第9話 いわしのフライ
オフィスに戻ると、みんなが口元に笑みを浮かべてそれぞれに会話をしているが、視線は私に向けられている。
「カレンちゃん」
はす向かいのマギーが、銀色の瞳を輝かせている。
「チャンスよ」
「何がですか……っていうか、聞こえてたんですか?」
「だって、ほら」
マギーが所長の後ろのホワイトボードを指さした。
そこには「来客 昼頃 カレン対応」と書いてあった。
よく見ると、「来客」の隣に小さな字で「イケメン!」「カレンのファン!」と書いてある。
思わず、ため息が漏れる。
「ダメダメ。オリーならともかく、カレンがこの程度の接点で男に興味持つわけないですって」
隣のグリーが肩をすくめる。
「もしもそうなら、週一で寝ぐせつけてきませんもん」
「えっ、私、まだ寝ぐせついてるときある? 一応、毎朝、グリーにもらった魔導式の櫛で梳かしてるんだけど……」
私が言うと、グリーが口をすぼめた。
「アタシがアンタにあげたって――それ、二十歳のときでしょ。もう、六年も前じゃない」
「だから、ずっと大事に使ってるけど……」
ふーっ、と長く息を吐いて、グリーは天井を向いて黙ってしまった。
「あらあら、照れちゃった。グリーちゃんってば、なんのかんの言ってカレンちゃんが好きだから、そんなこと言われちゃったら、ね~」
「違います。呆れただけです。同期にもらった櫛を後生大事に使ってるような女、重すぎて年下の男の子なんて裸足で逃げるに決まってるわよ。さ、仕事仕事、っと――」
隣で流れるように図面を書きだしたグリーに倣って、私も昨日から続けている一枚を開いた。
昔に比べれば、だいぶ早くなった方だ。
「――そこ、間違ってるわよ。上の、インテンソ配列んとこ。その回路で、そんな数値にはならないはずだもん」
「……ほんとだ、計算が間違ってる。ありがとう」
「た、たまたま目に入っただけよ! 大体、隣に居ておんなじ図面に三日もかけないでよね、気が散るったら」
同期に指摘と指導を受けてしまうのは、相変わらずだけれど。
こうして午前はいつも通り時間が過ぎていった。
私は図面とにらめっこ、リラは実験室とデスクを往復、グリーはてきぱき手を動かし、オリーは気が付くとオフィスから姿を消していて、マギーは膨大な事務作業を笑顔でこなしている。
時計を見ると、11時半を過ぎていた――いつもならみんな、昼食を買いに出かけ始めるのに、今日は誰も塔を出て行こうとしない。
「戻りました~」
青髪をかき上げながら、オリーが帰ってきた。
「アロスフリド社でヒアリングするだけにしちゃ、随分かかったじゃねぇか」
「あ~ら、今日はみんなのためにちょっとした買い出しも兼ねて行ったんだもの。感謝して敬って欲しいわ」
そう言いながら、オリーは私の右隣の空き机に袋を置いた。
そしてその中から、蓋つきの木の器を取り出す。
ふわっと香ばしいにおいが鼻に届く。
くぅ、とお腹が鳴ってしまい、私は慌てて手を当てた。
「揚げ物のにおいだ」
「ボケロネスフリート――いわしのフライね。ソースはもちろん、最近流行りのレモン味。この量で、一箱500ディネーロは良心的だと思わない? どうせみんな、カレンのお客さんを一目見るために外には出ようとしないだろうと思ってさ」
「さっすがオリー、気遣いが出来る女だよね。男からまったく評価されないのが不思議、不思議」
グリーの余計な一言がオリーの眉間に皺をつくったが、みんなが感謝の言葉とともにフライに群がる。
私もひとつつまみながら、オリーを見る。
彼女は青玉の瞳の片方を閉じて、ニッと笑った。
こんなにナチュラルにウインクをされると、オリーは大人の女性なんだと思い知らされる。
「にしても、昼頃って言ったらそろそろじゃない?」
グリーが呟くと、みんなが一斉に壁の時計に視線を送った。
そろそろ、正午になる。
「午前いっぱい忙しいと言っていたから、もしかすると昼飯を挟んで午後に来るかもしれんぞ。となると、まだ随分あとかもなぁ」
口をもごもごさせながら、所長が言った。
その様子に、リラが目を細めている。
「おじさ――所長、もうちょっとお行儀よくしてもらえませんか。少なくとも私、食べながらしゃべるもんじゃないって小さい頃に言われた気がするんですけど」
「ん? そうだったか? もしかすると、そりゃ弟夫婦の記憶の方じゃねーかな」
「そんなこと――」
トン、トン、トン。
リラの言葉を遮って、ノックの音が通り抜けた。
誰もが誰かと目を合わせ、それからの行動は素早かった。
フリートが片づけられ、手と口を拭き、今まさに仕事をしている真っ最中ですと言わんばかりのオフィスの光景が出来上がるまで、ものの十秒もかからなかった気がする。
「王国騎士団所属、エデルウェイス=ディアマンテです」
落ち着いた雰囲気の、少し低いけれど、よく通る声。
勇壮という言葉が頭に浮かんだ。