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衝突

 ユリウスの街でスタートさせながらも三回もダメにした天然酵母づくりの再開である。美容グッズにシフトするつもりだったけど、柔らかパンの正体は重曹と分かったのだ。それならこっちの方が簡単なのでと、再びパン作りに移行した。

 重曹はお菓子作りでは使うけど、パンではあまり使うイメージがないからうっかりしていた。もちろん、ソーダブレッドとかマフィンとか重曹で膨らませる種類のパンはあるけど、やっぱり酵母で膨らませたものとは全然違うよね。


 地球の歴史だと重曹よりも酵母を使ったパンの方が古くからあったと思うけど、世界が変われば歴史も異なるんだろう。重曹の作り方は知らないけど、酵母の作り方ならわかる私には都合のいい話だ。


 そもそもワインとかあるんだし、発酵を利用したパン作りとかできそうなんだけど、なぜかないらしい。


「それで、これはどうしたらいいんだ」


 いかつい顔をした髭おやじが仁王立ちで私の手元を覗き込んでいる。

 キッチンで私は子爵お抱えの料理人に天然酵母の作り方の説明をしているところだ。ちなみに馬車に乗っていた三人のうちの一人である。

 彼は誇りある料理人ということでひと悶着ありそうだったけど、片栗粉を教えたのが私だと言ったとたん態度が180度かわった。


「まずは瓶を煮沸消毒します」

「煮沸消毒?」

「まあ、難しく考える必要ないです。食中毒予防とかそういうのと似たようなものですね」


 うん。実際には育てたい菌以外にはご退場願うだけです。菌というものがわからない人に説明するのって無理だもんね。

 竈には火が入っているので、そこに水の入った鍋を並べて沸騰するまで待つ。その間に、これからの手順を説明する。

 といっても、大したことはない。


「消毒が終わった瓶に先ほど買ってきていただいたドライフルーツと水を入れるだけです」

「ふむ」

「あとは毎日二度、三度、瓶を軽く振って蓋を取って空気に触れさせます。数日すると泡が出てきて、最終的にはその泡に持ち上げられるようにして沈んでいたフルーツがすべて浮き上がります。そうすれば完成ですね」

「それだけでいいのか?」

「それだけです」

「だが、それだと腐るんじゃ」

「腐敗じゃなくて発酵です。ワインとか作るのと似たようなものですよ」

「違う気がするが、そんな簡単でいいのか」

「いいんです。そんなわけで続きは完成してからになりますので今日はこれで」

「お、おい」


 料理人が慌てているようだけど、あれ以上の説明はできないので、私は足早にキッチンを後にして部屋に向かった。

 もちろん、毎日見に来るし、失敗した時みたいにリュックに入れて移動したりするわけじゃないから天然酵母は多分問題ないだろう。今の時期なら温度も安定している。

 子爵がこの街に滞在するのは10日から15日という話だったから、ふわふわパンのお披露目には十分間に合う。

 出来ればトリートメントにも手を出したかったけど、この場所では出来そうにない。ルーデンハイムは子爵のホームタウンじゃないし、色々と都合が悪いのだ。もっとも、私たちがレムリアに同行して大丈夫なのか気になるところだけどね。


 食堂を出て長い廊下を歩いて自分たちに割り当てられた部屋が見えたところで、薬師のおじさんがちょうど出ていった。こちらに気付かずに反対側に向かって歩いて行く。

 私がいない間にオルトの怪我を診てもらっていたのだけど、大丈夫だったろうか。


「ただいま。さっきすれ違ったけど薬師の先生来てくれたんだね」

「何なんだあの男は!! しつこいのなんのって」


 ベッドの上にいたオルトがはだけた前を閉じていく。

 その横で自然な様子でロニー君が水差しから水を注いで私に手渡してくれる。公爵家の跡取りなのに、どこでこんな気配りを学んだんだろうか。


「お疲れ様です」

「ありがとう。ウィッグ貰ったんだね」

「はい」


 そう言って頷いたロニー君は屋敷に入ってからずっとかぶっていた帽子を取っている。けれども美しい銀髪はどこにもなく、代わりに現れた金髪ショートの所為でオルトの弟といっても通じそうな感じに仕上がっていた。

 もちろん、ウィッグの手配は子爵の手によるものだ。


「で、何があったの」


 コップを手に椅子に座った私は凡そ答えのわかっていることを聞いてみた。


「経過は順調みたいですけど、順調すぎるのが気になるみたいで昨日と同じように調べさせろの一点張りでしたね。君の体はどうなっている。もっと詳しく調べさせろって、そんな調子で」

「あの男。今日も俺のズボンに手を掛けやがった」

「ぷっ、あははっは。脱がされたの」

「させるかよ。だいたい、腹の傷見るのに何でズボン下げる必要がある。まあ、とにかく傷の具合は順調らしい。これもアイカのお蔭だな」

「そんなことないって。ロニー君はどうだった」

「僕のほうも問題ないそうです。薬を塗って包帯を毎日交換すれば大丈夫だと言ってました」

「そこだけ聞けばまともな薬師なんだけどね」

「ええ、本当に」


 オルトの顔色もだいぶ良くなったし、ロニー君の傷もちゃんとした薬師からお墨付きを貰えて本当によかったと思う。

 所詮は素人手当に、謎の精霊術による治療だから不安がなかったといえばウソになる。


「それでだ、アイカ。話がある」

「話?」


 急にトーンを変えてきたオルトの真面目な声にほんの少し緊張する。オルトは私の向かい側のベッドに腰を落とした。ロニー君に目配せしたけど、首を左右に振られる。何も聞いてないということか。


「俺はアルバートを追いかけようと思う」

「でも、まだ身体が」

「わかってる。だが、時間が経てば経つほど痕跡は見えなくなってしまう。ただでさえ一昨日の夜に降った雨で足跡の類は流されてるだろうからな」

「だったら……」


 いまさら急いでも遅い。

 そう口にしようとして何も言えなかった。オルトの復讐を邪魔したのは他ならない私なんだ。どの口で無駄だと否定できる。


「アイカと一緒にアルバートを追うと約束したのに悪いと思ってる。だが……」


 オルトが口を堅く引き結んだ。

 その先の言葉は口にせずともわかる。私が足手まといだと言いたいのだろう。一緒にいれば私は確実にオルトの足を引っ張ることになる。アルバートによって自由を奪われ、命令に従うだけの操り人形になるのだ。


「殺す前に情報は引き出す。だから、行かせてくれ」

「……」


 引き留める言葉が何も浮かばなかった。

 だって、オルトには私の許可なんて必要ないもの。なのに懇願するような言葉を使うのは私に気を使ってのことで、ただの優しさなんだと思う。


 だけど、一人で行かせたらダメだという思いが湧き上がってくる。

 あの時、剣を首に突きつけて向かい合っていた二人。アルバートは絶望に打ち据えられ、オルトはいまにも首を切り落としてしまいそうな激情を必死に抑え込んでいた。

 抑え込めていたのは私がいたからだ。

 私のために堪えてくれたのだ。

 荒れ狂う乱気流のような激しい感情を、そう何度も抑えられるものだろうか。


「本当にそれができるの?」

「どういう意味だ」


 珍しくどすの利いた声音で聞き返される。

 オルトは優しい。ほとんど行きずりでしかない私に出来る限りのことをしてくれたと思う。本人は自分に責任の一端があると思ってるみたいだけど、そんなのは些末なことだ。

 短い時間だけど、オルトの性格は理解しているつもりだ。

 オルトは人から情報を引き出したりするのは得意じゃない。それは聞き込みが下手だとかそういう事ではなくて単純に根が真面目過ぎるのだ。同郷のよしみと世話をしながらも、いざとならば無情に刃を向けてきたアルバートとは違う。

 力ずくで情報を聞き出すなんて真似ができるとも思えない。


「オルトの気持ちはわかる。だけど、だけど、ごめん。ここだけは引けない。私は元の世界に帰りたいの。だから、アルバートとの交渉の場には私もいたい。行くなら私も一緒に行く」

「だけど、それは出来ないだろ。それをしようとしてどうなったかわかってないとはいわせないぞ」

「わかってるよ!!」


 私が何をしたのかなんて、誰よりも私が知ってる。


「だから、まずは私に憑りついてるドンちゃんをどうにかしてそれから――」

「そんな悠長なことをしている場合じゃないだろ」


 ドン、とオルトがテーブルに拳を叩きつけた。

 さっきまでのほんわかとした雰囲気は完全に消えていた。いつもは優しいオルトだけど、怪我の影響もあるんだろうし、何よりもアルバートを逃がしたことが大きい。平静を保っているように見えても、心のうちにはふつふつと沸騰するお湯のように沸き立っていたのだ。それが爆発した。


「確かに丸二日の遅れは厳しいだろう。だけど、いまならまだ間に合う。手が届くんだ。だけど、アイカを連れてたんじゃとてもじゃないけど追いつけない。追いついたとしても――」

「私が邪魔をする」

「そこまでは言わない。けど、わかるだろ。アルバートを二度も逃がすわけには行かないんだ」

「二度。そうだよね。アンダートの森でも迫ってたんだもんね。けど、私が邪魔をしたんだ」

「ちがっ」

「違わないでしょ。私さえいなければあの時オルトはアルバートを追いかけることもできたんじゃない。何で私のことを助けたりしたのよ。私になんかに構わずに――」

「アイカさん!!」


 売り言葉に買い言葉とばかりにヒートアップしていたところに、いままで口を挟まなかったロニー君が割って入ってきた。


「それ以上は言ったらダメです」


 子供に諭されるなんてどうかしている。オルトの言ってることが正しいのはわかってるし、私は言い過ぎてる。でも、引くわけにいかないものだ。

 何も言えずに押し黙った私にロニー君がいまさらなことを言ってきた。


「アイカさん、僕がイーレンハイツだってこと忘れてませんか?」

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