戦いの後(1)
意識が戻ると同時に私は強烈な吐き気に襲われてその場に胃の内容物を戻した。乗り物に寄ったわけでもないのに感じたそれは精神的な不快感が原因だ。寝転がったままだったので汚物が口の周りについたのを拭い取ると、手首にかけられたロープに気がつく。
「アイカさん? ……大丈夫ですか」
恐る恐るという様子で私の顔を覗き込んでくるのは不安そうなロニー君。その様子を見れば手首のロープの意味も理解できるる。気を失う前の私が何をしたのか、否が応でも思い出される。手に残る生暖かいねっとりとした血の感触とその匂い。
「なにが――」
どうなっているのと続けようと周囲を見渡して私のいる場所が変わっていないことに気がついた。近くにあるのはゲナハドの死骸に炭化した人らしきもの。それにカンちゃんと横たわる――。
「オルト!!」
私は立ち上がろうとしてその場に派手に転んだ。
「ごめんなさい。その……」
ロニー君が慌てて私を抱き起こしてくれる。ロープで縛られていることに気がついていたのに、うっかりしていたことにこんな状況でありながら微かに赤面する。ロニー君は私が倒れないように支えると、手足を縛っていた戒めを解いていく。縛っているのは布を切り裂いて作った即席のロープ。私がまた暴れないようにしたのだろう。責められるはずもない。あの時の私はどうしようもなかった。
いまも手に残る生々しい感触。
操られていても感覚は私の物だった。匂いも温度も感触も忘れることができない。いまの私が無事なのはアルバートが立ち去ったからだと思う。
「それでオルトは?」
「アイカさんが気絶したあと血の匂いに誘われて鬼獣が襲ってきたんです。オルトさんは治療することもなく僕たちを守るために動いてくれていました。でも……たぶん、血を流し過ぎたんだと思います。とりあえずの止血はしたんですけど、僕一人じゃオルトさんとアイカさんを抱えて街に戻ることもできず、カンちゃんにお願いしたんですけど全然理解してくれなくて、それで、その、どうしたらいいか。わからなくて……」
「ありがとう。もう、大丈夫だから」
自由になった手で私はロニー君を抱き寄せる。
気丈に振舞っていてもロニー君は12歳の子供だ。こんな状況で取り乱してないだけで十分すごいと思う。口ではオルトが守ってくれたと言っているけども、ロニー君自身も鬼獣と戦ったらしいことは身体についている返り血を見ればわかるもの。
「で、あの人たちは?」
ゲナハドの死骸に寄ってきた狼の鬼獣のほとんどはオルトとロニー君、そしてカンちゃんに倒された。だけど、それですべてだったわけではないらしい。オルトが気を失った後も鬼獣は現れた。
「僕を守ってくれているんだと思います」
ロニー君と、カンちゃんだけでは捌き切れず、意識を取り戻したイーレンハイツ兵たちが鬼獣と戦っていた。彼らにとってロニー君が守るべき対象なのは変わらないのだろう。その戦いももう終わりそうだ。
私はオルトのそばに移動すると状態を確かめる。
血を失った分青白い顔をしているけども呼吸は落ち着いている。その出血もロニー君のお蔭でこれ以上はなさそうだった。
「オルト、ありがとう、そしてごめん。本当にごめんなさい」
私を守ってくれたこと。
大怪我させたこと。
そして何より、アルバートを逃がしてしまったことを謝罪した。
どうしよう……。
青白い顔のオルトに今すぐにでも精霊術の治療を試みたいと思うけども、それをするのが怖かった。
私の右肩に腰かけているドンちゃんをにらみつける。
アルバートがいなければ、謎の生き物はただの小さな可愛らしい妖精に過ぎないというのはわかっている。でも、精霊術を使うと、私のマナに反応してドンちゃんが動き出すのだ。いままでは踊ったりするだけだったけど、いま使えばどうなるのか予想ができなかった。
「アイカさん?」
「ううん。何でもない。とりあえず大丈夫そうだね」
「でも、いつまでもこのままってわけには」
「うん。わかってる」
これ以上の失血はないといっても、重症であることには変わりはない。出来ればきちんとした治療を少しでも早く受けさせないと危険だと思う。
私が気絶していた間とは状況が違う。ロニー君一人では何もできなくても意識を取り戻した私は自分で歩けるし、カンちゃんに頼めばオルトを運ぶのも問題はない。
「移動したほうがいいわね」
「そうだろう。ああ、安心しろ、君たちが行くのを止める気はない。だが、ロニトリッセ様はこちらに引き取らせてくれないか」
鬼獣との戦闘を終えた兵の一人が話に入ってきた。
「さきほどのランカスター様とのお話は聞いていました。それゆえロニトリッセ様やそちらの方々が我々から逃げようとしていたということも理解しています。こちらを警戒する気持ちは理解しますが、我々にロニトリッセ様を害しようという気は一切ありません」
「でしょうね。利用されただけっていうのは何となく想像できるから。それで、そちらに預けたとしてどうするつもりですか」
「それはもちろんまずは街に帰って――」
「はん。冗談でしょう。ロニー君――じゃなくてロニトリッセ様が街中で街兵らしき人達に襲われた事は知ってますよね。それなのに街に連れ帰るなんて正気ですか」
「で、ですが、ランカスター様はもう……」
カグフニが死んだからこれ以上の襲撃がないというのは些か早計じゃないだろうか。
酒場でオルトが得た情報によれば、アルバートらしき男と取引をしていた男がルーデンハイム伯爵の邸宅に消えていったという。つまり、アルバートとつながりがあったカグフニ、それにルーデンハイム伯爵は繋がっている可能性が高い。
そうなると、街兵らしきもの、ではなく街兵そのものが敵である可能性が高い。
「カグフニさんが首魁だったらそれでいいかもしれないけど、それより上、具体的に言えばロニトリッセ様のお兄様の策略だとすれば街中が安全とは言えないでしょう」
「私もその通りだと思います」
「で、でしたら、このままロニトリッセ様の護衛をしながら領都に向かいます」
「領都は安全なの? ううん、お兄様が主犯だったらそもそも領都に続く道には網をはっているんじゃないかしら」
「それはそうかもしれませんが、少なくとも怪我をされているそちらの方よりは我々の方が護衛の任は果たせることができるかと」
「今すぐ出発するならって話よね。ロニトリッセ様も街で襲われたときの傷が全快したとは言いにくいし、オルトの怪我が回復するまでどこかで潜伏すればいいと思うけど」
「いえ、それでは遅すぎます。いまの領都の状況を考えれば、今すぐにでも出発すべきです」
「どういう意味」
「……」
私のなんてことのない言葉に兵士の顔が一瞬強張った。
領都に何かあるのだろうか。急いでロニー君が戻らなければならないよう何かが。