小説家のスランプ脱却法
私が考え込んでいる間も、日常が終わることはなく。その日も玄関の掃除をしていた。壊れている部分や外灯の点検もするけれど、特に問題はなし。
でも。私がそろそろゴミを回収して家に帰ろうとしている中、よろよろと更科さんが出てきた。相変わらずブラック企業で働いているらしく、更科さんはよろめいている。
「おはようございますー、今日も早いですね?」
「お、はよう、ござい、ます……三葉さん。はい、今日もは、やいんですけど……」
「けど?」
更科さんは弱々しく二階を指差した。
二階は更科さん以外だったら、扇さんと日吉さんが使っている。
「なんかありましたか?」
「ま……た扇さんがスランプに陥ったみたいで……うるさいです」
「あー……でもおばあちゃん、どう言ってたんでしょうか? 私も扇さんになんかしたほうがいいですか?」
「たまにでいいんで……ガツンと言ってください……それで多分……治まりますから」
「私が言っても聞いてくれるかな……おばあちゃんじゃないけど」
「だ、いじょうぶ、だと、思います……」
更科さんはこちらに頭を下げると、よろめいたまんま会社へと向かってしまった。
……大丈夫かな、更科さん。あれだけよろよろしているのは、寝不足と会社が嫌過ぎるのとどっちだろう。どっちもかな。
とりあえず、私は一旦ゴミを片付けてから、一度扇さん家に顔を出すことにした。扇さん家の前に立つと、たしかに獣のような呻き声がずっと聞こえている。
「うーん……これはたしかに更科さんが寝付けないかも。でも日吉さんはどうだったのかな」
あとで聞いておこうと思いながら、私は一度チャイムをブーッと鳴らした。
「おはようございます、扇さん。ちょっとお話しが」
「ううううううううううう……」
……壊れた目覚まし時計みたいな声が返ってきた。日頃の捉えどころのない、人をからかってくる扇さんを知っていると、本当に別人に感じるんだけれど。苦情が来ているから仕方がない。
私は深く溜息をついてから、もう一度チャイムを鳴らした。
「扇さんー、開けてください。開けてくれないなら、大家権限で開けちゃいますよ」
一応おばあちゃんから、万が一に備えて、マスターキーはもらっている。それで開けようかなと思っていたら、「三葉さん、三葉さん」と声をかけられた。日吉さんだ。
「あ、おはようございまーす。日吉さん、眠れましたか?」
「うちはしょっちゅう無音ヘッドフォン付けてるからなんとか。更科さんは気の毒だねえ」
「お疲れ様です……」
幸い真下でも隣同士でもない私は聞こえなかったけれど、どうにも店子たちは全員被害を被っているらしかった。これはたしかに駄目かも。
私がなおも開けようとすると、日吉さんが「まあ待ちなさい」と止めた。
「三葉さんがそのまんま開けたら吹き飛ぶかもしれないから、ちょっと俺の背中に隠れなさい」
「へあっ? わかりました……天狗のスランプってそこまでひどいんですか?」
「そりゃもう。扇さん、開けますよー」
日吉さんが私の差し込んだマスターキーを捻り、そのまま開けた……途端に日吉さんが「わっ」と言いながらなにかを受け取った……前に私がお茶を淹れてあげた電気ポットだ。さらに真っ白な原稿用紙、新聞紙、なんかの名刺、チラシなどなどが宙を舞い、飛びかっていた。その中で、扇さんは「うううううううう……」と呻き声を上げ続けていた。
「な、なんですか? というより、私天狗が嵐を巻き起こすなんて知りませんけど……」
「天狗はな、背中に背負った扇で風を起こしたりするんだよ。魚を焼いたりバーベキューするのにはちょうどいいくらいに風を起こしてくれるんだけど、スランプ状態になると風を操るのにも操作ができなくって、あれくらい荒れ狂うんだなあ」
「荒れ過ぎじゃないですか……!? というか、更科さんにガツンと言ってと言われたんですけど、これ本当におばあちゃんはガツンと言えたんですかね!?」
「花子さんは意外と放任主義だからなあ。好きなようにやらせてたと思うんだが……おっと」
またも慌てて日吉さんがなにかを受け止めた……今度は糠床だ。大事にしてるものまで飛ばしたら駄目じゃないか。
「普段扇さんって、スランプをどうやって終わらせてるんですか?」
「だいたい唸り続けていたら、いつかは止まるからなあ……ただ、苦情は言わないと全然止まらないんだよ。扇さん扇さん……そろそろうるさい。その辺で」
日吉さんはそう声をかけるものの、扇さんは文机の前に座り込んだまま呻き声を上げ続けていた。飛んでいるものをちらりと見ると、丸まった原稿用紙がたくさんある。あの人の綺麗な文字で埋まった原稿は、さぞや面白いんだろうけれど、そういえば私、扇さんの小説を読んだことないなと気付いた。
「扇さん扇さん。その辺で! 原稿用紙埋めてくださいよ! 私、まだ扇さんの小説読んだことないんです! 読みたいです!」
「ううう…………」
あれ、少しだけ声が小さくなった。私は調子に乗ってまくし立てはじめた。
「扇さん扇さん。私も宿題全然終わんなくって泣きそうになってわめき散らしたことありますよ! でも頭空っぽにして手を動かしたらなんとかなるんです。口を動かすより先に手を動かしましょうよ! 私もあなたの原稿読みたいですし! 今度読ませてください!」
「……やれやれ、珍しいね。読者になってくれるなんて初めて言われた」
途端に、あれだけ強かった台風が、ぴたりと病んだ。飛び回っていた塵も原稿用紙もパタッと落ちた。日吉さんはそれを見て、やれやれと玄関に糠床と電気ポットを置く。
「まほろば荘の面子はねえ、私の本を全然読んでくれないんだよ。私が書いたのだから傑作だというのに」
「あれ、そうだったんですか?」
「……純文学というものには不得手なんだよ、俺たち」
「そうだったんですか……」
純文学ってよくわかんないとは思っていたけれど、あやかしも遠ざけるものとは思わなんだ。でも扇さんの書いたものには興味がある。
「ところで三葉さんは、今日は休みかい?」
「あ、はい。今日は学校自体が休校なんです」
「そうかいそうかい。じゃあ、今日はお茶を淹れてくれないかな。帰りに糠床に漬けているものをいくらでも持っていっていいから」
「わあい。あ、日吉さんはどうしますか?」
「今日は動画撮影に出かけるから、遠慮しておくよ」
こうして、私は扇さんが書き上がった原稿のコピーと一緒に、糠床からもらった茄子を持って帰ることになった。
純文学ってもっと小難しいと思っていたのに、意外や意外、扇さんの書く話は面白かった。私はその日の朝ご飯は茄子のぬか漬けと鮭瓶の簡単茶漬けだったけれど、食べ終わったあとは夢中で読んでいた。
「……面白かった。小説ってすごい」
扇さんのペンネームを教えてもらったので、それを検索してみる。検索したら、結構賞の候補にはなっているものの、全部辞退している様子だった。
そして扇さんがSNSもやっていないことから「純文学の救世主」「令和の生けるミステリー」とか呼ばれている様に、思わずぶっとなってしまった。
原稿書きながらスランプになるたびに、まほろば荘全体に迷惑をかけつつも、そんなもんだと流されている天狗さんだなんて、誰も知らないんだなあと。
そして糠床を育ててぬか漬けをつくるのが好きだなんて、誰も知るよしもないんだな。
思えば不思議なもので、私はここに来て数週間で、すっかりとまほろば荘が「そんなところ」だと馴染んでしまっていた。




