彼も彼女も着替えたら・13
「僕は榊原さんも及川さんのことが好きなんだと思います」
「はあ?」
目を白黒させながら泡を吹いていた一輝に真木は冷静に言った。
「何を根拠に……」
「及川さんを追いかけて入会されたんだと思います、ジムに」
「そんなバカな」
荒唐無稽な話に落ち着きを取り戻した一輝はようやくビールをひと口飲んだ。
「及川さんたちがお勤めの会社と駅の間に、うちと同じくらいの料金設定のトレーニングジムは3軒あるんですよ。プライベートジムやちょっとランクアップさせたジムまで入れたら8軒です。加えて榊原さんのご自宅近くの駅周辺には女性専用のジムまであるんですよ。そんな恵まれた環境からわざわざうちみたいな小さなジムを選んでくださった理由は何だと思います?」
「それは……、通勤途中に……」
「及川さんがいるからに決まっているでしょう」
訊いておきながら一輝の答えは無視して真木は断言する。
「加えて入会初日からの及川さんに対する執着。知ってますか?榊原さん、ジムに来てすぐ及川さんのスケジュール聞いて来たんですよ。何曜日に来るか何時に来るかって」
「それは……、なにかしら急な仕事の連絡とか、取れるようにかと……」
「そんなもの会社でできますよね。メッセージアプリもありますよね」
ぼそぼそと呟く一輝の言葉に真木は被せる。
「一緒にやりたいんですよ、トレーニングを、榊原さんは」
「いや、そんな、たまたま……」
「週末のデートが減ってるんでしょ?断ってるんでしょ?及川さん」
「デートなどとそんな……!」
一輝は慌ててみたが、よく考えれば、自分たちはただの仲の良いオタク友達のお付き合いだと思っていたが、事情を知らない人から見れば仲睦まじいアニメショップ巡りデートだったのかもしれない。一輝はふたたび青くなる。
「デートなどと……!」
「週末のデートができないんだったら、せめて及川さんが最近凝っている筋トレ一緒にやりたいなーって思ってるんですよ、榊原さんは。わかります?この乙女心」
「乙女……心……!」
真木の「やりたいなー」という乙女な口調に、絶対美奈子はそんな言い方しないとわかっておりつつも、ちょっとハートを射抜かれた一輝である。しかしすぐぶんぶん首を横に振る。
「小生のようなそんな、ヒーヒー言いながら多汗水垂らして七転八倒格闘している醜いデブなどと一緒に運動したいと思うはずが……」
「僕は及川さんカッコいいと思います」
「はい?」
聞いたこともない単語が自分の苗字の後に付いていて、一輝は空耳に訊き返す。
「僕は及川さんのことカッコいいし可愛いと思っています」
「……ま、ま、真木先生!真木先生だけは小生のことを揶揄わないと信じていたのに……!」
真顔で言う真木に照れと傷心で一輝はますます早口でまくし立てる。だが真木はなお真面目な顔をしたまま続けた。
「及川さんは健康状態に問題があるわけでもないのに、榊原さんに男として見て欲しくて肉体改造に励んでる。そこがすごく健気で可愛いと思いますし、ジムもサボらないで続けてて、辛い筋トレも物凄く頑張ってるカッコいい男だと思います」
「……それは、ただ、月謝がもったいなく……」
うつむいてなおもぼそぼそと一輝は続ける。
「頑張ってる及川さんはカッコいいって言ってる僕を、及川さんは否定するんですか?」
「え」
一輝は思わず顔を上げた。そこには寂しそうな真木の微笑みがあった。
「及川さんと一緒にいたいって言ってる榊原さんも、否定しちゃうんですか?」
「そんなことは……」
言ってないのでは榊原殿は、と言いたいのはやまやまだが、真木の寂し気なほほ笑みが言わせてくれない。
「いきなり告白するのが無理なら、まずは一緒にトレーニングから始めてみてはどうですか?榊原さんはほぼ毎日いらしてますよ、及川さんを探しに」
一輝はすっかり汗をかいてびしょびしょになったジョッキの取っ手を、ぐぬぬと握り締めた。
「及川さーん!やっと会えました!」
クロストレーナーをえっほえっほと踏みつけていた一輝は、目を輝かせて駆け寄ってくる美奈子に思わず見とれた。身体にぴったり沿ったセットアップのスポーツウェアに同じ色のブルーのシューズ。長い黒髪はご機嫌な馬の尻尾のように後ろで弾んでいる。美奈子の周りにキラキラと輝く脳内エフェクトに助けられながら、一輝は一瞬顔を出しそうになった煩悩をぐっと下丹田に抑え込んだ。
「おお、榊原殿。ご無沙汰しております」
「本当ですよ。最近一緒にカフェ巡りもしてくださらないから」
カフェ巡り。と、それぞれ横についていた真木や菅生だけではなく、まわりでトレーニングをしていた会員たちも心の中で反芻する。
「いよいよ始まったんですよ、期間限定の」
美奈子は一輝に近寄ると、耳を寄こせと手を招く。招かれるまま美奈子に顔を近づけると、美奈子は一輝の耳の中に吐息のように囁いた。
「ハレ禁カフェの羽林軍フェア」
フェア~、のときの抜け感にたちまち腰が抜けそうになった一輝であるが、すぐに美奈子がはしゃいでくれたことでなんとか足を踏ん張って耐える。
「もー、楽しみで楽しみで!」
「そ、それは確かに楽しみでござるな……」
腕に力を込めなんとか体制を保ちながら、一輝は震える声で会話を続けようとする。
「タイシンメニューも何か新しいものが出るのですか……?」
「はい。今回は羽林軍が主役なのでメインキャラクターたちのメニューはドリンクかデザートだけなんですけれど、お付き合いいただけます?」
まさか絶対断らないですよね?という圧さえ感じさせる笑顔で美奈子は首を傾げているように見える。一輝だけではなく、真木にも菅生にも、周りの会員たちにもその圧は感じられ、ちょっとした緊張がジムを取り巻く。
「え、ええ、もちろん。今週末にでも……」
「よかった~。また断られたらどうしようかと思いました」
断ったことあるんだ、という驚きの空気がジムの中に渦巻く。最近やたら足蹴く通ってきている美女が、今日は来るなり野暮ったいお兄ちゃんに親し気に声を掛けたのにも驚いたのに、なんか美女の方からデートに誘っているし、断ったことがあるみたいな話してるし。各々、誰一人声を発する者はいなかったが、家に帰って、あるいは明日会社で学校で誰かに話すネタがひとつできたと心の中で話す構成を皆、練りに練りまくっていた。
「あ、隣いいですか?」
「ああ、どうぞどうぞ」
いささか焦り気味に一輝は返事をする。美奈子はそそくさとマシンに乗ると、ご機嫌で足を動かし始めた。ずっと喋り続けることはなかったが、たまにぽつぽつと美奈子が話題を振ってくる。新刊が出た漫画のこと、今週のアニメのこと。いつもの美奈子ならもっと口数が多いはずだが、やはりトレーニングジムではお互い話辛い内容だと思ったのか、それとも、息の上がっている一輝を慮ってか。
「だいぶ息上がってきちゃいました。お水飲みません?」
たまに一輝を覗き込んでくる美奈子のむき出しの肩を、後ろ頭の高い位置で結んだ長い黒髪がさらりと覆い隠す。
美しい人だな、と思う。優しい人だな、とも思う。
このように美しくて優しい人が自分のような一介の太ったオタクを構ってくれるのは、ひとえに自分が性に対して非常に消極的な人畜無害の人間だからに過ぎない。
もしそんな、人畜無害だと思っていた人間が自分のことを性的に見ていたなどと知ったら、美奈子はどれだけ傷つくのか。
「次、どれにします?」
できれば一緒にできるのがいいなあ、などと並んでいるマシンを探している美奈子を見て、一輝は「あれにしましょう」と歩きながら誘った。
「背中合わせになっちゃいますけど、同じのですよ」
次の朝、一輝は夢精した。
すみません、週末は用事ができましたと、予定をキャンセルするメッセージを美奈子に送った。
ごめんなさい、と一輝はひと言書き添えた。




