は以前より穏やかに笑うようになっていた。
けれど男の子は、前より口数が減っていた。
「最近、この子の持ち物全部確認するようになったんです」
遥は少し誇らしそうに言う。
「変な物持ってないか気になるし、交友関係もちゃんと把握したくて」
「ちゃんと見てるんですね」
「あと、子ども部屋にも見守り用のカメラつけようと思ってて」
遥は小さく笑った。
「心配しすぎですかね?」
榊は静かにコーヒーを飲む。
「ずっと見てあげられるなら、お子さんも安心じゃないですか」
遥は嬉しそうに笑った。
「榊さんと話すと、自分のやってること間違ってないって思えるんです」
窓の外では、夕方の光が街を照らしていた。
帰る準備をしながら、遥は男の子の手を握った。
「ほら、行こう?」
男の子は小さく頷く。
その時、不意に榊を見上げた。
「ねぇ、おにいちゃん」
榊は穏やかに目を向ける。
「なんですか?」
男の子は少し迷ってから、小さな声で言った。
「ママ、ぼくの部屋にもカメラつけるの?」
一瞬だけ、遥の笑顔が止まる。
けれどすぐに、困ったように笑った。
「心配だからよ」
榊は静かに頷く。
「遥さん、ちゃんと見てあげてるんですね」
男の子は何も言わなかった。
「それじゃ、気をつけて」
榊がそう言うと、遥は嬉しそうに頭を下げる。
「ありがとうございます、榊さん」
母親に手を引かれながら、
男の子も小さく会釈した。
榊は最後まで、
その子の名前を知らなかった。




