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彼も彼女も着替えたら・40


 一輝がジムに行くと、顔だけは知っているが話したこともない会員たちに「おめでとう」と肩を叩かれることがあった。別の日には「あちらの会員様からです」とプロテインを差し出され、「コングラッチュレイション」とボトルを掲げられたこともある。

 バレンタインもすっかり過ぎて百貨店の催事がホワイトデーに代わる頃。落ち着いた空気の流れるジム内では、そろそろふたりが同じ日にトレーニングに来ることを許可してもいいのではないかと声が上がっていた。



「かんぱーい」

 いつもの居酒屋に集合した一輝と美奈子、そして真木と菅生は生ビールのジョッキを軽くかち合わせた。

「まずは無事、お付き合い開始、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 真木の言葉に、一輝と美奈子は弾んだ声を合わせた。

「皆様の暖かいご支援のおかげで、なんとか一線を越えることができました」

 さわやかに一輝は言い放ち、ビールを煽る。

「……さすが、自信がついた男はあっさり言うな」

「『友達』から『恋人』への一線という意味ですよ、菅生先生。いやらしく考えないでください」

 呆れる菅生に美奈子が釘を刺すが、菅生は改める気などない。

「つまり童貞喪失して自信がついたってことだろう?間違ってねえじゃねえか」

 唸りそうなくらい睨み合う美奈子と菅生を無視して、真木はほほ笑んだ。

「一時はどうなることかと思いましたが、無事に榊原さんが及川さんを『性的』に見ることができたということでしょう?おめでたいことです」

「真木先生まで……!」

 少しだけ赤くなって上目遣いに真木を睨む美奈子に、「俺が言ってることと何が違うんだ!」と菅生が騒いでいた。

「ね?想いが通じると幸せでしょう?」

 美奈子は小さく頷き、一輝はほほ笑んで言った。

「正直、ここまで来るのは大変だったのですが、それもまた愛を深める良い時間となりました」

「かーーっ。一皮剥けた男は言うことが違うねえ」

「いちいちいやらしく聞こえるんですよ、菅生先生の言葉は。ちょっと黙っててもらえます?」

「そんなものおまえの受け取りようだろうが。俺にはいやらしい気持ちなんかこれっぽちも無いわ」

 再び美奈子と菅生が唸り合う。

「『性的』に美奈子殿を見てしまうことにあれほど罪悪感を募らせていたというのに、いざ、こ、『恋人』になってしまうと、『性的』に感じてしまうことがなくなったのが我ながら不思議で……」

「え?」

「え?」

「え?」

 照れる一輝に、聞いていた真木どころか睨み合っていた美奈子と菅生までが驚いて振り返った。

「なんていうかそれって……」

 言葉を探す真木に菅生が先んじる。

「あんま良くなかったから友達に戻ろうってことか?」

「なんてこというんでござるか!?菅生先生!!」

 真剣に眉を寄せる菅生に一輝は顔を真っ赤にして怒る。

「一輝さん……。私、そんなに魅力なかったですか……?」

 先週もあんなに……とか余計なことまで言いそうになっている悲し気な美奈子の口を塞いで、一輝は慌ててまくし立てる。

「いやいやいや、美奈子殿。美奈子殿とてそんなに小生のこと『性的』な目で見てはござらんであろう?」

 口を塞がれたまま一輝を見上げた美奈子は、そっと一輝の手を離す。

「ていうか、そもそもそんなに『性的』な目では見ていませんし」

「……でござろう?」

 わかってはいたのだけれど、ちょっと残念に思いながら一輝は座り直す。

「それなのに、えーっと、上手く行ってるんですよね?お付き合い」

 思いが通じ合ったお祝いの席を設けたつもりだったのに、『実はもう別れてましたでも友達として上手く付き合ってます報告』になるのかと思いながら真木は遠慮がちに確認する。

「なんと言いますか、安心して落ち着いたとでも言いますか。なにがあってももう小生、美奈子殿を手放す気はないので」

 にっこりと笑う一輝に菅生は冷ややかな目を向ける。

「お~。これだから初めての相手が大好きな人だったってヤツは怖いんだよな~、思い込みが激しくてさ。気をつけないと榊原さん、コイツ絶対ストーカーになるタイプだぜ」

 菅生!と真木が窘めるが、美奈子はしゃあしゃあと言ってのけた。

「別れなきゃいいんでしょう?」

「おう、出たよ。付き合いたてのイカレポンチ発言。おめでたいね~」

「『性的』な満足も大切ですが、それ以外の共に過ごす時間が楽しいことの方が大事なのだなと最近つくづく感じましてな。そう考えると、そもそも美奈子殿とは『性的』なこと以外でのお付き合いの方が深く長いですし」

「それはまあ、そうですね。そこから始まったわけですし」

「小生はもう、この先、美奈子殿以上に素晴らしい女性に出会うことはないだろうなと思ったわけでござるよ」

 胸を張る一輝に真木はおおと感嘆する。

「及川さん。実質プロポーズになってません?それ」

 ポッと赤くなった一輝は慌てて否定した。

「いやいやいやいや!そんな!付き合ってすぐにプロポーズなどと!いくらなんでも小生、そこまで重い男ではござらんよ!」

 否定しつつも横目でちらりと美奈子の様子を確認する。

「それに、榊原さんにはもっといい男現れるんじゃないの?」

 冷たい水を差す菅生のひと言に、一輝は赤から青にたちまち変色した。

「先のことはわかりませんが」

 微動だにしない美奈子はビールを飲むと、一輝を見てにこりと笑った。

「今は一輝さんが大好きですよ」

 一輝は胸を押さえて倒れ、真木と菅生は面白くなさそうにごちそうさまと言った。


「でも、なんとなくわかります。及川さんが落ち着いたっていう気持ち」

 酒もすすみ、酔いでほんのり頬を染めた真木がぽつりと言った。

「身体が結ばれると、その人だけのものになったようで安心しちゃうんですよね」

 普段の真木からは絶対に聞かれないであろうなかなかの暴露に、美奈子も一輝も、そして菅生さえもぎょっとして止まった。

「なんて言うのかな……、その人だけのものっていうか、その人の女になったっていうか……」

 とろりとした目で続ける真木に、一輝の方が慌ててストップをかける。

「真木先生!少々御酒をお召し上がり過ぎのようですな!その辺で止められた方が……」

 しかし慌てる一輝とは反対に、美奈子の方は急に冷静になっていた。その横で菅生はまだ呆然としている。

「聞き捨てなりませんけど、真木先生」

「はい……?」

 ゆっくりと真木は美奈子を向く。

「『その人の女になる』とは?」

「抱かれて、ああ、僕はこの人の『女』になったんだな~って。初めて抱かれたとき、ああ、この人の『女』になっちゃったな~って思ったんですけど……。思いませんでした?」

 こてんと首を傾げる真木に、美奈子はあっさりと返す。

「そもそも女ですし」

 真木は笑うと「そうではなく」と言った。

「受け入れちゃったんだっていう……」

「受け入れる方が『女』なんですか?」

「身体の造りがそもそもそうでしょう?『器』みたいな。愛を注がれる方の『器』」

 両手を受け取るように広げる真木を視界の端に入れながら、美奈子は一輝の方を向く。

「そうなんですか?」

「いや、う~む……」

 一輝は顎に手をあて考えるが、ちょっとよくわからない。

「真木……」

「なに」

 少々色を失った顔で肩に手を置く菅生を、真木は不機嫌な顔で振り返った。

「そんな人、いるの……?」

「いないとでも思ったのか?」

 口を開けたまま呆然とする菅生の手を、真木はすげなく払った。

 美奈子はもう一度一輝に訊く。

「一輝さんはどうだったんです?どう感じました?」

「!?」

 真木と菅生が一斉に美奈子を見た。

「う~む、そう言われましても……」

 さらに天井を見上げて考え込む一輝に、酔いの吹っ飛んだらしい真木と菅生が目を向ける。

「え!?なんでそこで及川さんが考えるんです!?」

 さっきまでのとろりとした雰囲気がすっかり吹き飛んだ真木がまくしたてる。

「え、だって」

「いや、美奈子殿。それはちょっと恥ずかしいでござるよ……」

 あっさり何かを吐露しようとする美奈子を遮って、一輝が頬を染め目を伏せる。

 察した真木はわなわなと震えたあと、思わず叫んでいた。

「なにやってるんですか!?あなたたちはーー!」

「いきなりペニバンかよ。どうりで」

 変に納得する菅生を美奈子は全力で軽蔑した。


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