弓を持たぬ1日
弓道場に集まった新入部員たち。俺たちは今日から正式に弓道部の一員としての第一歩を踏み出す……はずだった。
しかし、顧問の先生が最初に告げたのは意外な言葉だった。
「それでは、新入部員の皆さん、今日から弓道を学んでいきます。でも、いきなり弓を引かせるわけにはいきません」
「え?」
思わず声が漏れる。弓を引くために入部したのに、最初から触れないのか?
「弓道は形を重んじる武道です。基本の姿勢や動作ができていなければ、いくら弓を持っても正しく引くことはできません。まずは道着の着方、立ち方、座り方、歩き方、そして射法八節を覚えてもらいます」
そう言われても、正直ちょっと拍子抜けだった。弓を手にするのはもっと後になりそうだ。
「まあまあ、基礎が大事ってことだよね」
隣にいた彼女が小さく笑いながら囁く。
「……そうだな」
納得はできなくても、やるしかない。
まず最初に教えられたのは、弓道の正式な服装である道着と袴の着方だった。
道着は柔道着に似た上衣で、袴はスカートのように見えるが、実はズボン状になっている。男女で若干の違いはあるが、着付けの基本は同じだ。
「道着の襟は左を上にすること。右が上になってしまうと、死者の着物の着方になってしまいます」
道場の先輩が、実演を交えながら説明してくれる。
「袴の前紐を腰骨の位置で結び、後ろの帯をしっかり固定する。袴が崩れると所作が乱れるので、ここはしっかりと締めること」
着慣れない服に少し戸惑いながらも、先輩の指導のもと、なんとか形になってきた。
「意外と難しいな……」
「うん。でも、こういうのってちゃんと形から入るの、大事な気がする!」
彼女はそう言って、きっちりと袴を整えていた。やけに手際がいい。
「経験者みたいにスムーズだな」
「兄が弓道やってたから、袴の着方だけは見よう見まねで覚えたんだよね」
なるほど、やはり慣れている人は違う。
次に教わったのは、弓道における基本動作。
「まずは立ち方から。背筋を伸ばし、足を肩幅に開く。頭のてっぺんから一本の糸で引かれているような感覚を持って」
言われた通りに立つ。普段何気なく立っているのとは違い、意識して立つと不思議と気持ちが引き締まる。
「次に座り方。弓道では『正座』と『立射の座り方』の二つがあります」
正座はともかく、「立射の座り方」というのは初めて聞いた。
「立射では、足をハの字に開いた状態でしゃがみ、膝を床につけずに座ります」
実際にやってみると、思った以上にバランスを取るのが難しい。
「これ、めっちゃキツいんだけど……」
「わかる! こんなに足の筋肉使うんだね」
彼女も苦笑いしながら座り直している。
その後、歩き方も教わった。弓道では「すり足」と呼ばれる独特な歩き方をする。
「腰を落とし、足を滑らせるように進む。足を浮かせて歩くと、身体がブレてしまうので注意」
まるで能や歌舞伎のような動きだったが、これが弓道の基本らしい。
そして最後に教わったのが、弓道の最も重要な動作である**「射法八節」**だった。
射法八節とは、弓を引き、矢を放つまでの一連の動作を八つの工程に分けたものだ。
1. 足踏み(両足を適切な幅に開く)
2. 胴造り(姿勢を正しくする)
3. 弓構え(弓を持ち、矢を番える)
4. 打起し(弓を持ち上げる)
5. 引分け(弦を引き、弓を開く)
6. 会(引ききって止まる)
7. 離れ(矢を放つ)
8. 残心(射の余韻を残す)
「今日はまだ弓を持たず、体の使い方を覚えてもらいます」
先輩の指導のもと、俺たちは弓を持たずに動作の練習をした。
「足を踏み出す位置を意識して……そう、背筋を伸ばして」
「胴造りのとき、肩の力を抜くといいですよ」
弓も矢もない状態なのに、これだけでじんわりと汗がにじむ。動作ひとつひとつに集中すると、想像以上に体力を使うことが分かった。
「ねえ、こんなに難しいものだったんだね……」
隣で同じく練習していた彼女が、息を整えながら呟く。
「ほんとにな。テレビで見たときは、もっと簡単そうに見えたんだけど……」
「でも、だからこそ美しいのかも」
彼女の言葉に、俺はハッとした。
確かに、流れるような動作の美しさの裏には、こうした細かい動作の積み重ねがあるのだろう。
こうして、俺たちの弓道部初日は、弓を持つことなく終わった。
「いきなり弓を引くわけじゃないっていうのは意外だったけど……でも、やっぱり弓道って奥が深いんだな」
「ね! 早く弓を持ってみたいけど、その前にちゃんと基本を覚えないとね」
明日もまた、基本の練習が続くだろう。でも、その先にある「弓を引く瞬間」を思うと、俺の胸は高鳴っていた。
弓を持たずに終えた初日。俺たちは道場の掃除を終え、部活を締めくくるために先輩たちに挨拶をした。
「ありがとうございました!」
響く声とともに、一日の練習が終わった。思っていた以上に、弓道は細かい動作と集中力を求められるものだった。
道場を出ると、夕焼けが空を染めている。
「ふぅ……初日からなかなか大変だったね」
隣からそんな声が聞こえた。声の主は、今日一日を共に過ごした桜井 綾音。
「確かにな。でも、基本を覚えないと弓も引けないからな……早く弓を持ってみたい」
「うん、私も!」
綾音は屈託のない笑顔を見せた。お互い初心者だが、同じ目標を持っている仲間がいるのは心強い。
「そういえば、お前どっちの方向?」
「ん? あ、そういえば聞いてなかったね」
綾音はくるりと振り返り、俺を見た。
「私ね……隣の家だよ?」
「は?」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
「えっ、マジで?」
「うん。え、気づいてなかったの?」
綾音はくすっと笑う。言われてみれば、どこかで見たことがある気がする。最近、隣に引っ越してきた家があったが、まさか同じ高校で、同じ部活に入るとは思わなかった。
「いや、気づかなくてごめん。最近引っ越してきたのは知ってたけど、まさかお前だったとは……」
「ふふ、私もびっくり。こんな偶然あるんだね」
苦笑しながら並んで歩き始める。
「それにしてもさ、初日の感想は?」
「そうだな……思ってたよりも姿勢とか歩き方とか、細かいところが大事なんだなって思った」
「うんうん! 正座の時間、結構きつくなかった?」
「めちゃくちゃ足痺れた……」
「だよね! 私も途中でヤバかったけど、先輩たちは普通にしてたよね。すごいなぁ」
綾音は感心したように頷く。
「これから毎日続けたら、俺たちも慣れるんだろうな」
「うん、頑張ろうね!」
そうして、俺たちは並んで歩き続けた。
やがて家の前に到着する。
「それじゃ、また明日ね!」
「おう、また明日」
綾音は軽く手を振り、隣の家の玄関へと向かった。
まさかこんな形で新しい関係が始まるとは思わなかった。
これからの弓道生活が、少しだけ楽しみになる。