新人戦への道
部長から新人戦の話を聞いてから、俺たちはさらに気を引き締めて練習に励むことになった。
「……よし、もう一回!」
俺は弓を構え、的を見据える。今まで何度も放ってきたはずなのに、毎回緊張する。呼吸を整え、弦を引き絞る。そして——放つ。
シュッ——
矢は一直線に飛び、的の端にかすった。
「うーん……もう少し狙いを修正した方がいいかな……」
「でも、前より確実に当たるようになってるよ」
隣で綾音が微笑んだ。彼女もこの数日で明らかに成長している。初めて的に当てた日から、少しずつ成功率が上がり、今では五本に一本はしっかりと的に当たるようになっていた。
「綾音もすごいよ。最初は全然当たらなかったのに、今じゃ俺よりもいい成績出せるんじゃないか?」
「そ、そんなことないよ! まだまだ全然ダメだし……」
そう言いつつも、彼女の表情はどこか誇らしげだった。
俺たちは放課後の時間を惜しむように練習を続けた。的に当たるたびに少しずつ自信がついていき、外しても次の改善点が見えてくる。
新人戦まで、あと三週間。
まだまだ時間はある。俺も綾音も、確実に成長していた。
練習を続ける中で、俺はふと綾音の方に視線を向けた。
彼女は真剣な表情で的を見つめ、弓を構えている。静かに息を整え、ゆっくりと弦を引く。その仕草には迷いがなく、以前よりもずっと洗練されているように見えた。
(……綺麗だな)
綾音が矢を放つ瞬間、まるで時間が止まったような感覚に陥る。彼女の凛とした横顔、集中した瞳、しなやかな指先——そのすべてが、美しくて見惚れてしまう。
シュッ——
矢が放たれ、的の端に命中する。綾音は小さく息を吐き、弓を下ろした。
「……ふぅ、やっと少しずつコツが掴めてきたかも」
「……あ、ああ。すごいな、お前」
不意に声をかけられたことで我に返り、慌てて言葉を繋ぐ。綾音が不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
危なかった。無意識のうちにじっと見つめていたなんて、絶対に言えない。顔が熱くなるのを感じながら、俺は慌てて自分の練習に戻ることにした。
弓を構え、矢を番える。しかし、どうも感覚がしっくりこない。さっきまでの感覚とは微妙に違っていて、矢を放つ前から外れる予感がしてしまう。
「ちょっと待って」
そう言うと、綾音が俺の前に立った。
「腕の角度、少しずれてるよ。こうやって……」
そう言いながら、綾音は自然な仕草で俺の腕に手を添え、角度を修正してくれた。
(……近いっ!)
彼女は至って真剣なのだろう。でも、こっちは違う。
肩に触れる指先の感触、すぐそばから聞こえる彼女の息遣い。しかも、視線を動かせば、すぐ目の前に綾音の顔がある。
「こんな感じ……わかった?」
あまりにも自然に触れてくる綾音に対し、俺は妙に意識してしまい、言葉がうまく出てこない。
「え、あ、あぁ……」
「本当にわかってる? じゃあ、そのまま引いてみて」
言われた通りに弓を引こうとするが、どうにも集中できない。心臓の鼓動が早すぎて、手に力が入らない。
(落ち着け……落ち着け……!)
「……?」
綾音が不思議そうに首を傾げる。どうやら俺が動揺していることには気づいていないらしい。
「ほら、ちゃんと狙って。気を抜いたらまたズレるよ?」
言いながら、彼女はさらに俺の手を調整するため、指を絡めるようにしてくる。
(無理だろ、これ……!)
こんな状態でまともに矢を放てるわけがない。意識を逸らそうとしても、綾音のぬくもりが妙に気になってしまい、全く集中できなかった。
「ここ、もうちょっと肘を上げたほうがいいかも」
そう言いながら、綾音がさらに俺の腕を調整しようと、前かがみになる。
(ちょ、ちょっと待て……!)
意識しないようにしていたのに、視界の端に入る危うい光景に思わず目を見開く。
綾音の道着の襟元がわずかに開き、そこからちらりと肌が見えかけていた。深くは見えないものの、あと少し視線を動かせば――。
(いやいやいや! 俺は何を考えてるんだ!)
慌てて視線を逸らし、無理やり弓に集中しようとする。しかし、綾音のぬくもりと、わずかに香る彼女のシャンプーの匂いがさらに俺を惑わせる。
「よし、こんな感じかな。じゃあ、狙って――」
綾音は真剣そのものだが、こっちはそれどころじゃない。
(やばい、全然集中できない……!)
矢を引こうとするが、手が震える。まるで初心者に戻ったような感覚だ。
「ん? どうかした?」
綾音が不思議そうに俺の顔を覗き込む。その距離の近さに、俺の心臓はさらに速くなった。
「い、いや、なんでもない……!」
とにかく、この状況から抜け出さないと集中どころの話じゃない。俺は必死に気を引き締めようとするが、綾音の無自覚な仕草に振り回されっぱなしだった。
「おーい、今日はここまでにしようか。」
顧問の声が道場に響く。
(助かった……!)
俺は心の中で安堵の息をつく。正直、このまま練習を続けていたら、まともに矢を放つことすらできなかったかもしれない。
「え、もう終わり? まだ練習できるのに……」
綾音は少し不満そうにしているが、俺にとってはまさに救いの言葉だった。
「仕方ないよ。明日もあるし、今日はこのくらいにしておこう。」
そう言いながら弓を片付け、深く息を吐く。心臓の鼓動はまだ速いままだったが、なんとか落ち着きを取り戻しつつあった。
「じゃあ、帰ろっか。」
綾音に声をかけられ、俺は頷く。練習が終わったことにほっとしつつも、まだ綾音のぬくもりが残る腕を無意識にさすってしまうのだった。
部活を終え、道場を後にする。外はすっかり夕暮れに染まり、心地よい風が吹いていた。
「今日の練習、どうだった?」
綾音が隣で歩きながら話しかけてくる。
「まあ……なんというか、いろいろと大変だったな……」
「いろいろって?」
「いや、なんでもない。」
俺は誤魔化すように首を振った。本当のことなんて言えない。綾音にフォームを直されているとき、すごく近くに感じたこと、触れられたこと、そのせいでまともに集中できなかったこと……。
(なんか、妙に意識しちゃうな……)
そんなことを考えながら歩いていると、横で綾音が首をかしげる。
「なんか変だよ? 疲れてる?」
「いや、ちょっと考え事してただけ。」
そう言うと、綾音は「ふーん?」と納得したような、していないような微妙な表情を浮かべた。
それから少しの間、夕暮れの道を並んで歩き、途中で綾音と別れる。
「また明日ね!」
手を振る綾音を見送り、俺はそのまま家へと歩を進める。
(……明日も普通に接せるかな。)
そんなことを考えながら、俺は少しだけ熱くなった顔を冷ますように、夜風を浴びながら帰宅するのだった。




