グランデール子爵家を出発
ビックリするくらいの大金が手に入った。
報酬はもちろん、温度計の対価としてだ。当初の約束では匿ってくれるお礼としての発明品だったはずなので、現金を貰うのは違う気がすると思うのだけど、
「流石に割に合わんだろう。正当な対価だと思って受け取っておけ」
とまあ、そんな感じだった。
正当な対価という考えはわかるけど、実際のところは私を手放すのが惜しくなったんだと思う。大金っていうのは普通の人には気持ちを変えさせるだけの効果があると思うけど、結局のところ自由に外を歩けない私が貰っても困るだけだ。
エリンに頼んで多少の買い物はしたけど、それだけで使いきれるものでもない。そもそも子爵の気持ちはどうあれ一年以内に日本に帰るつもりの私にどれだけの大金があっても意味がない。
ちなみに温度計だけじゃなくてふわふわパンも開発に成功している。開発というと語弊があるけど、試行錯誤を繰り返して日本にいたときとほぼ同じテーブルロールを作ってやりました。だけど、
「ああ、悪くないな」
子爵はそっけない声でそんな感想を漏らした。
気も漫ろで心底どうでもいいというのが態度に現れていた。まあ、分からなくはない。温度計を作った後は、子爵もトークスさんもほとんど睡眠もとらずに動き回っていた。そっちの方がよっぽど価値があるんでしょうね。
でもさ、人が折角作ったんだからもっと味わいなさいよ。
「はぁ」
ため息が漏れる。
「どうしました?」
荷物をパッキングしているロニー君が手を止めて聞いてきた。
「ううん。何でもない」
ロニー君に愚痴ったところで仕方がないと、私も部屋の片づけを続ける。新しく買った大型のバッグに日用品を次から次に詰め込んでいく。
私の予想通りオルトと旅を始めたころとは荷物の量は桁違いに増えている。お金があるからって無駄遣いしているわけじゃない。
必要なものを買っているだけだ。
本当に。
「アイカさん、準備はいいですか」
「ええ」
荷物を詰め込んだカバンを背負って、しばらく世話になった部屋を見渡す。この世界に召喚されてから野宿したり、安宿を渡り歩いていたけど自由がないという点を無視すれば今までで一番過ごしやすい場所だった。
お風呂に入れるし、食事はおいしいし、ベッドはふかふかだし、お風呂に入れたからね。大事なことだから二回言いました。
これから子爵とともにルーデンハイムを出てレムリアに向かうのだけど、オルトは結局戻ってこなかった。レムリアで合流することもできるけど、何となくレムリアでも会えない、そんな予感がしている。このまま会えないのかとちょっと不安になるけど、オルトに限って余程のことは起きないと思う。
だけど、心配なものは心配なのだ。
「道中何もないといいんですけど」
「ああ、ロニー君。そういうのフラグっていうんだよ」
「フラグですか?」
「そ、こういうことが起きないといいなって話をすると、大抵起きるのよ」
「えぇええ。それは不味いじゃないですか」
「大丈夫でしょ。貴族の馬車が検められる心配はないし、もしそうなっても私もロニー君もウィッグかぶってるから万が一見られてもバレる可能性はないでしょ」
敵対的だったトークスも、温度計の一件で私のことを認めてくれたみたいで視線が柔らかくなったもの。敬愛する子爵の名が後世に残るかもっていうのが効いたのね。
「アイカ様、馬車の準備ができました」
部屋の向こうからエリンの声が聞こえる。彼女には屋敷にいる間ずいぶんとお世話になったものだ。なぜか、私のことを様付けするようになったのが腑に落ちないんだけどね。仲良くなったはずなのに距離ができた気がする。
「ありがとう。よし、ロニー君行きましょうか」
「はい」
階下に下りた私たちは馬車に荷物を乗せると、裏手の厩舎へと向かってカンちゃんに挨拶する。
「カンちゃん。出発だってよ」
「がるぅう」
飛び上がる様にしてカンちゃんが喜びを表現する。毎日会いに来てブラッシングはしてたけど、散歩に連れていくことができなかったからストレスが溜まってるのだ。街の外に出ればカンちゃんも自由に走れるとあって嬉しそうだ。
「少しだけ窮屈だけど我慢してね」
「おいおい、我慢するのはこっちだろうが」
「えへへ、ごめんなさい」
「えっと、なんでガルーが馬車に乗っているんですか」
久しぶりのツンデレ親父がそんなことを言いながら、馬車の中にガルーが乗り込めるだけのスペースを開けてくれる。そして、カンちゃんが乗ってきたのに疑問を呈したのは、温度計の秘密を知ってしまった二人のガラス職人だ。
拉致したわけじゃなくてちゃんとした形で引き抜きをしたらしいことは二人の表情を見ればわかる。まあ、あの場には二人以上いたような気もするけど、きっと気のせいだろう。
商談のために持ってきた片栗粉がなくなったので馬車にはスペースが増えているけど、その分ガラス職人が乗っているので結果的に狭くなっている。
「ガルーは貴重なので。でも、安心してください。街を離れたら外にでるから」
「は、はあ」
職人さんは納得してないんだろうけど、それ以上の追及はなく曖昧な相槌を打つと黙ってしまった。私のことをエリンや他の使用人が様付けで呼んでいるし、工房にお邪魔したときも私が指揮を執っていたのを見ているため格が高い使用人の一人だと思ってくれたのだと思う。
「よし、出発するぞ」
周囲を騎士と兵士が守る様にして囲み、二台の馬車と使用人たちがぞろぞろと歩き出す。グランデール子爵のお見送りとかはないらしく、結局彼らの姿は一度も目にしなかった。エズラ子爵が根回ししてくれたんだよね。
石畳の上を馬車が音を立てながら進んでいく。
窓から覗くルーデンハイムの街を見ていると、いろんな思い出がよみがえる。短い間だったのに驚くほどの事が起きたっけ。
オルトの過去をようやく聞かせてもらえたんだよね。それからオルトのかつての部下にあったんだ。ゴレイク討伐戦の最中に妖獣が暴れたわけだけど、マードさんは無事だったんだろうか。結局それもわからずじまいだ。
それからロニー君に人形売りつけたり、ウィッグ買ったり、レシピをレストランに買ってもらって、それから――。
「止まれー」
前方から聞こえてきた突然の声は、子爵でもなければ彼の部下によるものではなかった。ロニー君の立てたフラグが現実のものとなったのかもしれない。
嫌な予感に私とロニー君はお互いに顔を見合わせた。