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彼も彼女も着替えたら・22


 鬼の形相でジムにやって来た一輝はただ黙々とただただ物凄い勢いでトレーニングをこなしていった。

 軽いジョギングをし、肩を回し、スクワットをやり、レッグプレス・レッグカール・ラッドプルダウン・シーテッドロー・チェストプレス・ペックフライ・ショルダープレス・アームカール・トライセプスプレス・アブドミナルクランチ・シットアップベンチ。ふたつめですでに足は動かなくなっていたが、這ってでもマシンに縋りつく一輝を誰も止めることはしなかった。そしてほぼ動かぬ身体でトレッドミルに振り回され、バイクを漕ぎまくってるつもりで漕ぎまくられ、クールダウン時にはすでに屍となっていた。

 途中で止めてやろうにも、絶対何かあったということがまるわかりで、真木も菅生もジムの会員たちも、声を掛けることが憚られた。

 打ち上がった魚のような一輝を、ようやく皆が取り巻いて看病したが、誰一人として何があったか問いただすことはなかった。

 ただ黙って足を伸ばしてやり、背中を揉んでやり、汗を拭いてやり、水分を差し出してやった。



「だからなんですぐラブホテルなのですか!?」

 ソファの端で自らの身体を抱き締めながら一輝は叫んだ。

「手っ取り早いじゃないですか」

 ソファにバッグを置き、ハンガーにコートを掛けながら美奈子はしゃあしゃあと言う。

 抵抗する一輝を「大声出しますよ」とひと言脅し、美奈子はとうとう一輝をラブホテルへと連れ込んだ。

「だからといって、何故にラブホテル……」

 よよよと泣き崩れんばかりの一輝に、ベッドのサイドボードから取り出したグッズを美奈子は差し出す。

「だってほら、至れり尽くせり、なんでも揃ってますよ」

「違うのですよ、美奈子殿……、ちがうのですう……」

 いよいよソファに崩れ落ちた一輝の横に美奈子は腰かける。

「もしかして、ラグジュアリーホテルとか、もっとおしゃれなところがよかったんですか?」

 それは気が利かなくてごめんなさい……とちょっとしおらしくなる美奈子の手を握りながら、一輝は力なく首を振る。

「……ちがうのです……、みなこどの……、ちがうのです……」

 涙で震える一輝の声に、さすがの美奈子も何も言えなくなってしまった。

「不用意に『性的』な気分になってしまった小生が悪かったのです……。だから、美奈子殿にいらぬ気を使わせてしまった……」

「そんなこと!私は無用な気は使わない人間です!」

 一輝は握った美奈子の手をもう片方の手で優しく叩き、首を振る。

「美奈子殿はお優しいからそうおっしゃって下さるが、考えてもみてください。小生たちは今日初めてお互いの身体を抱き締め合った。初めてです。初めてお互いの真正面から心と身体を抱き締め合ったに過ぎない。まだ始まったばかりなのです」

 一輝はもの言いたげな美奈子の目を見る。今日も美しい人だなと思う。『性的』に自分のことを見れるよう頑張ってここまで付き合ってくれて、今日、迂闊にも漏れ出た一輝の『性的』な空気に触れて、何かを感じ取ってくれたのだろう。それが本当に美奈子の『性的』欲求なのか、一輝に対する憐憫なのかはわからないが、どっちなのかわからないと思っている段階では、まだ肌を合わせるわけにはいかない。だが、ホテルにまで連れ込んでくれた美奈子に恥ずかしい思いをさせないよう、一輝は至極丁寧に説得を試みた。

「美奈子殿。まずはお互いゆっくりと服の上から抱きしめ合いましょう。そして心を通わせあい、口づけを交わしてもいいとおも」

 最後まで言い終わらないうちに、唇を塞がれていた。


 唇を押し付けるだけの、つたないくちづけだった。


 目を見開いたまま、美奈子の手を握ったまま、突進して来た美奈子にぶつけられるように唇を塞がれ、一輝は呼吸も時も止めてしまった。


 美奈子は一輝の手から自分の手を引き抜くと、一輝の両頬に手を添え、一輝の唇にわずかに触れたまま囁いた。

「少し唇を開けて。一輝さん」

「は……」

 一輝が吐息を漏らした隙に美奈子は唇を捕らえると、舌先を侵入させた。

 歯列をこじ開け侵入して来た美奈子の舌に、一輝の脳内はパニックに陥る。硬く緊張していた舌を探り当てられ、身体ごと逃げようとする。

 一輝の両頬をより強く挟んだまま、美奈子は全身を一輝に預け、そのままソファの上に組み敷いた。

 押しのけるのは簡単だ。なんだかんだ力は一輝の方が強い。だが、美奈子にケガはさせられないし、恥もかかせたくない。かかせたくないっていうか、嬉しい。驚いているが、嬉しい。と思う、たぶん。ていうかとにかくびっくりしている。ていうか、とにかく、とにかく……!なんなのだ!この未知の、想像だにしなかった部分に侵入してくる柔らかくもぬめぬめした、なんか、なんか、なんかーーー!!

「んー!んー!んんーーー!」

 一輝は呻きながら美奈子の肩を忙しなく叩いた。

 ようやく美奈子が顔を離すと、一輝は鼻と口から精一杯息を吸って吐いた。

 はあはあと大きく肩を揺らす一輝を、美奈子はその肩に手をついて見下ろした。

「もしかして、息止めてました?」

「……はい…………」

「鼻で呼吸すればいいですよ」

 まだ息の整わない一輝に言うと、美奈子はふたたび唇を下ろそうとする。一輝は慌てて美奈子の肩を押しとどめた。

「待って待って待って!」

「なぜ?」

 滑り降りてきた美奈子の黒髪が一輝と美奈子の顔の周りに帳を作る。煌々と明かりの点いているはずの室内でそこだけ秘められた空間が出来上がってしまい、一輝はおおいに焦った。

「展開が早すぎます!美奈子殿!」

「そうですか?私は今日、一輝さんに対して『性的』な欲求を持ちましたよ?」

「いつですか!?きっかけが全く見当つきかねます!」

「出会い頭、抱き合ったときに」

「あれは!渚ちゃんの件が嬉しく!」

「でも、一輝さんも『兆して』ましたよね?」

 少し口の端を上げる美奈子に、一輝は焦りが止まらない。

「あ、あれは、誠に小生の不徳の致すところで……」

「今も」

「!?」

 美奈子が膝を押し当てると、今度こそ一輝は身体を翻して美奈子をソファから落としてしまった。

「み、美奈子殿!申し訳ござらん!!」

 したたかサイドテーブルと床に身体を打ちつけた美奈子を急いで抱き起そうとすると、美奈子は素直に一輝の腕に身体を寄せながらイタタと笑って腰をさすった。

「匂いがいいなと思ったんです」

 一輝と並んで座りながら美奈子は言った。

「はっ!?ニオイ……!!」

 言われて一輝は慌てて脇を上げて、右左とにおいを確認する。

「全然臭くないんです、一輝さん」

「そ、それは良かった……」

 安堵しつつも一輝はポケットの中からハンカチを取り出し、額と首の汗をぬぐう。

「一輝さんっていつも気をつけていらっしゃいますよね。汗拭きシートでまめに身体を拭いていらっしゃる。それもあるからいつもいい匂いなのかな~とは思っていたんですが、明らかに他の男性とは何かが違ったんです。私の中で」

 美奈子は立ち上がると備え付けの紅茶のティーバッグをふたつ、カップにそれぞれお湯と共に入れた。

「人間っていろんな匂いがあるじゃないですか。汗も含めて、その人自身の匂い。どれが良い悪いとかじゃなくって、合うか合わないかっていうのかしら」

 ティーバッグを小皿に移すと、美奈子はカップをひとつ一輝の前に置いた。

「よくある話だと思うのですけれど、私も思春期の頃から父のことがすごく臭くて嫌いだったんです。酷い話ですけれどね」

 美奈子はくすくすと笑う。

「でもそれって遺伝子的に正しい反応らしくって。血が近い生物と繁殖しないように、避けるためなんですって。納得ですけど、やっぱり酷いですよね」

 美奈子はひと口紅茶を飲んで、一輝の顔を見た。

「いい匂いの香水をつけてても、特別臭いわけじゃなくても、嫌いなものは嫌いだし、なんとも思わない男はなんとも思いません。たとえ勃起してなくても馴れ馴れしく肩を抱いてくる男は蹴とばしますし、勝手ににおいを嗅いでくる男は刺します。でも、一輝さんには何をされても悪意は持てませんし、なんならこちらから何かして差し上げたいとすら思いました。だから」

 美奈子はカップを置いた。

「セックスしましょう」



 

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