湯気の向こうで
綾音は帰宅すると、すぐに母親から「今日は早めにお風呂に入りなさい」と言われた。
「わかってるよー」
返事をしながらも、まだ少しぼんやりした頭で制服を脱ぎ、バスルームへ向かう。
湯船に浸かると、じんわりと体の奥から温まっていくのを感じた。
「……はぁ」
自然と息が漏れる。今日一日を振り返ると、ため息をつきたくなるようなことばかりだった。体育の授業中に倒れてしまい、主人公に保健室まで運ばれて……。
「……恥ずかしいなぁ」
誰もいない風呂場で、ぽつりと呟く。
それに、目を覚ました時に主人公が寝ていたのを見た時——胸がドキドキしてしまった。
(ずっとそばにいてくれたんだよね……)
保健室のベッドの上で、彼の寝顔を見た時の気持ちがまだ残っている。今まで友達として一緒にいたはずなのに、今日はなんだか違って見えた。
「……なんで、こんなに気になるんだろ」
湯船の中で、自分の胸にそっと手を当てる。
昨日、一人で夜更かししてまで練習したのに、主人公の方はしっかり成長しているのに、自分はまだ結果を出せていない。悔しい気持ちもあった。でも、それ以上に——
「……バカみたい」
頬が熱くなるのはお風呂のせいだけじゃない。
綾音は頭まで湯に沈みながら、静かに目を閉じた。
お風呂から上がると、綾音は体を拭いてパジャマに着替え、ダイニングへ向かった。
食卓には母親が作った温かい夕飯が並んでいる。
「綾音、ちゃんと食べなさいよ?」
「うん……」
母親の心配そうな声に、小さく返事をしながら箸を動かす。
(今日は本当に色々あったな……)
体育の授業中に倒れてしまったこと、保健室で主人公がそばにいてくれたこと……。考えれば考えるほど、なんだか胸の奥がざわつく。
「……ごちそうさま」
食事を終えると、そのまま自分の部屋へ向かう。
(昨日みたいに練習しようかな……)
一瞬そんな考えが頭をよぎったが、主人公の「今日はすぐに寝ろよ」という言葉が思い出される。
「……そうだよね」
疲れがたまっているのは間違いない。昨日のように無理をすれば、また迷惑をかけるかもしれない。
綾音はベッドに横になり、深く息を吐いた。
(……明日から、また頑張ろう)
静かに目を閉じると、すぐに眠りの中へと落ちていった——。
綾音と別れ、自宅に戻った後、俺はベッドの上で天井を見つめながら考えていた。
(綾音……無理しすぎなんじゃないか?)
今日の体育の授業で倒れたのは、明らかに疲労のせいだった。保健室の先生もそう言っていた。
部活を始めてから、綾音はずっと頑張っていた。俺よりもずっと弓道に詳しいし、技術もある。でも最近は、どこか焦っているように見える。
(俺が成長してるのに、自分は……って思ってるのか?)
今日の練習でも、俺は的の端とはいえ矢を当てることができた。でも綾音は、当てることができなかった。その時の彼女の笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
(……俺にできることはなんだろう)
綾音は何かを抱えている。でも、それを誰にも打ち明けていない。
(もっと話を聞いてやればよかったか……)
そう考えているうちに、いつの間にか瞼が重くなり、俺もゆっくりと眠りへと落ちていった。
翌朝、玄関を出ると、すでに綾音が待っていた。
「おはよう!」
昨日の疲れが嘘のように、綾音はいつもの笑顔を浮かべていた。
「お、おはよう。大丈夫なのか?」
「うん、昨日はちゃんと早く寝たからね!」
元気そうな姿に安心しつつも、無理をしていないか少し心配になる。
「昨日、遅くまで練習してたんじゃないだろうな?」
「もー、してないってば!」
ぷくっと頬を膨らませる綾音を見て、思わず笑ってしまう。
「ならいいけどな。じゃあ行くか」
「うん!」
そうして俺たちは並んで歩きながら、学校へと向かった——。
授業は順調に進み、放課後になると綾音が俺の方を向いた。
「今日は部活ないし、どこか寄っていかない?」
「いいな、それ。どこ行く?」
綾音は少し考えたあと、嬉しそうに提案する。
「カフェとかどう? 甘いもの食べたいな〜」
「いいな、ちょっと休憩もしたいし」
俺たちは学校を出ると、近くのカフェへと向かった。
店のドアを開けると、コーヒーと焼きたてのパンの香ばしい香りがふわりと漂ってきた。
「うわぁ……いい匂い」
綾音が嬉しそうに鼻をくすぐる香りを堪能している。店内は落ち着いた雰囲気で、木目調のテーブルや柔らかい照明が心地よい空間を作り出していた。
「ここ、初めて来たけど、雰囲気いいね」
「そうだな。落ち着く感じで、ゆっくりできそうだ」
席に着くと、綾音はメニューをじっくりと眺め始めた。
「うーん、どれにしようかな……パンケーキもいいし、パフェも捨てがたい……」
「甘いのばっかじゃないか」
「だって今日は甘いもの食べる日だから!」
何の基準なのかは分からないが、綾音の中ではそう決まっているらしい。結局、彼女はふわふわのパンケーキと紅茶を注文し、俺はアイスコーヒーとシンプルなチーズケーキを頼んだ。
しばらくして、運ばれてきたパンケーキを見た綾音は目を輝かせた。
「わぁ……すごい、ふわふわ!」
ナイフを入れると、ふんわりとした生地が弾むように動く。その上にはたっぷりのメープルシロップとホイップクリームが乗っていて、見ているだけで甘さが伝わってくるようだった。
「いただきます!」
綾音はフォークでパンケーキを口に運び、一口食べると目を閉じて幸せそうに微笑んだ。
「ん〜、おいしい!」
「そんなにか?」
「うん! ふわふわで、甘くて……もう最高!」
俺も自分のチーズケーキを一口食べる。しっとりとした舌触りと、ほどよい酸味が口の中に広がる。コーヒーの苦味ともよく合って、なかなかいい組み合わせだった。
「ねぇ、私のパンケーキ、ちょっと食べてみる?」
綾音がフォークに小さく切ったパンケーキを乗せて、俺の方に差し出してくる。
「いや、自分で食べるから」
「そっか……」
少し残念そうにする綾音に、何となく気まずくなりながらも、俺はコーヒーを一口すする。
「それも美味しそうだね」
「お前も食べてみるか?」
俺がフォークで小さく切ったチーズケーキを綾音に差し出すと、彼女は驚いたように目を瞬かせた。
「えっ……いいの?」
「さっき、お前も食べるかって聞いたしな」
「じゃあ、遠慮なく……」
綾音は少し照れたようにしながら、俺のフォークからチーズケーキを口に運んだ。
「んっ……おいしい! ちょっと酸味があって、さっぱりしてるね」
「まあ、甘すぎないのがいいんだよな」
お互いにスイーツを楽しみながら、何気ない話を続ける。
「そういえば、部活のことなんだけど……」
「ん?」
「私、もう少し頑張らないとなって思った」
綾音はフォークを持ったまま、少し真剣な表情を浮かべた。
「昨日、保健室に運ばれちゃったのも、たぶん無理してたせいだし。でも、主人公はどんどん上達してるのに、私は全然……」
「そんなことないだろ。昨日は疲れてただけで、ちゃんとやってるじゃないか」
「……そうかな」
綾音は少しだけ俯きながら、パンケーキの端をつついた。
「焦る気持ちは分かるけどさ、無理して倒れたら意味ないだろ?」
「……うん、そうだね」
少し沈んだ空気になったが、次の瞬間、綾音は顔を上げていつもの笑顔を見せた。
「じゃあ、これからは無理しすぎない程度に頑張る!」
「それが一番いいな」
そんなやり取りをしながら、気づけばカフェの時間もあっという間に過ぎていた。
店を出ると、外はすっかり夕方になっていた。
「楽しかったな」
「うん、また来ようね!」
綾音の笑顔を見ながら、「また誘ってくれよ」と俺は返す。
帰り道、並んで歩く俺たちの影が夕陽に伸びていた。




