カイルの過去
暖炉の明かりが揺れる夜、シンとルナが眠りにつく準備をしている中、カイルは珍しく暖炉の前でじっとしていた。雨音が静かに響く中、その横顔には普段とは違う深い苦悩が浮かんでいた。
「カイルさん、今日は夜ご飯までごちそうしていただいて…ありがとうございました。」
シンが礼を言うと、カイルは軽く手を挙げたが、目を暖炉の火から離さなかった。
「シン、お前はこの仕事をしていて、恐怖を感じたことはあるか?」
カイルが唐突に問いかけた。
「恐怖……ですか?」
シンは考え込みながら答えた。
「確かに時の雨に触れるたび、過去の重みや悲しみ…恐怖を感じることはあります。でも、それ以上に真実を知りたいという気持ちのほうが強いです。」
その答えに、カイルは苦い笑みを浮かべた。
「そうか……。俺は、恐怖に負けた人間だ。」
シンは驚いた表情を浮かべ、ルナもじっとカイルを見つめていた。その沈黙の中で、カイルは片腕をゆっくりと持ち上げた。
「シン、俺の腕について今まで何か思ったことはあるか?」
「え?」
シンは戸惑いながらカイルの腕を見る。それは無骨な手袋で覆われていたが、どこか不自然だった。
「これが義手だってこと、お前には言ってなかったな。」
そう言いながら、カイルは手袋を外してみせた。中から現れたのは金属と革で作られた義手だった。
「義手……どうして……?」
シンが呆然と呟くと、カイルは暖炉で燃える火を見つめたまま語り始めた。
「俺も昔はお前と同じように時の雨を追いかけていた。想影の海の真実を知りたくてな。」
カイルは静かに、しかし重く語り続けた。彼がその旅の中で出会ったのが、カタリナという女性だった。
「カタリナは、俺の馬鹿げた夢を真っ向から応援してくれた唯一の人間だった。彼女はいつも俺を支え、時には止めようとすらしてくれた。けど俺は、そんな彼女の優しさすら見失っちまうくらいに想影の海に囚われていたんだ。」
ある日、カイルが誤って時の雨の記憶に深く飲まれそうになったとき、カタリナは彼を救うために飛び込んだ。その結果、カタリナは彼の代わりに記憶の流れに取り込まれた。
「俺は必死に彼女を引き戻そうとした。記憶の流れを振り切って、彼女を腕に抱いたんだ。そのとき、俺の腕は完全にぶっ壊れちまった。」
カイルは義手を軽く叩きながら言った。
「それでも、カタリナの命を救うことはできなかった。」
カイルの低い声が火の音に溶けるように響いた。義手を見つめながら、彼の表情がわずかに歪んだ。
「腕を犠牲にしてでも彼女を守り抜いたつもりだった。あのとき、俺は確かに彼女を抱き締めていた……けど、それで終わりじゃなかった。」
カタリナの記憶が蘇るように、カイルの声が少し震え始める。
「次の瞬間だった。まるで時の流れが俺たちを試すかのように、再び襲いかかってきたんだ。俺が次に目を見開いたときには……カタリナが俺を庇って、その身を差し出していた。」
火の揺れる光の中で、カイルの瞳が暗い過去を映し出していた。
「血に染まった彼女を抱きかかえた俺に、彼女は微笑んだんだ。あんな状況で、信じられないほど穏やかに。俺は必死に止めようとした。傷口を押さえて、『助かる、まだ間に合う』と言い続けた。」
カイルは拳を強く握り締めた。その声は静かだが、抑えきれない感情が滲み出ている。
「だけど、彼女は首を振って……俺の頬に触れながらこう言ったんだ。『カイル……あなたには、大事な使命があるの。私がここで終わるのは、その使命をあなたに託すため。』」
カイルの拳がわずかに震える。暖炉の光がその輪郭を揺らしていた。
「彼女の手は、信じられないくらい冷たかった。でも、その声は最後まで暖かかった。彼女は続けてこう言った。『あなたが生きて、前に進むこと……それが、私の願い。カイル、どうか背負わないで。これは私が選んだこと……私は、時の雨の雫になる。あなたが私を想い続ける限り、私はここにいる。決して消えない。』」
カイルは深く息をつき、目を閉じた。
「俺は叫んだ。彼女を失いたくないと。けれど、その言葉が終わる前に、彼女は俺の腕の中で息を引き取った。」
沈黙が場を支配した。火の音だけが、雨音にかき消されそうになりながら鳴り続けていた。
「彼女の身体は、時の雨に溶けていった。まるで、彼女の言葉通りに、雫になってしまったかのように。俺は……彼女の最後の笑顔を見たまま、動けなかった。」
カイルは目を開け、暖炉を見つめた。
「そのとき俺は誓った。カタリナの分まで、想影の海の真実を見つけてやるってな。」
だが、次の瞬間、カイルの表情は一変した。苦々しく笑い、暖炉に木の枝を投げ込んだ。
「結局、俺はその誓いに飲まれただけだった。時の雨に触れるたび、彼女の記憶をどこかで探していた。だが、その結果……俺自身が壊れていった。」
シンとルナは、カイルの話に引き込まれたまま何も言えなかった。
「彼女の記憶を探し続けた。でも、気づけば過去の記憶に何も感じなくなった。自分の感情がなくなっただけじゃない。彼女の言葉でさえ……怖くて触れられなくなったんだ。」
雨音がさらに強まり、火が揺れた。カイルは静かに立ち上がり、シンとルナを見下ろした。
ルナが静かに口を挟んだ。
「…それでも、あんたは生きてる。カタリナの言葉通りにね。」
カイルは火を見つめ続けたまま、小さく頷いた。
「それだけだよ、カタリナの想いを残せたものは。だからシン、お前が過去を追うなら覚悟しろ。それはお前自身を壊すかもしれない。それでも進むなら……。」
シンは何も言わず、じっとカイルを見つめていた。その目には、強い決意が宿っていた。
「…カイルさん、俺は負けません。」
カイルはしばらく彼を見つめ、わずかに笑った。
「そうか……なら、せいぜい頑張れよ。」
雨音がさらに強まり、暖炉の炎が三人の影をゆらゆらと揺らしていた。