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弓の軌跡  作者: マイト
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静寂の中の一射

道場の入り口に足を踏み入れると、そこには先輩たちの姿はなく、広い空間の中央にただ一人、部長が立っていた。


 弓を構え、静かに息を整えている。


 俺たちは自然と足を止め、その姿を見つめた。


 部長は弓道部の最上級生で、いつも冷静で落ち着いた雰囲気を持っている女性だ。普段は穏やかに後輩たちを見守っているが、こうして弓を引く姿は、どこか神聖な空気をまとっていた。


 足踏み——両足を肩幅に開き、しっかりと地に根を張るように立つ。


 胴作り——身体の軸を整え、まるで一本の木のようにどっしりと構える。


 弓構え——静かに弓を持ち、矢を番える。


 その所作には、無駄な動きが一切なかった。


 「……すごい」


 隣で綾音が小さく呟いた。俺も同じ気持ちだった。


 部長の動きは、ただの技術ではなく、まるで一つの流れのようだった。ゆっくりと弓を持ち上げ、弦を引いていく。腕の力だけではなく、全身を使って引くその姿には、一切の迷いがなかった。


 かい——矢を放つ直前、張り詰めた静寂が道場を包む。


 そして——


 離れ


 空気が震え、矢は一直線に的へと吸い込まれていく。


 バシンッ!


 的の中心に矢が突き刺さった音が響き、俺たちは息をのんだ。


 「……完璧だ」


 誰が言うでもなく、そう感じた。部長は矢の行方を確認することもなく、ただ静かに残心の姿勢を保っている。その佇まいすら美しかった。


 「おはよう」


 部長はようやく俺たちに気づいたのか、矢を取りに向かう途中で声をかけた。


 「お、おはようございます!」


 俺と綾音は慌てて頭を下げる。


 「朝早くから偉いね。少ししたら他の先輩も来るから、それまで準備をしていて」


 穏やかに微笑む部長の姿に、先ほどまでの静寂が嘘のように感じられた。


 俺たちは頷きながらも、まだ心の中に先ほどの一射の余韻が残っていた。


 いつか、俺たちもあんな風に弓を引けるようになれるのだろうか。


 そう思いながら、道場の掃除を始めるのだった。


道場の掃除を終え、ほうきを片付けると、まだ部活開始まで少し時間があった。


 俺たちはふと視線を上げる。道場の中央では、先ほどと同じように部長が一人、静かに弓を構えていた。


 雑談をする気にもなれず、自然とその姿を眺めてしまう。


 部長の動きには一切の無駄がない。ゆっくりとした所作の中に、流れるような美しさが宿っている。


 「……昨日、先輩たちが練習しているのを見た時も思ったけど、やっぱりすごいね」


 隣で綾音が小さく呟く。


 「うん。まるで……何かの儀式を見てるみたいだ」


 俺の言葉に、綾音は「確かに」と頷く。


 部長は弓を持ち上げ、静かに弦を引いた。


 まるで時間が止まったかのような静寂——いや、違う。時間が止まったのではなく、部長の集中によって周囲の空気が張り詰めているのだ。


 弦を引き絞り、限界まで力を込めたその瞬間——


 「……はっ!」


 矢が放たれ、一直線に飛ぶ。


 バシンッ!


 的の中心に吸い込まれるように矢が突き刺さった。


 俺も綾音も息をのむ。部長は矢の行方を気にすることなく、そのまま残心の姿勢を保ち、静かに弓を下ろす。


 まるで一本の弓を引くことで、自分自身をも整えているかのようだった。


 「……なんか、見てるだけで緊張するね」


 綾音が小さな声で言う。俺も無言で頷いた。


 弓道はただ的を射るだけではない。動作の一つ一つに意味があり、そこには技術だけでなく精神が宿っている。


 俺たちはただ部長の射を眺めながら、いつか自分たちもこうなれるのだろうかと、静かに思いを巡らせていた。


 やがて道場の扉が開き、他の先輩たちが入ってくる。


 いよいよ、今日の練習が始まる時間が近づいていた。


道場に先輩たちが集まり、いよいよ今日の練習が始まった。


 まずは、これまで学んだ基礎の振り返りから。


 足踏み、胴作り、弓構え——一つ一つの動作を確認しながら、正しい姿勢を意識する。


 「昨日よりはスムーズにできるようになった……かな?」


 隣で綾音が小さく呟く。俺も同じことを思っていた。最初はぎこちなかった動きも、少しずつ体に馴染んできた気がする。


 「悪くないね。じゃあ、次の段階に進もうか」


 指導にあたっていた先輩がそう言うと、俺たちは思わず顔を見合わせた。


 「ついに……」


 綾音が小さく興奮気味に呟く。


 そして先輩が取り出したのは、練習用の弓だった。


 「まずはこれを使って、基本の動きを弓を持った状態でやってみよう」


 手渡された弓は、想像していたよりも軽かった。それでも、実際に持ってみると、その長さと形状にまだ慣れない感覚がある。


 「弓の持ち方はこう。右手は弦にかける指の形が重要。左手は弓をしっかりと支えるけど、力を入れすぎないように」


 先輩の説明を聞きながら、慎重に構えてみる。


 「うーん……やっぱり持つだけでも難しいね」


 綾音が弓を構えながら苦戦しているのがわかる。


 「最初はみんなそうだよ。だから、焦らずじっくり練習しよう」


 先輩の言葉に頷きながら、俺も弓を持った状態で動作を確認する。


 足踏み、胴作り、弓構え——


 これまでやってきた動きに弓が加わるだけで、一気に難易度が上がる。


 けど、それが楽しい。


 ついに、本格的な弓道の練習が始まったのだと実感しながら、俺たちはひたすら基本の動作を繰り返した。


「はぁー……やっと休憩」


 練習用の弓を置き、俺は軽く肩を回した。


 「弓を持つだけでこんなに大変だとは思わなかったね」


 隣で綾音が息をつきながら、手のひらをじっと見つめる。弦を引く動作はまだ練習していないけれど、慣れない弓を扱うだけで腕にじわじわと疲労が溜まるのを感じていた。


 「でも、やっと弓を持てたし、少しずつ弓道らしくなってきた気がする」


 俺がそう言うと、綾音は嬉しそうに「だね」と笑った。


 道場の外に出て、吹き抜ける風を感じながら水を飲む。心地よい疲れが体に広がるが、それよりも、少しずつ前に進んでいるという実感が嬉しかった。


 そんな時、ふと視線を感じて顔を上げる。


 部長がこちらに歩いてきていた。


 「少し、いいかな?」


 俺たちは慌てて姿勢を正す。


 「は、はい!」


 「そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ」


 部長は優しく微笑むと、俺たちの前に立ち、静かに言葉を紡いだ。


 「今日の練習のことじゃなくて……さっき、私が練習しているところを見ていたでしょう?」


 俺と綾音は顔を見合わせる。確かに、練習が始まる前にずっと部長の射を見ていた。


 「どうだった?」


 部長の言葉に、俺たちは少し考えてから口を開いた。


 「すごく……綺麗でした」


 俺の言葉に、綾音も大きく頷く。


 「弓を引く動きが、すごく自然で、まるで流れる水みたいに見えました」


 部長は少し目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。


 「ありがとう。でもね、それは私が長い時間をかけて積み重ねてきたものなの。最初からうまくできる人なんていないし、焦る必要はないよ」


 俺たちは黙って頷く。


 「ただ、一つだけ覚えておいて。弓道は技術だけじゃない。自分の心と向き合うことが大事なの」


 部長の言葉は、まだ弓をまともに引いたことのない俺たちには、少し難しく感じた。


 「それがどういう意味なのか、きっとこれからの練習で少しずつ分かってくると思う」


 そう言うと、部長は軽く会釈して、道場の方へ戻っていった。


 「……なんだか、すごいことを教えてもらった気がする」


 綾音がそう呟く。俺も同じ気持ちだった。


 まだ始めたばかりで分からないことばかりだけれど、きっとこの道の先に、部長のような境地が待っているのだろう。


 そのためにも、もっと練習しよう。


 俺は改めて心に誓いながら、残りの休憩時間を過ごした。


休憩時間が終わり、俺たちは道場へと戻った。


 「よし、それじゃあ練習を再開しようか」


 先輩の声が響き、俺たちは整列する。部長の言葉がまだ心の中に残っているが、今は目の前の練習に集中しなければならない。


 今日の練習は、さっきまでやっていた基本動作の確認から再開した。


 足踏み、胴作り、弓構え——


 弓を持つだけで難易度が上がるが、休憩前の練習で少しは慣れてきた。先輩たちは俺たちの動きをじっくりと見ながら、時折アドバイスをくれる。


 「肩に力が入りすぎてるよ。もっと自然に」


 「左手で弓を支えるとき、親指と人差し指のバランスを意識して」


 ひとつひとつの動作を丁寧に修正しながら、俺たちは繰り返し練習する。


 隣で綾音も真剣な表情で弓を構えていた。俺も負けていられない。


 「じゃあ、次は弦の引き方に入ろうか」


 先輩の言葉に、俺たちは一瞬驚いた。


 「ついに……」


 綾音が小さく呟く。


 「とはいえ、まだ実際に矢をつがえて射るわけじゃないからね。今日はまず、引く感覚に慣れることが大事」


 先輩が見本を見せながら説明する。


 「弓を引くときは、ただ力任せに引くんじゃなくて、全身を使って引くんだ。特に肩甲骨を意識して、弓を広げるように引くことが大切」


 俺たちは言われた通りに弓を構え、ゆっくりと弦に手をかける。


 指の形を確認し、息を整えながら引いてみる——が、思ったよりも硬い。


 「うっ……結構、力がいる……」


 「そうだね。でも、無理に腕の力だけで引こうとすると、変な癖がついちゃうから注意して」


 先輩がそう言いながら、俺たちの姿勢を修正してくれる。


 「そうそう、肩甲骨を意識して……そうすると、少し楽にならない?」


 「……あ、本当だ」


 言われた通りに意識してみると、少しだけスムーズに引けるような気がした。


 「まだまだぎこちないけど、初めてにしては悪くないよ」


 先輩の言葉に、少しだけ自信がつく。


 「じゃあ、その感覚を忘れないように、何度も繰り返してみて」


 俺と綾音は何度も弦を引きながら、弓の感覚を体に染み込ませていく。


 まだ矢を射ることはできないけれど、こうやって少しずつ弓道の世界に踏み込んでいる実感があった。


 この先、もっと上手くなれるように。俺は今日の練習に全力で取り組むと決めた。

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