彼も彼女も着替えたら・32
「わ!懐かしい!『とらせん』3作目の映画『紅蓮の雪に舞う桜』。私も好きでした、これ」
美奈子の声に驚いた一輝は、危うく金時しぐれ先生の新刊を落とすところだった。寸でのところで猫がタマ取るようにキャッチできたが、振り返って目に飛び込んできた美奈子の姿にやっぱり落としてしまった。
「な、なんて恰好を……」
「パジャマ持って行くの忘れちゃって」
バスタオルを胸から巻いた美奈子は飄々と一輝の横に来ると、ベッドの上に畳んでいたパジャマを掴んだ。
「着替えてきまーす」
再び脱衣所に消えた美奈子の背中を見送った一輝は、3秒ののち「おう!」とエビのように丸まった。
「ビールにします?チューハイにします?」
「で、ではチューハイで……」
ずくずくと疼く欲望を、心の中に響かせた読経のハーモニーで鎮めながら一輝は冷静を装う。受け取った冷えたチューハイを何気に組んだ足の間に置き、その冷たさで己を叱咤した。
ラグの上に座る一輝の隣のビーズクッションに美奈子は深く身体を沈める。
「一輝さん、こっちおすわりになったら?」
横のビーズクッションを美奈子がぽんぽんと叩くが、一輝はいやはやと曖昧に笑う。
「小生はこちらで充分なので」
「じゃあ」
美奈子はビーズクッションから下りるとずいと横に押しのけ、一輝同様ラグに座った。そしてぐいぐいとお尻で近寄る。ぴたりと腕をくっつけて、にこりと美奈子はほほ笑んだ。
「ね?」
一輝は爆発寸前だった。いや。もう爆発していたのかもしれません。頭のてっぺんも耳も鼻も噴火して、キンキンに冷やしていたはずの自制心もチューハイの缶を吹き飛ばす勢いを見せていた。
友の心配は杞憂に過ぎなかったのだ。何の心配もなく、身体は正直に美奈子に触れて嬉しいと叫んでいる。いや、まだ触れたと言っても腕が当たっただけなので、なんかそれだけでこれだけ暴発しそうになっていることはもはや犯罪に近くて傍から見たらむしろキモチ悪い現象なのかもしれないが、一応これは愛する人と肌を重ねるという前提において反応しなかったらどうしようという杞憂が一個外れたというおめでたいノルマ達成なので今回ばかりはオーディエンスの皆皆様にも祝福していただきたく……。
一輝はカッと目を見開き自分に喝を入れる。
「美奈子殿!」
一輝は素早くチューハイを蹴とばさない遠くの範囲にこぼれないように置くと、美奈子に正座して向き合った。
「小生、このようなことは初めてゆえ、至らぬことも多々ありましょうが、できるだけ美奈子殿を満足させられるよう頑張りますゆえ……!」
抱きしめたい!一輝の想いはここに来てようやく美奈子へとまっすぐ欲望を解き放てるようになっていた。とにかくまずは美奈子を抱きしめたい!一輝が美奈子の腕を掴み、引き寄せようとしたときだった。
「満足?させる?」
美奈子がはてと首を傾げた。そのあまりにも落ち着いた態度に、一輝は一瞬呆けた。
「え?」
「満足、させられなければいけないんですか?私が?」
「え?」
「ということは、私はなんにもしてはいけないのですか?」
「いや、そのようなことは……」
なんかしてくれると言うのはそれはそれで嬉しいのだが、そういうのって追々ではござらんのかなと一輝は口の中でもごもごと呟く。
「一輝さんは、私が何もしなくても、満足するんですか?」
「そ、それはもう!抱き締めさせていただけるだけで!」
咄嗟に一輝は答える。
「抱き締めるだけ?」
「だ、抱かせていただけるだけで……」
日本語は難しい。その現実に一輝の勢いがそがれる。
「抱くだけ?」
「……」
「……」
一輝は観念した。
「……性交を、させていただきたく……」
「セックスって、やらせてもらうものでも、満足させるものでもないと思うんです。お互い気持ち良くならないと」
「それは、まあ、大前提でござるが……」
その『気持ち良い』が、果たしてどこまでクリアできるのか。男の『気持ち良い』は勃起と射精で測れると一輝は己の身体で理解している。だが、こと女性となると、一体どこでどう確認すればいいのか……。最中と事後に言質を取らなければいけないのだが、これが女性の気遣いと男性の興奮による勘違いで大いなる誤想が産まれそうで大層頭が痛い。だからこそ「頑張る」という気合が必要なのだが、美奈子はこれが理解できないという。
「一輝さんは、まず、私のどこを触りたいですか?」
「!?」
あまりにもストレートな物言いに、一輝は硬直し、目を見開いた。
「私はまず、一輝さんの身体が見たいです」
「!?」
目を見開いたまま、一輝は両手で己の身体を抱き締めた。
「恥ずかしいですか?」
首を傾げる美奈子に、こくこくと全力で一輝は頷く。
「じゃあ、電気消します?」
再び頷く一輝に、美奈子はスイッチを求めて立ち上がったが、すぐに座った。
「やっぱり暗いと見えないからこのままで」
「!?」
一輝は逃げ腰になった。
「そっか。私も脱げばいいんですね」
「!?」
美奈子はあっけなくパジャマのボタンに指を掛けた。が、手を止めて、上目遣いに一輝を見上げる。
「脱がせたいですか?」
「!?」
一輝は葛藤する。脱がせたい。美奈子の服を脱がせたい。一枚一枚服をはぎ取られ、恥じらう美奈子の顔を見てみたい!だが……!
「ご、ご自分で……!」
一輝は咄嗟に美奈子に背を向けてしまった。
「では」
あっさりと美奈子は引き下がる。そして背後では柔らかな衣擦れの気配。
たぶん次に振り返ったときには美奈子はあられもない姿でそこにいるのだろう。
一輝は決意する。美奈子だけに恥ずかしい思いはさせられない。美奈子は見たいと言ってくれたのだ。ジムに通って数か月。全然完成しなかった一輝の肉体はどこも筋割れることなくぽよんとしている。ぽよんというかぱつんというか。正直、あまり人に見せたい身体ではない。特に愛する人にはあまり見せたくないだらしない身体ではあるが、見せないことには愛も交わせない。というか、愛する人以外に見せる必要もないんだし、愛しあう人であればこそ、どんな姿でも受け入れてもらえるはず……。えー……、ホントに~……?
みるみる萎んでいく気持ちをなんとか支えつつ、一輝はスウェット型のパジャマを頭から抜く。いったん綺麗に畳んで、今度は足を伸ばしてズボンを引き抜く。そして畳む。パンツは……。期待したり冷や水浴びせられたりで伸びたり縮んだりしていたそこは、今は元気いっぱい期待に膨らんでいる。今脱いだらとんでもないと、一輝はパンツは履いたまま姿勢を正した。
「一輝さん。用意できましたよ」
呼ばれて座ったままゆっくり振り返る。
そこには、一糸纏わぬ姿で美奈子が美しく正座していた。
「ずるい」
呆然とする一輝のパンツを美奈子は指さした。
「あ~~っ!!」
とんでもない股間を両手で隠してうずくまる一輝に、全裸の美奈子が詰め寄る。
「脱いでください!」
「あーーーーーっ!!」
「見せて!」
「あーーーーーーっ!?」
背後から前に腕を回し美奈子がパンツをはぎ取ろうとする。一輝は必死にパンツを押さえたままはち切れんばかりの欲望をなんとか堪える。
「一輝さん!私ばっかり裸はイヤです!」
「!?!?!?!?」
覆いかぶさって来る美奈子の胸が背中に、腕に、当たる。一糸まとわぬ美奈子の肌が、直に、一輝の肌に密着する。暖かく、しっとりとした、美奈子の身体。柔らかく、良い香りのする、美奈子の……。
「あッ……」
一輝の抵抗が止んだ。
突然の静止に、美奈子は一輝に乗りかかったまま戸惑う。
「どうかしました?どこかひっかいちゃいました?」
一輝は絞り出すように言った。
「……すみません……、射精してしまいました……」
「あ……」
さすがの美奈子も言葉を失くす。
「えっと、ティッシュ……?」
ゆっくりと身体を離しながら美奈子がティッシュを探すと、一輝は腰を曲げたままパンツを押さえて言った。
「いえ、あの、お風呂をお借りできれば……」
「あ、どうぞ……」
一輝はそろりそろりと起き上がり、風呂へと向かいしなふと立ち止まる。これくらいのことで暴発など恥ずかし事このうえない。だが初めてだったのだ。好きな女性の裸を見るのも、好きな女性に触れるのも、好きな女性とこういう雰囲気になるのも。嫌われてしまったかもしれない。軽蔑されたかもしれない。でもでも、できればもう一度チャンスを……。一輝は恐る恐る美奈子を振り返る。
「あの……」
美奈子はビーズクッションを抱え込み、すっぽりと身体を隠したまま言った。
「もう、今日はだめ。見せない」
一輝に犬の耳と尻尾があったらあからさまに垂れ下がっていたであろう。見るからにしょぼくれて、一輝はトボトボと風呂に向かった。




