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パン作りとかどうでもいい2

 久しぶりに屋敷の外に出たので私のテンションは爆上がりだ。

 もちろん自由に歩き回ったわけじゃなくて、目的地までドアトゥドアの移動だったけど初めて目にする風景というものは新鮮で心を湧きたてる。部屋にこもり切りっていうのは気が滅入るものね。

 指名手配されるといっても、顔写真が出回っているわけではないしウィッグをかぶってる上に貴族の一行である私のことを怪しむはずがなかった。でも、流石にロニー君を連れていくのは危険だということでお留守番だったんだけどね。


「で、それがお前の言っていた”オンドケイ”か」

「何もこのような場所に旦那様自ら足を運ばなくても」

「構わぬ。俺も興味がある」


 確かにキッチンというのは貴族が来るような場所じゃないと思う。集まったのはエズラ子爵にトークス、それから料理長とロニー君に私の五人だけだ。

 みんなの視線を集めるのはテーブルの上にある板に括りつけられた一本のガラス管。

 私の知っている手のひらサイズの温度計と違って、長さは2リットルのペットボトルくらいあるし、太さもボールペンほどある。

 それがこの世界のガラス職人の限界だったみたいだけど、温度計としての機能は果たしているはずだ。


「まずはお願いしていた通り氷を出してもらっていいですか」

「ああ、こっちにある」


 料理長が氷の塊を取り出して、テーブルの上に置いた。


「ありがとうございます。そんなに大きくなくていいので氷を砕いてグラスに入れたら水を注いで掻き混ぜてキンキンに冷やしてください」

 

 料理長が鍋を取り出すと、氷を砕き入れて井戸で汲んできた水を注いだ。ターナーのようなもので掻き混ぜで冷えてきたところで私は温度計をぶち込んだ。

 すると見る見る中の水銀が縮んでいく。


「ガラス管の中にある水銀を見てください。いまはここまでありますよね」

「ああ」

「そこに線を引きます」


 ガラス管に直接線を引くことはできないので、括りつけている板の方にナイフで傷を付けた。氷水の温度とは、すなわち0℃のことだ。


「じゃあ、次に料理長。沸騰したお湯を用意してください」

「言われた通り向こうで沸かしている」

「それでは、今度はそこにこの温度計を入れてみましょう。するとどうでしょうか」


 全員で竈の方へと移動してぐつぐつと沸騰している鍋に温度計を入れてみた。


「なんだこれは、水銀が動いている?」

「どういう事なんだ」

「水銀が動いているわけではありません。膨張しているだけです」

「膨張?」

「ええ、水銀は温度により体積が変化するという性質があるのです。で、いまここで水銀の膨張は止まりましたよね。次にここに線を引きます」


 木の板に二本目の線を入れた。


「その線がどういう意味を持つ」

「最初に氷水に入れた線が0℃、そして沸騰したお湯を100℃とします」

「おいおい、その”ドシー”というのはなんだ」

「えっと……」


 私は答えに窮して言葉に詰まった。この世界に無い言葉だから、異世界便利翻訳機能が働ないか。元々はセシウムだっけ、セルシウム? まあ、確か人の名前だったよね。この世界の単位については知らないけどその線で行こうか。


「それじゃあ、最初の値を0エズラ、次の値を100エズラにしましょう」

「き、貴様!! 旦那様の名前を敬称も付けずに連呼するなど!!」


 トークスが顔を真っ赤にして詰め寄ってくるけども、テーブルを上手く利用して私は回避を試みる。さらにロニー君が間に入って守ろうとしてくれる。


「新しい単位にしようと思ったんですけどダメでしょうか」

「我が家名を単位にするか」


 子爵の口が弧を描く。


「面白い!!」

「旦那様!?」

「トークス、何を驚くことがある。知らぬわけではあるまい。長さや重さの単位に使われている名称がどこから来ているのか」

「そ、それは……」


 なんだ。やっぱりこの世界でも人の名前由来なんじゃない。翻訳機能があるせいで、逆に私には単位が分かんないんだよね。最近は徐々にこの世界の言葉にも慣れてきたし、ある程度の言葉が聞き取れるようになってきたけど、いまでも翻訳機能に頼ってる部分は大きい。


「家名が未来永劫残るのか」


 石造りの天井を仰ぎ見るエズラ子爵。

 私が一度口にしたことだけどお金や地位を得た後、人は名誉を求めるっていうのは本当のことなのね。貴族にとって”名前”は私が想像する以上の価値を持っているんだろう。

 よっぽど感極まってるのか、微動だにしない。

 っていうか、長い。

 いつまでそうしているつもりなんだろう。


「うん。それはそれとして、話を続けましょう。さっき線を引いた0エズラと100エズラの中心に線を引くでしょ。ここが50エズラね。で、さらに半分に線を引くとそこが25エズラ。これが二次発酵にちょうどいい温度なんだけど、さらに25エズラと50エズラの間に線を引けば37.5エズラになるんだけど、人の体温ってこれよりちょっと低いくらいなのよ。

 ロニー君。この先端を握ってみてくれる」

「え、あの。アイカさん? 今の状況分かってます?」


 ロニー君が驚いたような顔してるけど何でだろう。

 いや、ロニー君だけでなく感極まっている子爵は別にしてもトークスも料理長も宇宙人か幽霊でも見たような顔で私のことを見ている。


「もう、ロニー君がやらないなら私がやるよ――。本当は体温は口の中とかで計った方が正確なんだけどね。ほら見てよ。さっきの線よりちょっと下まで水銀が伸びたでしょ。ちなみに、この37.5エズラは風邪ひいたときとか、熱があるときはこの線を超えているから、病気の判断にも使えると思うよ。で、私が求めてる一次発酵の温度はこの37.5エズラの少し上、多分この辺かな。40エズラで保ってほしいの」


 最初の100エズラと0エズラを正確に100等分すれば一番いいけど、まずは目安を作らないとね。


「料理長聞いてます? ここ、この温度で捏ねた生地を寝かせる場所の周囲をキープしてください。小麦粉は明日入るんですよね」

「あ、ああ」


 ああ、もう。歯切れが悪いなあ。

 いま、私は大事な話をしているんだよ。みんなわかってるの。

 そんな心ここにあらずみたいにキョトンとしちゃって。


「アイカ」

「あれ、子爵様どうしました。”お前”じゃなくて名前を呼んだの初めてじゃないですか」

「正式に俺の部下にならないか」

「嫌ですよ。前にも断ったじゃないですか。それよりパン作りです。ようやく準備が整いましたからね、明日にはお約束通りふわふわのパンを作って見せますよ」

「馬鹿かお前は。いまさらパンなどどうでもいいわ」

「ど、どうでもいいって何を言っているんですか。ふわふわパンを作る代わりにいろいろと便宜を図ってもらったんじゃないですか」

「温度計で十分お釣りがくるわ!!」

「そ、そうですよ。確かにアイカさんの作るパンにも興味はありますけど、これがあればいろんなところで革命が起こりますよ。僕が昨日言ったワイン蔵の話もそうですけど、さっきだって病気の判断に使えるって!! もう、世界が変わるほどの大発明ですよ」


 世界が変わるは言い過ぎだって。

 だって、温度計なんてどこにでもあるものだよ。日本なら100均にでも売ってるし、正確な温度がわからなくてもいままで困ってなかったんだから。別にそこまで必要ってわけじゃないでしょ。

 私がやりたいパン作りだって、別に正しく40度が計れなくても時間を調整したりすればなんとか出来る話だしさ。


「坊主の言う通りだな。ワインや他の酒造りにしても温度管理が重要だと聞く。それらすべて職人の感覚だよりなんだ。それをこうして数字として見れるのだとしたらその価値ははかり知れん。

 ただの料理人である俺にすら使い道が浮かんでいるんだ。旦那様やトークス様なら、もっと可能性を引き出せるだろう」

「その通りだ」


 わなわなと口を震わせながら子爵が料理長の言葉を引き継いだ。


「これはマランドン王国の歴史に残るだろう。そして、そこにはエズラの名が残るのだ。片栗粉など比ではない。

 トークス。今すぐアイカと訪れたガラス工房に向かえ。そこで製法を見た人間を全員雇い入れろ。金はいくらかかっても構わん」

「は、はい!!」


 事の重大さを理解したのかトークスが珍しく。ほんとうに珍しく私に向かって鋭い視線を向けることなく足早に去っていった。

 温度計がそんなにすごいのかぴんと来ないけど、作り方は簡単だもんね。ガラスの管を作って水銀を入れたら入り口を溶かして締めるだけだもん。

 確かに真似しようと思えば簡単だろう。

 あの場にいた職人に、作っているものが何かはわからなくても製法そのものはバレている。後は0エズラと100エズラという基準を設定する手段だけど、これは使っているうちにバレない保証はない。

 温度計に価値があるのだとしたら子爵の判断は正しいのかもね。でもさ、言い方酷くない?

 パン作りとかどうでもいいとか……。


「これから忙しくなるぞ」


 子爵はそういってキッチンを後にした。

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