ソフィア
腰の曲がった老婆が100はあろうかという小さな引き出しをあっちこっちと開けては草や花、実などを次々と取り出していく。どの棚に何が入っているのかすべて把握しているのか、目印もないのにその動きは滑らかで迷いがない。
「……カライチの根とスラートの実、あとはこのジアスノの粉末ね。全部でえっといくらになるんだ。ちょいと待っとくれ」
計算をしている老婆の真向かい、カウンターテーブルの上に並べられた薬草をソフィアは一つ一つ確認するように手にとって自分の籠に入れていく。
その手がぴたりと止まった。
「スラートの実、ちょっと軽くないですか」
同じ大きさの実でも持つと重さが違うので、果肉の詰まり具合がわかるのだ。生なら気付くのは容易いけども、乾燥させると水分が無くなる分違いに気がつくのは簡単なことではない。指摘を受けた店主はスラートの実を手にとって、掌でころころと転がした。
「どれ……ああ、ソフィアちゃんも随分と目利きができるようになったもんだね」
「えへへ。お師匠様の所で修行を初めてもう一年ですから」
褒められて照れくさそうに頬を赤らめるソフィアは、何かに気がついたように頭を左右に振った。
「ってもう、誤魔化されませんよ。アンナさんの所の薬草は質がいいから通ってるのに、中途半端なものを混ぜないでくださいよ」
「ちょっと試しただけじゃよ」
「ほんとですかぁ?」
なんだか揶揄われたみたいだと思いながらも、今度は棚からしっかり身の詰まったスラートの実が取り出されて交換されるとそれ以上は何も言えなくなる。
「全部で1024エードだね」
「それじゃあ支払いはこれでお願いします」
ソフィアからお金を受け取った店主は金額を数えてお釣りを渡す。ソフィアは籠に入った薬草をチェックして買い忘れがないことを確認すると満足げに笑顔を見せる。
「うん。これでお師様に頼まれていたのは全部ですね。ありがとうございます」
「こちらこそ毎度ありがとうね」
からんからんと鈴の音をたてて扉を開ければ、外に出たソフィアの頬を雨が叩く。
「雨かしら」
店に入る前はまだ大丈夫だったのに、とソフィアが困ったように空を見上げると、どんよりと雨雲が街の上空を覆いつくしていた。ぽつぽつとまばらな雨が地面を叩いているけども、これから雨足が強くなりそうだと人々に思わせる分厚い雲を見て、胸元から取り出したハンカチを買い物かごに被せた。
「いそぎましょ」
フードを頭にかぶりながら小走りに大通りに出ると、あっという間に雨が激しい音を奏はじめる。露天商は慌てて商品の片づけをはじめ、通りを歩く人々は帰路へと急ぐ。いつもは人の多い時間だというのに、すぐに通りは閑散とさみしげな雰囲気を醸し出す。
「近道してもいいよね」
誰かに言い訳をするようにソフィアは小声で言った。その相手はノーブレンから一緒に中央都市に来た恋人のレンである。かつて住んでいたノーブレンの領都よりも、この中央都市は一回りも二回りも街が大きく人が多い。
人が集まると残念なことに犯罪も増える傾向があり、それを懸念したレンから細い路地や裏通りを避ける様にと口を酸っぱくして言われていたのだけれども、雨に打たれたら風邪を引きかねないし、何より師匠に頼まれた薬草を濡らしてしまってはことだと、そう考えたのだ。
「でも、ちょっと失敗だったかな」
地面に出来たばかりの水たまりを跳ねながらソフィアは裏路地をかけていく。表通りと違って街灯のない裏路地は、雨雲の影響もあって夜と同じように暗い。ソフィアは背筋に這い上がるゾクゾクとした薄気味悪さに感じて足を早めた。
表通りと違って複雑な作りの路地を右に左に曲がりながら、大通りを目指していたソフィアの足が止まる。
目の前に誰かが座り込んでいた。
薄暗く影と同化している所為で顔が見えないがたぶん男だと思う。そう考えたソフィアの足が一歩後ろへと下がった。
嫌な気配に引き返そうかとした瞬間、雷鳴が轟いた。
「きゃっ」
短い悲鳴をあげながらも空を切り裂いた稲妻の光によって裏路地が一瞬だけ昼間のような明るさを取り戻す。シルエットしか見えなかった男の姿が浮かび上がり、思わずハッと息をのんだ。
彼は路地を塒とする住人とは明らかに違う立派な服を着ていた。
それも見慣れたものである。
「アルバートさん?」
恋人のレンの同郷であり同僚の男の名前をソフィアは口にする。ノーブレンにいたときから何度か一緒に食事をしたこともあるので間違いはないはずだった。
名前に反応して男が顔を上げる。
「……ソフィアか」
「ええ、そうです。あの、大丈夫ですか」
稲光で見えたのは一瞬だったけども、アルバートの服はところどころが破れ血痕らしきものが見えたのだ。彼の座り込んだ地面は雨水に朱が混じっている。怪我をしているのだろうかと、考えるのは当然のことだった。
また、雷鳴が轟いた。
アルバートの顔に刻まれた大きな裂傷にソフィアは息を飲み込んだ。薬師の見習いとして師匠とともに怪我人の治療に当たったことは何度もある。もっと悲惨な姿を見たことも一度や二度ではないけども、だからといってすぐに慣れることはできなかった。
一刻も早く街を出たいアルバートだが、レンだけでなく王の護衛との連戦が容易なものであるはずもなく、体力は大きく削られていた。流した血も多く、人に見られないように裏路地で僅かな休息を取っていたところだった。そこへ知り合いが訪れたのだ。
アルバートの顔が険しくなる。ただの街の人であれば面倒ごとへのかかわりを忌避する可能性もあるし、ごまかせるかもしれない。だが、知り合いだとそうもいかない。情報が早々に伝わるだろう。
殺すか?
その答えに結びつくのに掛かるのはほんの一瞬のこと。
だが、その動きをソフィアが押しとどめる。
「動かないでください。すぐに誰かを……」
「必要ない」
「でも」
「……大丈夫だ。いいからそこを退け」
「大丈夫なわけないじゃないですか。右目が……ああ、もう、いいです。私が治療しますから。じっとしていてください」
「なにを?」
怪訝に顔をしかめるアルバートにソフィアは近づく。
修行中の身でその腕は師匠には遠く及ばくても、薬師を志しているソフィアに怪我人を放っておけるはずはなかった。都合のいい事に師匠から頼まれたお遣いで外出していた彼女の手元には治療のための薬や道具が揃っていた――。
中央図書館の周りには大勢の兵士が集まっていた。いくつかの班に分かれてそれぞれが役目が全うする。被害状況を確認するもの、他に敵がいないか周辺を警戒するもの、怪我人を担架に乗せて運び出すもの、周辺の住民が現場に入ってこないようにするものなどなど。
「くそったれ、公爵様はどうなった」
場を仕切る階級の高い兵士の元へと伝令が集まってくる。
「王城にお戻りになられた公爵様ですがすでに意識が戻ったとのことです。護衛兵と違い大きな外傷はないそうです」
「外傷がないか……それは何よりだ。それで護衛兵の容体は?」
「中央図書館地下に配備された護衛ですが、半数が死亡、残りも重症者が多く医療院に次々に運ばれている模様です」
「周辺警備にあたっていたものは」
「展開されていた小隊が三つ、そのうちオルトゥハンクレン小隊長殿の部隊が交戦した模様です」
「被害は」
「小隊長殿を初め被害は多数と聞いています」
「なるほど。で、肝心の賊は」
「そ、それが……」
兵士が言いよどむと、上官が鋭く睨みつける。
「どうした?」
「犯人は護衛兵の一人であるアルバートだと意識のある兵が証言しております」
予想外の答えに司令官は眉をひそめた。
「内部の人間の犯行だと? 他には」
「一人だったそうです。しかし、完全に隙をつかれたため――」
「してやられたというわけか」
「は、申し訳ありません」
「お前が謝っても仕方ないだろう。すぐに追跡部隊を編成する。メンドーサとバイデンの隊に情報を流してすぐに向かわせろ。それから外周警護に当たっていたオルトゥハンクレンにも話を聞きたい。彼の怪我の具合はどうだ。話は出来そうか」
「それが……」
自分の責でもないというのに申し訳なさそうに言葉を濁す兵士に、司令官はますます表情を険しくする。それがかえって兵士を委縮させていると気付いていないわけではなかったが、彼自身焦りを感じていた。
「何かあるのか」
「小隊長殿はアルバートを追跡に向かったと聞いています」
「怪我をしているのではなかったのか?」
「それは、そうなのですが」
「まあ、いい。ならば彼の小隊の部下で生きているものを寄越せ。話を聞く」
「はっ!」
兵士が駆け出していくのを見ながら司令官はため息を付いた。公爵が無事だったのは僥倖だが、怪我が少なすぎるのが問題だった。事が起きたことが中央図書館地下だとすれば、狙いはそもそも公爵の命ではなく中央図書館にある機密文書の何かだろう。
他と比べれば位が高くとも一介の兵士である彼にはどのような機密文書があるかは分からない。これほどのことを実行に移した以上、この問題はただの謀反などではない。
それを理解して天を仰げば、彼の顔を大粒の雨が叩いた。




