お風呂に入りたい気持ちが加速した結果
キッチンを後にした私は、階段を上がって一階を進む。コの字の形をしている建物の右上部分に二階へと上がる階段がある。ちなみに、私たちに割り当てられた部屋はコの字の下の辺の真ん中くらいで、本邸側からの視線は完全に遮られている。
「アイカさん、どうするつもりですか」
「わかってるでしょ。お風呂に入るのよ。お風呂に」
「さすがにそれは……」
「ロニー君も一緒に入る」
「は、入りませんよ!!」
「えー、私の地元だと、ロニー君くらいの年齢なら一緒に入っても問題ないよ」
「あーもーいい加減子供扱いはやめてくださいよ」
顔を真っ赤にして後ろを付いてくるロニー君を伴って、二階に上がりふかふか絨毯をずんずん歩いてい子爵の執務室を目指す。
もちろん、そこにいるのは子爵様なので要所要所に兵士が立っているし、廊下を巡回している兵士もいるけど、何度もエズラ子爵と面会をしている私は止められたりはしない。
執務室の前に立った私は、扉を守る兵士に軽く会釈してノックする。
「エズラ子爵様、私です。アイカです。お時間いただけませんか」
そのまましばらく待っていると、「入れ」と短い言葉があった。
中に入ってみると秘書と一緒に悪だくみ、もとい商談の大詰めにむけて色々と作戦を練っていたのだろう。たくさんの書類の山と戦っていた。
「どうした。試作品が出来たにしては手ぶらに見えるが」
目聡い奴め。
「そっちは順調なので安心してください」
ちょっと、ロニー君。人がポーカーフェイスでいるのに、驚いたような顔をしないの。こういう時は自信満々でいるのが重要なんだからさ。
「そんな事よりもっと大事な話があるんです」
「トークスには下がってもらうか」
「旦那様!」
「ああ、いえ、別にいいですよ。仕事の話じゃないので」
「仕事の話でもなく、忙しい旦那様を煩わせるようなことをするな小娘が」
トークスさんはいつも通り絶好調らしい。私をそんなに目の敵にしなくてもいいと思うんだけどね。あなたがお仕えしている人の役に立っているんだからさ。
「さっき気づいたんだけど、この屋敷にはお風呂が付いているんですよね。入ってもいいですか。いいですよね」
「ちょ、アイカさん。そんなストレートに」
「ロニー君。持って回ったアプローチも時には有効だけど、結論は先に持ってくることが重要なのよ」
「くくっ、ははは、お前は本当に何者だよ。ただの平民が風呂の存在を知ったからといって入りたいと思うか。あり得ぬな」
「そうだ。貴様のような平民風情が何をいう。見ての通り我々は忙しいんだ。さっさとパン作りにで励んでろ」
「パン作りね。そう。それよ。パン作りにお風呂が必要なの」
私が言ったんじゃない。ちょうど適温のお風呂こそが、一次発酵に都合がいいって。お風呂場で発酵させればいいじゃん。
「どういうことだ」
「つまりですね。パン作りにはいくつかの段階があるんです。発酵種をつくり、パン生地を捏ねる。一次発酵してからパンチ、成型したあとの二次発酵。そして最後の焼き。いま私たちのパン作りは発酵種を作るところまでは上手くいっています。でも、一次発酵に必要な温度を一定に保つのに苦労しているんです」
「あれだけ大口をたたいておいて、やっぱり上手くいっていないんじゃないか」
鬼の首を取ったような勝ち誇るトークスさんには悪いけど、この程度のことで私が足踏みしますかっての。
「苦労しているとは言いましたけど、別に出来ないわけじゃありません。一次発酵を成功させるには室温よりも高い温度でキープする必要があるんです。もっとも、高い温度といっても火傷するような温度じゃありません。
そう、お風呂の温度がちょうどいいんです」
「き、きさま。パン作りのために旦那様の浴室を使用するというのか」
「そうです。ですけど、まずはお風呂場の環境が本当に適しているか確認しないといけませんので、入ってもいいですよね」
「はははは。持って回ったことを言っているようだが、早い話がお前は風呂に入りたいのだな。なぜそこまで風呂を欲するのかわからんが、その口ぶりだと風呂に入った経験もありそうだな。貴族の子女であれば不思議ではないが、お前は違うのだろう」
「ええ。でも、お金があれば入れますよね。高級宿とか」
「そうだな。我々が取引するような商人であれば、平民でも風呂付の屋敷を持っていることもあるだろうが、それでも一般的ではない」
「まあまあ、私の出自何てどうでもいいじゃないですか」
「言い訳があるか。旦那様の周りにどこの馬の骨ともわからん輩を近付けていいはずがないだろうが。旦那様、さっさとこいつらを屋敷から締めだしましょう」
「トークス、お前は少々直情的すぎるな。もっと大局をみれるようにしろ」
「……」
あーあ、子爵に怒られてトークスさんの首が落ちた。っていうか、俯いたところから上目遣いに私をにらむな。怒られたのはあなたの浅はかさが原因だからね。
「で、お風呂に入っていいですか。いいですよね。じゃあ、入りますね」
「まあ、いいだろう」
はい。了解いただきました。
「だが、発酵するのにいちいち風呂場を必要としていたら、その製法は一般的に広げるのはまず無理じゃないのか。平民の家には浴室はないし、浴室を持っている貴族とて、料理のために浴室を使わせないだろう」
「あー、まー、そうですね。で、でも、お風呂のお湯って精霊工学を使って一定に保つようになっているんですよね。その技術を応用すれば――」
「パン一つにいくらかけるつもりだ」
「そうだ。そんなこともわからんとは、これだから平民は!!」
いかん、トークスが息を吹き返した。そのまま底なし沼に囚われていればよかったのに。子爵もOKだしたなら、そこで話を終わらせてくれてよかったのに、なんで余計なことに気がつくかな。まあ、言ってることは正しいけど。
初めから貴族相手の高級パンでもいいけど、それにしても精霊工学を利用した発酵器を作るとコストが半端ないか。
なら、もっと低価格で出来る様にすればいい。
「まあ、それならそれで温度計を見ながら管理するしかないですね。一定に保つのが難しいかもしれませんが、出来ないわけじゃないです」
「オンドケイって何ですか」
ロニー君が小首を傾げる。子爵もトークスも表情を見る限りロニー君と同じらしい。この世界って温度計がないのか。まあ、でも、そうだよね。温度計があるなら、そもそも使ってるか。ないなら、作るか。水銀式温度計ってそんなに難しい仕組みじゃなかったと思うし。
「えっと、毒物だと思いますけど水銀って手に入りますか」
「……出来なくはないな」
記憶を辿る様にして部屋の隅に目を向ければ、なんだかよくわからない置物が目についた。あんなのでもすごい高価なんだろうなぁと、関係ないことにまで思考がそれる。
最近は見なくなったけど、温度によって体積の変わる水銀の特性を利用したガラス管に入ったあれだ。
「えっとそれから、ガラスのほそい管を作れる職人を手配してください」
「それでオンドケイとやらが作れるのか」
「ええ。それさえあれば温度管理もばっちりです」
自信満々に頷いて見せたけど、なんかちょっと自信がなくなってきた。
昔は私の家にもあったと思うけど、うちの温度計って赤いバーだったと思う。水銀って当然銀色だよね。何でだろう。
「と、いうわけでお風呂入っていいですか」
「何がというわけなんだ。いまの話なら、風呂に入る必要がどこにもないだろうが」
「お風呂にゆっくりつかると、いいアイデアが浮かぶのよ。だから、これは必要なことなんです。それに子爵様も先ほど了解していただけましたよね」
「ああ、好きにしろ」
「旦那様」
「では、好きにさせていただきます。よし、ロニー君行こうか」
「ちょ、ちょっと待ってください。それに一緒には入りませんからね」
不思議なものを見るような子爵の視線と、呆れと怒りと邪魔者が消えてすっきりしたというようなトークスのいろんな感情の混ざった視線を受けながら執務室を後にすると、私は部屋に戻っておよそ一か月ぶりのお風呂に向かったのだった。