彼も彼女も着替えたら・44
美奈子は子供が苦手だった。言葉を選ばずに言うと、嫌いだった。自分が子供の頃から自分と同じ子供が嫌いだった。
すぐ泣くしわめくし、自分が世界の中心だとでも思っているし、尊大でわがままで、たいして可愛くもないガキほど自分のことをアイドルかなんかだと思って振る舞っているところがたいそう痛々しくて大嫌いだった。
美奈子は子供の頃から可愛かったので、わざわざ可愛さをアピールしなくてもあらゆる人々から可愛がられた。媚びを売らなくても可愛がられ、つんけんしててもちやほやされた。だから自称可愛いブスな子供どもにはよく標的にされた。それもあってますます子供は嫌いになった。
「美奈子ちゃんは綺麗なお嫁さんになるねえ」
などと大人たちに言われたが、お嫁さんになったが最後、子供を産まなければいけないことがわかっていたので、美奈子はその頃から結婚は絶対にしないと心に決めていた。
美奈子の家には小さな仏壇があった。それが美奈子より先や後に生まれた兄弟たちの物であると知ったのは、美奈子が小学生のときであった。ちやほや可愛がられていたのは見た目が可愛いからではなく、この家で無事に育った、たった一人の子供だからだと知った。
大切に育ててくれた両親には感謝しているが、だからと言って亡くなった兄弟の分まで生きようなどと重いことを考えたことはない。あいかわらず子供は苦手だったので、積極的に自ら関わろうなどとは思わなかった。
それでも『嫌い』よりは『苦手』程度には昇格したし、どんなに小うるさいブスにも生きる権利はあると認められるようになっていた。
横並びに『嫌い』だったクソガキどもはそのうち自分より小さな存在となったので『苦手』程度で済ませられるようになり、明らかに弱く庇護対象の生き物と見られるようになった今では、若干の愛情が沸いて来なくもないではない。
だが、あの、泣いてわめいて自己主張する生き物を24時間自分で面倒みられるかと言われれば、絶対無理だと美奈子は断言できる。そんな覚悟は美奈子にはまだできていない。
ダウンロードした中絶同意書を美奈子は見つめる。
未婚の人用の用紙にもパートナーの記入欄がある。
当然事実婚ではないし、将来を約束した恋人でもない。相手はわからないと言ってしまえばいいのだ。
一輝も兄弟はいないと言っていた。どうしてひとりっ子なのかとかそんな話はお互いしたことがない。ただ、一輝の家にはもうひとつ子供部屋があると言っていた。体よくオタク部屋にしようとしたら、母親がすでに自分のコレクションを隠していたという話をしていた。
「おそらくBLと呼ばれる以前の古い耽美雑誌や本が何冊もありましてな」
バレていないと思っている母親の顔を潰さぬよう、知らん顔を決め込んでいると一輝は朗らかに笑っていた。
「オタクとは遺伝でござるな」
なるべく一輝がいない日を狙って美奈子はジムに通った。がむしゃらにマシンを漕いで、がむしゃらに腹筋をした。
いい大人だから平気だと思っていたのに。冷静に対処できると思っていたのに。
病院に行くのが怖かった。
自然と、事故で、どうにかなればいい。どうにかなればと。思っていた。
一輝とは顔を合わせづらかった。会ったら何か言ってしまいそうで怖かった。常に冷静沈着でいられる自信は会社でしか保てなかった。
なんの自覚もないのに、身体の内側から何かが迫ってくる。時間が、期限が迫ってくる。
病院に行けばいいのだ。美奈子にも重々わかっている。さっさと中絶手術を受けてしまえばいいのだ。子供を持つなんて考えてもいなかったのだから。結婚なんて考えてもいなかったのだから。仕事を続けたいのだから。オタクは金も時間もかかるのだから。躊躇する理由なんてひとつもない。やることが決まっているのなら、やればいいだけの話である。なのに。何をそんなにためらうのか。
一輝の誘いを躱して3週間。いよいよ言い訳が尽きてきた頃。
一輝が、何かに気づいたようだった。
美奈子は、覚悟した。
「お、おひさしぶりです!美奈子殿!」
思わず両手を広げ抱き締めようとした一輝は、そういや今自分がフラれるかもしれない危機的状況にあることを思い出してぎこちなく手を下ろした。
なんとなく嬉しそうな泣きそうな曖昧な表情の一輝に、美奈子も笑おうとして表情が硬くなる。
「おひさしぶりです。何度も誘っていただいたのにお断りしてすみませんでした」
「いや、とんでもない。何事も都合というものはありますからな。小生とていくら美奈子殿のことが大好きでも束縛しようなどと狭量なことは考えておりませんぞ」
はっはっはと心とは正反対のことを言いながら一輝は余裕ぶる。いやいや、束縛しようなどとは思ってはいないが、というか、束縛できるとも思えないが、やっぱり美奈子のことは独占したいというかちょっとだけ自分のことを優先して欲しい気持ちも無きにしもあらずというか。もうすぐフラれるかもしれないのに、相反する芽生えた独占欲に戸惑う一輝である。
「……行きましょうか」
「おお、そうですな」
やはり美奈子は元気がない。抑揚なく『とらせん』コラボカフェの方へ歩き出した美奈子の横に、一輝は少し身体をこわばらせながら並んだ。
初めてこのカフェに来たときも、その次に来たときも、それから何回も来たときも、とてもはしゃぎながらお互いメニューを選んだ。『とらせん』の話も渚ちゃんの話も、他のアニメの話も尽きなかった。なのに今日は。
「……」
「……」
メニューを決めるときも注文してからも、ぽつりぽつりとぎこちなく会話を交わすだけ。なにかお互い話したいことはあるのだが、上手く切り出せない。スマホを出していじることすらできない。話さなければいけない事があるのはわかっているのだが、ただ下を向き、深く、浅く呼吸を繰り返すだけ。
話があると言ったのは美奈子の方だった。だが、この状態を見れば話しにくい内容であることはよくわかる。一輝は手で膝を擦りながら覚悟する。
美奈子は優しい人だ。『性的』なことなどひとつも想像していなかった付き合いのなか、突然懸想し始めた自分のために『性的』に見られることを受け入れ、今度は自分を『性的』に見る訓練をしてくれたような人だ。好奇心ゆえに身体を重ねたものの、二月三月付き合ってみて、やっぱりダメだと判断したのだろう。そして今度は後腐れなく、お互い傷つかないように、優しく別れる練習をしようとしてくれている。
……練習?いや、本番なのだろう。ぶっつけ本番。たしかに別離ともなれば練習をしてからとはいかないのが世の常なのかもしれない。これは恋愛事に練習を必要とした美奈子には少々荷が重かったのではないだろうか。だからこんなに緊張されているのか。
つくづく優しい人だと一輝は思う。美奈子ほどの美貌の人なら自分のようななんの取柄もない男など、どれだけ傷つけようが一蹴だにしてよさそうなものなのに。いや、そんな美奈子だとわかっていたからこそ、自分は惚れたのかもしれないが。
困らせてはいけない、と一輝は思う。これ以上美奈子に辛い顔をさせてはいけない。美奈子にはクールな笑顔と不遜な見下しがお似合いなのだ。ここは自分が身を引くしかない。
「あの、美奈子殿」
「あの!」
一輝と美奈子は同時に切り出した。そして美奈子は一輝が声を発したことに気づかず、言い切っていた。
「妊娠しました」




