子爵夫人の怒り(2)
「あなた!! 説教をするというから任せてみましたけど甘すぎですわ。これ以上の許可は必要ありません」
爆乳夫人が乱入してきた。
執務室って隣と繋がってたのね。しかも、わざわざ聞き耳立ててたとか下手なことを口にしなくてよかった。
してないよ、ね。
「テレシア、落ち着きなさい」
立ち上がった子爵が宥めるように奥さんの肩を擦りながら優しく声をかける。私に掛ける声質と全然違うし、本当に仲がいいんだろうなって思う。
「ですが、あなた。この娘は平民なのでしょう。本人もそう言っていたじゃありませんか。いくら大切なお客様と言っても平民に私たちの浴室を使用させるなんてどうかしています」
子爵のおかげで多少声のトーンが落ち着いたようだけど、それでも憤慨している様子は変わらない。少し冷たい印象のある顔なので、睨まれると底冷えするような寒気を感じる。
「まさかとは思いますけど、こんな貧乳の平民なんかと――」
「それはない」
おい、あんたと比べりゃ、この世界の住人だって貧乳だって。しかも、肯定されてもムカつくけど、子爵もそこまで力強く否定する必要ないでしょ。
「だいたい、こんな平民の、平民の……あら、誰この娘?」
睨みつけてくるようなテレシアの視線が魔法にかかったようにいきなり緩和する。
「何を言っている。テレシアがさっきから言っているのが目の前にいるアイカの事だろう」
「嘘仰い。私があの時会ったのはこんな娘じゃ」
テレシアが自分の言葉に自信なさそうにしりすぼみに小さくなる。確かにあったのは一度きりだけど、いくらウィッグをかぶっていても珍しい黒目なのは間違いないし、日本じゃ平凡でもこの世界の人と比べると逆に特徴的な顔だと思う。
見間違えられるとは思えないんだけど。
「本当にあのときの子なの?」
「あ、ああ。俺にはテレシアが何を言っているのかさっぱりわからないんだが……」
怒髪天貫くような怒りの頂点にいたテレシアの様子の変化に子爵が困惑していた。子爵の手から離れると私の目の前どころか、キスするくらいの距離まで顔が近付いてきた。爆乳が身体に当たっているんですが?
「どうなってるの。あなたのその肌、ぷるんぷるんじゃない?」
「え、え」
言われた私は自分の頬に手を当てと、指に吸い付くような感触がしっかりと感じられる。
この世界に来てからというもの日々のお手入れができないばっかりに、10代とはいえその肌は日々ダメージを受けていた。それが、以前の張りのあるもち肌に戻っているのだ。
そう、ロニー君の協力もあってグリセリンを取り出した私はトリートメントと化粧水の開発に成功していた。まだ、調合の割合が探り探りの状況なので子爵には話してないけど、効果を確かめるためにも私は毎日使っている。
その効果に夫人は気がついたのだろう。
「えーと、奥様。この肌の秘密にご興味が」
「あるに決まっているわ」
テレシアの目がきらりと光る。
「ということはこちらにもご興味が?」
私は屋敷の中でかぶっているウィッグを外した。すると赤髪に隠されていた私本来のつやつやの黒髪がさらりと流れる。あまり見せていいものじゃないけど、子爵が口止めをすると思う。
「何て……美しい。触っても」
「ええ」
テレシアの細く白い指が私の黒髪に入ると、するりと何の抵抗もなく通り抜ける。
「これは……」
驚愕して言葉を失うテレシアの髪も十二分にきれいだと思う。こっちの世界にもツゲ櫛のようなものがあるので、それで髪に潤いを与えているみたいだけど、私の髪の艶と彼女のそれとは次元が違う。
ふっふっふ、天使の輪は伊達ではないのだよ。
「この艶はどうやって?」
「私の作っている秘薬の効果なのですけれども、平民風情の使うようなものをまさか子爵様の奥様に使っていただくわけには……」
テレシアの顔が一瞬引きつり、ロニー君が私の服の裾を引っ張った。
そっちに目を向けると、「また、そんな言い方をして」と口パクで言ってきた。だって、さっきから平民風情って失礼なことばかり口にするんだもん。
しかも、貧乳とかいうし。
別に気にしてないけど。
そもそも貧乳じゃないし。
「いいから教えなさい」
ほらね。そういう上からの態度が気に入らないんだってば。売り先はまずは貴族になるんだろうから、テレシアに最初に試してもらうのが正しい手順だと思う。だけど、ただで使わせるはずがないでしょ。貧乳呼ばわりするよなこんな嫌な女に。
「子爵様」
「なんだ」
答える子爵の声には、俺を巻き込むなというような感情が見え隠れしている。けどさ、子爵を巻き込まずにいられるわけないじゃない。
化粧品の販売に子爵の力がいるというのはもちろんだけど、個人的にも思うところはあるわけでがっちりと子爵をホールドする。
交渉の相手は子爵だ。お金の話に夫人は入れない。それが貴族社会の掟だもんね。
「私の作った薬液を幾らで買っていただけますか」
「買っていただけますかって、俺の所の設備を使って俺の金を使って開発しているのだろう。メルべから報告が上がってきているが」
最初にもらった石鹸作りの廃液は子爵の名前があるからただで譲ってもらっているが、それ以降は購入しているらしいのだ。その上、第二キッチンを借りて試験をしている。作ったものを入れるための瓶を手配したりとか、いつまでもロニー君の精霊術だよりというわけにはいかないから、科学的な方法での抽出の研究とかとか。
つまり、子爵の言ってることに間違いはない。
「それは否定しないけど、それならいままでに掛かった費用はこちらで清算するわよ。私だってお金がないわけじゃないもの」
「それは……」
元々持っていたお金に加えてグランデール子爵邸にいるときには、温度計の開発費として結構な金額をもらっている。化粧品関係の開発に掛かった費用くらいなら余裕でお釣りがくるもの。それが子爵にもわかるんだと思う。
「あなた!! 何を言い負かされているんですの」
「だが、アイカのいう事にも一理ある。今までの功績を思えば、買い取りという手順を踏んでもいいだろう」
「何が功績なもんですか。こんな娘が何をしているか知りませんが、メルべや他の方の力があればこそでしょう」
「ああ、いや……」
実情を知らないテレシアの言葉に子爵が声を詰まらせる。平民なら女性も働くことはあるけど、メイドとかウエイトレスとかの仕事はしても工房で働いていたり研究職につくような女性は皆無だ。
商人を名乗ったときですら意外だという印象を相手に与えていた。そう考えると、男を相手にするときと同じように話を聞いてくれる子爵は考え方が柔らかい。
「私も無理は言いません。ですけど、そうですね、儲けの一割でいかがでしょうか。それと、これまで通りお風呂に入らせてください」
「何て強欲な」
呆れたような声を出すテレシアと違って、子爵はこめかみに指をあてると考え込んだ。損得を計算しているのだ。私がここにいるのは長くても4か月。それが過ぎればマナ石の心配はなくなる。問題は私の作る化粧品関係の売れ行きがまるで見えないことだと思うけど、奥さんの食いつきようを見れば、貴族の女性にとって大きな価値があるらしいことは想像ができる。
果たして……。