山河迷走
長い人生のほんのひとコマを切り取って表現しました。
今後もいくつかの断片を繰り広げたいと思います。
ヒマつぶしに楽しんでいただけたら幸いです。
山河迷走
「あ! 今の標識を曲がるのよ」
妻が叫び声に、スピードのついた車はブレーキが間に合わず、通りすぎたあとだった。
見通しの良いカーブだから、せめて百メートル、いや五十メートル手前で指示してくれたらとため息が出る。
けれど運転をしたことのない妻にとって、運転手の都合など些細なことなのだろう。
何度いってもきかない妻に、しだいに俺も無駄な文句は言わなくなった。
こうして慣らされていくのかなとも、ふと思うが、とりあえずは目的地に着くことだ。
なに道なんてどこかで繋がっている。そのへんの車一台がやっと通れそうな未舗装の道だって、走っていけばいずれ広い道にでる。
山間地の道路の両側は、眩しいほどの緑が続く。天気もいいし、山の涼しい風が都会のぬるい空気を忘れさせてくれる。前にも後ろにも人も車も見あたらない。まことに命の洗濯のドライブだ。
行き先は特別養護施設。標高千メートル近い山の中に巨大な施設がある。昨年、脳梗塞におそわれた父親を預けた。
緑が眩しい景色も、冬にはおそらく滑り止めタイヤがないと来ることができないような山の中である。
「こんな山の中なのに入居者が多いのですね」
施設見学の際に職員と入居者であふれる通路を見ておどろくと、職員は一瞬遠い目をしてつぶやくように答えた。
「どっちみち面会には年に数回しか来ない方が多いから、かまわんのですよ」
その言葉に胸がチクッと痛みを落とした。自宅から車で二時間。年に数回しか来られない派には図星の痛み。
「ねえ、あのわき道に入ったらいいと思うわ。あんまり行き過ぎると迷うわよ」
アドバイスをしているような言い方だが、言葉尻がキツい。言われた通りスピードをゆるめたが、未舗装の先は畑が広がり農機具小屋があるばかり。どうみても行き止まりだ。
「待ってくれ、もう少し行ってみよう」
都会の道路事情と大きく違い、十分も走ると相当な距離を進む。地図帳に視線を刺していた妻が窓の外を大きく眺める。
「この先はう回路なんてなさそうよ。このままずっと行くと海に出るのね。あっ、ちょっと待って。滝があるんですって。ほら、よくテレビに出るじゃない。有名な滝よ」
家を出発する時にはドライブがてらでいいわね、とはしゃいでいた妻との空気がしだいに悪化してきたのを感じてきた。
水に流すとはいい言葉だ。コーヒーでも飲んで滝を見れば気持ちもリフレッシュするに違いない。
ウインカーを出して駐車場に入ると、あれだけ空いていた道路のどこにこんなに人がいたのかと思うくらい混んでいた。
なんとなく妻の顔をチラっと見ると、目が合った。ゆっくりと妻は、大きくうなずいた。
「ここの売店で道を聞くわ。もしかしたら近道がわかるかもしれないもの」
妻の勇ましい背中が建物に吸い込まれていく。「道は繋がっている」と言いきってしまったけれど、やはり最初の標識まで戻らないといけないかな、そんな気がしてくる。
本来ならカーナビに任せればいい。初めて施設を訪れた時も迷うことはなかった。が、車検にあたった。二人の休みが重なる日は滅多にない。代車にはカーナビがなかった。仕方なく、途中のコンビニで地図を買って妻のナビゲーターでここまで来た。
窓を開けてリクライニングすると、ひんやりとしたいい風が肌を撫でる。朝早く家を出てハンドルを握りっぱなしで疲れがでたのか、ウトウト……心地よさに瞼が閉じる。
いきなり助手席のドアが開いて乗りこんで来たので、あわててとび起きる。助手席から慌ただしい空気が伝わってきて、妻がリフレッシュして張り切りだしたようだ。
こういう時はグズグズしていると妻の機嫌が悪くなるのはすでに学習済み。
エンジンキーをまわしアクセルを踏んで今来た道を戻った。やはり道路には車がほとんど走っていなくて快適に山道を進んでいく。
「あーっ!」
突然、つんざくような悲鳴が響き渡った。
一気に急ブレーキを踏んだ。車が悲鳴を上げる音と、タイヤのゴムの焦げる匂いに包まれる。
エアバックがよく開かないものだと感心するくらいの衝撃に、何が「あーっ」だったのかと責めるように妻を見て、今度は心臓が凍った。
「誰?!」
同時に叫んだ。助手席にいたのは見知らぬ女性。年齢と白っぽい服装だけが妻と共通点だった。
言葉にならない声が出た、と思う。相手の女性も「間違えました、すみません」といったきり硬直している。
きっとよく似た車だったのだろう。運転手を待たせてはいけないと気遣って、急いで乗りこんで来たに違いない。
俺もまさか妻以外の女性が乗りこんでくるとは想像もしなかった。
すぐにUターンをして滝に引き返した。駐車していた場所には似たような色と形の車と、鬼のような顔をした妻が立っていた。
結局、最初の標識まで戻った。左折するとあっけなく施設が見つかった。自宅付近では決して見ることのない(動物注意)の標識を眺めながら、ドライブと人生は似ていると感じた。
俺も人生のどこかで、いくつかの標識を見逃してここまで流れてきたのかもしれない。
けど、行くつくことのなかった未来よりは、ここがベストに違いないと思いたい。
耳慣れた声に振り向くと、妻がすっかりぬるくなった紙コップのコーヒーを差し出していた。
おつきあいしてくださって、ありがとうございました。
よい一日でありますよう。