自主練
俺はなんとか気を取り直し、話を本題に戻すことにした。
「それでさ、綾音はどんな練習をしようと思ってるんだ?」
「ああ、そうだね……まずは昨日の復習かな」
綾音はベッドの上で姿勢を正しながら言う。
「昨日は練習用の弓を持ったばかりだったから、ちゃんとした型を覚えるために、射法八節を丁寧にやろうと思ってる」
「射法八節……昨日も教わったけど、あれをちゃんと身につけるのが大事なんだよな」
俺は昨日の練習を思い出しながら頷く。
射法八節とは、弓を引き、矢を射るまでの一連の動作のことだ。
一、足踏み(足を肩幅に開く)
二、胴造り(姿勢を正しく整える)
三、弓構え(弓を持ち、矢をつがえる)
四、打起し(弓を持ち上げる)
五、引分け(弓を引いていく)
六、会(十分に引き絞った状態を保つ)
七、離れ(弦を放して矢を放つ)
八、残心(射た後の姿勢を保つ)
俺たちは昨日、先輩にこの動作の重要性を教えられ、何度も繰り返し練習した。
「特に『足踏み』から『胴造り』がまだぎこちないから、しっかりやりたいな」
綾音はそう言いながら、床に降りて立ち上がると、軽く足を開いて動きを確認し始めた。
「なるほど……俺も一緒にやるか」
俺も立ち上がり、綾音の動きを真似するように足を開く。
「それと、弓を持っての動きも慣れたいから、代わりにタオルとか棒を使って、実際に引く動作をするのもいいかも」
「たしかに、その方が感覚をつかめそうだな」
「うん、それに何度も繰り返せば、実際に弓を持ったときにスムーズに動けるようになると思うんだ」
綾音は真剣な表情で話す。
「意外としっかり考えてるんだな」
俺がそう言うと、綾音は少しむっとした顔をした。
「意外とってなに!? 真面目にやる気だもん!」
「悪い悪い、そういう意味じゃなくて」
俺は苦笑しながら手を振る。
「でも、綾音がそんなに真剣だと、俺も気を引き締めないとな」
「でしょ? 一緒に頑張ろうね!」
綾音はニッと笑いながら、軽く拳を突き出した。
俺もそれに応えるように拳を合わせる。
こうして、俺たちの自主練の内容が決まった。
「じゃあ、早速やってみるか」
俺は姿勢を正し、昨日の練習を思い出しながら足を開いた。綾音も同じように足踏みの姿勢をとる。
「うん、まずは射法八節の流れを確認して……」
綾音がそう言いかけたそのとき——
「綾音〜! ご飯できたわよー!」
廊下の向こうから綾音の母親の明るい声が響いた。
「あっ……」
綾音はその声にピタッと動きを止めると、バツが悪そうに俺の方を見た。
「……ご飯、先にしちゃう?」
「まあ、せっかくだし、お腹空いたしな」
俺も苦笑しながら頷いた。正直なところ、練習の前に腹ごしらえするのは悪くない。
「じゃあ、行こっか」
綾音はそう言って部屋の扉を開け、俺も後に続いた。
こうして俺たちは、一旦練習を中断し、綾音の母親が用意してくれた昼ご飯を食べることになった。
綾音の母親が用意してくれた昼ご飯は、焼き魚に味噌汁、それに炊きたてのご飯と漬物が並ぶ和食だった。
「いただきます!」
俺と綾音は揃って手を合わせ、箸を取る。焼き魚を一口食べると、香ばしい香りと塩加減がちょうどよく、ご飯が進む味だった。
「おいしい!」
思わず声を上げると、綾音の母親が嬉しそうに笑った。
「ふふ、ありがとうね。たくさん食べてね」
「ありがとうございます!」
俺が感謝を伝えると、綾音も頷きながら味噌汁をすすった。
「それで、さっきの話の続きだけど……」
綾音は箸を動かしながら話し始める。
「私たち、まだ弓を触れるところまではいってないけど、やっぱり射法八節がちゃんとできるようにならないと、実際に弓を引いたときに変な癖がついちゃうんだって」
「なるほどな……基本が大事ってことか」
俺もご飯を口に運びながら相槌を打つ。
「うん。だから、早く弓を引きたいって気持ちはあるけど、今の基礎練習をしっかりやるのが大切なんだよね」
綾音は真剣な顔をしながら言った。
「確かに、俺も早く弓を引いてみたいけど、焦っちゃダメなんだろうな」
「そうそう。先輩たちも、基礎がしっかりしてる人ほど綺麗な射になるって言ってたし」
綾音は箸を置いて、お茶を一口飲む。
「それに、私たちもいつか大会に出ることになるかもしれないしね」
「大会か……そういうのもあるんだな」
「うん! 高校の弓道部って、大会を目指すところも多いんだよ。うちの部活も、先輩たちは大会でいい成績を残してるし」
「へえ、それはすごいな」
「だから、私たちも頑張らないと!」
綾音はやる気に満ちた笑顔を見せた。その姿に、俺も自然と気が引き締まるのを感じる。
「……よし、俺も頑張るか!」
「うん! 一緒に強くなろうね!」
そんな話をしながら、ご飯を食べ終えた。食後のお茶を飲みながら、俺たちは一息つき、午後の練習に向けて気持ちを整えるのだった。
食事を終え、俺たちは「ごちそうさまでした」と綾音の母親にお礼を言った。
「ふふ、またいつでも食べに来てね」
綾音の母親は優しく微笑んだ。
「ありがとうございます」
そう返して、俺たちは綾音の部屋へと戻った。
部屋に入ると、昼食の間に練習への気持ちが少し緩んでしまったのか、俺は軽く伸びをする。
「よし、気を引き締めて、練習の続きをしよう」
「うん!」
綾音も気合いを入れ直し、二人で並んで座る。
「まずはさっきの続きからね。射法八節の動きを、今度はもっと意識してやってみよう」
綾音の言葉に頷きながら、俺は立ち上がった。
「足踏み」
肩幅より少し広めに足を開く。体のバランスを整え、安定した姿勢を意識する。
「胴造り」
背筋を伸ばし、体の中心を意識しながら、正しい姿勢を作る。
綾音も隣で同じ動作をする。二人で鏡を見ながら、姿勢のチェックを行った。
「次は、弓を持っているつもりで動きをやってみよう」
綾音が言いながら、空の手で弓を持つ動作をする。俺もそれに倣い、手のひらに弓の重みを想像しながら動かした。
「やっぱり、実際に弓を持たないと違和感あるな」
「うん。でも、動きを覚えるには大事だからね」
そう言いながら、綾音は慎重に動きを確認していた。俺もできるだけ正確に再現しようと意識する。
「大三から引分け……」
腕を広げ、弦を引く動作をしてみる。自然と息を止めてしまうが、綾音がすぐに指摘してきた。
「息を止めちゃダメだよ。呼吸は自然に」
「あ、そうだったな」
もう一度やり直し、今度は息を整えながら弦を引くイメージをする。
「……よし、こんな感じか?」
「うん、いい感じ! その調子で、離れの動作もやってみて」
俺は指の力を抜くように意識しながら、弓を放つ動きを再現する。
「……ふぅ」
実際には矢を放っていないのに、不思議と緊張感があった。
「悪くないね。でも、もっと滑らかに動けるといいかも」
「綾音は結構慣れてるな」
「小さい頃から弓道に興味あったからね。こういう動きは何度も真似してたんだ」
誇らしげに笑う綾音を見て、俺も負けてられないなと改めて思った。
「じゃあ、もう少し繰り返してみようか」
「うん!」
こうして俺たちは、部活で学んだ基礎を少しでも身につけるために、何度も何度も射法八節の動きを繰り返した。
気がつけば、すっかり夕方になっていた。
「そろそろ帰らないとな」
俺が時計を見てそう言うと、綾音も「あっ、本当だ」と驚いたように呟いた。
「なんだかんだで、時間が経つの早かったね」
「そうだな。集中してたし、いい練習になったよ」
俺がそう言うと、綾音は嬉しそうに微笑んだ。
「また家で練習することもあるだろうし、連絡先交換しない?」
綾音がスマホを取り出しながら提案してきた。
「そうだな、交換しとくか」
俺もスマホを取り出し、綾音とお互いの連絡先を交換する。
「よし、これでバッチリだね!」
綾音は満足そうに画面を見ていた。俺も連絡先の一覧に綾音の名前が追加されたのを確認する。
「じゃあ、また月曜日な」
「うん、気をつけて帰ってね!」
玄関先で綾音の母親に挨拶をして、俺は家に帰ることにした。
***
家に帰ってシャワーを浴び、夕飯を食べた後、布団の上でスマホをいじっていると、画面に新着メッセージの通知が表示された。
送り主は綾音だった。
『今日の練習、楽しかったね!また一緒にやろうね!』
俺は思わずクスッと笑いながら返信する。
『そうだな。次もよろしく』
送信すると、すぐに既読がついた。そして、少ししてまたメッセージが届く。
『月曜日の部活も楽しみだね!』
俺はしばらく画面を見つめた後、
『そうだな、今度こそ弓を引けるといいな』
と返信した。
綾音とのやり取りは短いやり取りだったが、なんとなく心が温かくなる気がした。
「さて、そろそろ寝るか……」
スマホを置いて布団に潜り込む。
今日の練習を思い出しながら、俺は静かに目を閉じた。