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彼も彼女も着替えたら・42


 恋とは得てして人生設計を暴走させるものである。いわんや初恋をや。

 結婚どころか恋愛すら考えたことのなかった一輝である。それが気がつけば寝ても覚めても美奈子のことを想ってしまう。朝起きれば美奈子殿も目覚められたであろうか。通勤電車に乗れば美奈子殿も今頃会社に向かわれておられるであろうか。会社に着けば美奈子殿も今頃仕事をこなされているであろうか。昼は何を食べられておられるのか、そろそろ退勤であろうか、今日はジムに行かれるのか、晩御飯は何を食べられるのか、お供のアニメはやはり『ハレ禁』であろうか、などなど。挙句の果てに、こんなに四六時中美奈子殿のことばかり想っているのであれば、いっそのこと結婚……などと思いかけて、やっと一輝は正気に戻る。戻って頭を振って、自分にドン引きである。

 奥手の男が嫌われるところはこういうところなのだと、一輝はさんざん自分を戒めてきたつもりであった。ちょっと優しくされれば好意を持たれていると勘違いしてオタクはすぐ暴走する。そんな不名誉な誤解を解くためにも、美奈子との付き合いは慎重に慎重を重ね培ってきた。

 だが、やっぱり想いが通じちゃうとバカみたいに有頂天になってしまうのが人というもので。

『実質プロボーズになっていません?』

 真木のひと言が脳内でリフレインする。

 付き合い始めたらすぐ結婚を意識するなど、どこの初心な小娘なのだと一輝も思う。今どき少女漫画のヒロインですらもうちょっと将来を落ち着いて見据えているのではないだろうか。ヒロインよりもヒロインらしい自分の思考に、狭心症的な胸キュンを覚えてしまう。

 実際美奈子も先のことはわからないと言っていた。

 そう。今はまだ付き合いが始まったばかりなのだ。そう焦ってゴールを設定せずとも、そっちに向かっていけるように、着々と、なんとか、レールを敷いて行けば……。一輝は無意識のうちに少々悪い顔になっていた。

 美奈子殿のウエディングドレス姿はさぞかし美しかろうなぁ、などと他人が聞いたら十中八九気持ち悪がる妄想に一輝は耽る。仕事が忙しいから家事は週末にまとめてやるとして、子供が出来たら母上殿にご助力願おう。子供……、美奈子殿に似てさぞかし可愛かろうなぁ……、まさか小生が子供など……、いやいや、子供は授かりもの。絶対できるとは限らぬし、そもそも子供が欲しいかどうかはまず美奈子殿に確認しなければ……。

 はっ!いかんいかん!と我に返った一輝は顔を挟んで両頬を叩く。

 浮かれている場合ではない。こんな時ほど気を引き締めなければ、うっかり結婚のことなど口を滑らそうものなら即座に引かれてフラれてしまうかもしれない。重い男などとは絶対に思われてはいけないのだ。


 だが。


 週末のデートの誘いを「具合が悪い」と断られた。何か必要なものはないかと訊いたが、伝染すと悪いから来ないでくれと釘を刺された。次の週は「他の友人との約束がある」と言われ、その次の週は「都合が悪い」と断られた。

 もう3週間美奈子に会っていなかった。

 社食で探しても見つからず、ジムに行っても美奈子は来ていない。メッセージのやり取りは普通にしているが、どうにも避けられていることは否めない。もしや重い結婚願望が悟られてしまったのではないかと、一輝の心中は穏やかではいられなかった。


「ケンカでもされたんですか?」

 後ろ向きでケーブルマシンを引っ張っていた一輝は、危うくおもりに連れて行かれるところであった。

「な、なぜ!?」

「せっかく一緒に来ていいですよって言ったのに」

 真木の無垢な疑問にジム会員たちの耳は大きくなっている。

「いや、その、あの……。ただ単に年度末も近く時間も合わず……」

 下手な嘘は尻すぼみに消えていく。真木は「ああ、なるほど」と気のない相槌をうつ。

「じゃあ、週末は会ってらっしゃるんですね」

「あ、いや、まあ、それは……」

「先週はどこに行かれたんです?」

「ぐぬっ……」

 矢継ぎ早に訊いたくせに答えも聞かず、とうとう言葉を詰まらせた一輝に真木は助け舟を出した。

「そういや榊原さん、最近ちょっとトレーニング内容がハードなんですよ」

「は、ハード?とは?」

 追い詰められたのにすぐに助けられて、人の良い一輝は真木に好印象しか持たない。

「なんかちょっと負荷を掛け過ぎというか、必死というか。お仕事でなにか嫌なこととかあったんですかね?ストレスがかかるような」

「う~む……」

 部署が違うので普段の様子はわからないが、一輝と同じプロジェクトは順調に進んでいる。年度末でいったん区切りはつくが、長期計画で立ち上がったプロジェクトなのでそのまま来年度のメンバーとして残るはずである。それが特別ストレスになるような話はこの1年聞いたことはなかったが……。

 3週間会っていなかった分、自分が知ることのできなかった美奈子の様子に一輝は心配になる。最初に断られたのも体調不良が原因だった。もしかしたらそれが続いているのかもしれない。

「あとで聞いて」

「他に良い人で来たんじゃねーの?」

 みます、と言い終わらないうちに菅生に不安の種をざっくり掘り返され、一輝は胸を押さえてひっくり返り、耳が大きくなっていたジム会員たちは、え!?もう!?早くない!?と目を剥いていた。


 そもそも体調不良の人が負荷をかけたトレーニングをしゃにむにやるわけがない。それはもう嫌なことがあって忘れようと、がむしゃらにやっているに決まっているではないか。嫌なことって?ねえ、嫌なことってなに?思い当たることがありすぎる自分の胸に一輝は手をあてる。

 かといって聞かなかったことにすることもできずに、一輝は悩みながらメッセージを美奈子に送った。

『体調はどうでござる?』

 ややあって返事が来た。

『元気ですよ』

『今日もジムでお会いできませなんだな』

『今日も忙しくて。疲れたので寄りませんでした』

 少し考えて、一輝は打つ。

『最近とても熱心だと真木先生にお聞きしたのですが』

『熱心?』

『負荷をかけてらっしゃると。前にも増して熱心だと』

 必死、という言葉は使わない方がいいかなと思って、つい熱心という言葉を2回使ってしまった。

『身体が慣れてきたので、少し重くしてみただけです』

『なるほど』

 それはそうだよなと一輝も思う。一輝自身も少し負荷を大きくしたマシンもあるし、鍛え慣れている美奈子であればなおのことそうするだろう。ただ、真木が『必死』と言っていたのが一輝はとても気になっていた。でもなぜだかこの『必死』という単語を言い辛い。もし本当に美奈子が仕事でストレスを抱えているのであれば、何か力になりたいし、ましてや仕事ではなく自分のことで何か思い悩んでいるのだとしたら。

 だとしたら、真摯に受け止めなければならない。

 美奈子に無駄に思い悩む時間を使わせてはいけない。美奈子には健やかに、幸せに日々を暮らして欲しい。それが何よりの一輝の想いなのだ。

 だが、どう切り出していいのかわからない。「なにか悩み事でもおありなのか?」などと居丈高甚だしく切り出しにくい。

『一輝さん』

 思い悩んでいた時間などたいした間ではなかったかもしれない。だが会話のラリーを破ったのは美奈子だった。

『今度の週末お会いできます?』

『お話したいことがあるんです』

 一輝はスマホを落とし、胸を鷲掴み、震えながら跪いた。


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