泡でも我儘は消せない
松本初音は、お酒が大好きであった。特にジントニック。
パチパチはじける泡とともに、嫌なことさえ消えていくような気がする。
そんなとき、隣、いいですか、と座ってきたのは、今でいう「塩顔男子」というもので。
一重まぶたがキリッとした男の人であった。
いいですよ、と会釈をして、軽く好きな話なんかしたりして。涼しげなお顔に反して、ファジーネーブルが大好きだと言った彼は、まさしく初音のタイプであった。
この人だ、と全身が告げている気がして、よかったらもう一軒どうですか、という誘いにも、食い気味に乗ったのであった。
そして。
翌朝、初音はラブホテルの一室で目が覚めた。
ドウシテコウナッタ、などと昨晩の私に告げても仕方がないな、と初音は諦めて隣の寝顔を見た。
初めて出会った男と、致してしまうなんて。
そしてその相手が。
いまをときめく俳優である、春野隆だなんて。(今気が付いた)
どうして昨晩の私は気がつかなかったんだ、と初音は自分を責めながら、すっかり目覚めた頭で考えた。
彼は俳優だから、こんなことは日常茶飯事なのだろうと。そして、スキャンダルも困るのだろうと。
そんな初音がとった行動は1つ。
ホテル代七千円と、このことは私も忘れるからあなたも忘れてくれ、というメモを残して、逃げるように自宅に帰ったのであった。
隆は、目覚めて一番に思ったことは、「やってしまった」である。
俳優であるがゆえに、会ったこともない女から子供の認知を頼まれたことさえあるが、今回も、このことにかこつけて何か言われるんじゃないか、なんてグルグル考えて。
自分の隣のスペースが、やけに冷たいことに気がついた。
シャワーでも浴びてるのかな、なんて呑気に考えていたけれど。
机の上に置かれていたのは、ホテル代と置き手紙だけで。
ホッとしたのはいいものの、ホテル代はほぼ全額を置いて行かれた。
おごらせる気はないどころか、頼る気もない、と宣言されたようで。
彼女に対して、一瞬でも「やってしまった」と思った自分が恥ずかしくなった。
そしてその次の金曜日の夜。所謂華金である。
春野隆に会ってしまうことと、お気に入りのバーのジントニックを天秤にかけて。
初音は迷わずジントニックの腕を上げた。勝者は、美味しいお酒。
キリッとしたトニックウォーターで割ってもらわないと初音は納得がいかないし、最後にオマケでミントの葉を浮かべてもらわないと気持ちが上がらない。
そもそも幼馴染が開店したお店なのだから、私が遠慮することはないのだ、なんてごにゃごにゃ言い訳をしながら、いつものカウンター席に座る。
ジントニックの泡とともに、全てが消える気がして。
「珍しい、初音さん赤ワインいけたんだ」というバーテンダーの声にはっとした。
初音は、サングリアを頼んでいた。
今日は、泡とともに消したくない気がして。
あの思い出を肴に、ちびちびと、イチゴがたっぷり入れられたサングリアを飲む。
初めてだったんだけどなぁ。
ある意味、「この人だ!」と全身が訴えたのは正解だったのかもしれない。
私の初めては、春野隆です、なんて一番の自慢じゃないか。(信じてもらえるとは思わないけれど)
そもそも、一生結婚する気なんてなかったのだから、純潔の1つや2つ、俳優に捧げることができたのはラッキーとしか言いようがない。
早く、「あのことは夢だったんじゃないか」なんて思えるように、思い出が意識に溶けていかないかしら、と願いながら、グラスを傾けたところで。
「隣、いいですか」
そう言ってきたのは、春野隆であった。
何事もなかったかのように一緒に飲んで。
サングリアにゴロゴロとイチゴを入れてくれるこの店が好きだ、とか、仕事を辞めたら海辺の街で過ごしたい、なんて話して。
早く思い出にしたい、という初音の理性とは裏腹に、初音の口は動いていた。
「もう一軒、どうですか?」
ヤッテシマッタァーーーー!そう心で叫んだのは隆ではなく、初音の方であった。
早く夢か現かわからないところまで思い出を昇華させようと頑張っていたのに!本能のバカ!
なんて考えながら、ベッドから体を持ち上げようとして。
持ち上げようとして。
諦めた。
腰が痛くて持ち上がらない。
というのも、「なぜ一人でいなくなったのか」と隆が拗ねながら激しくしたのが原因なのだが。
初音は昨晩の記憶を無意識になぞり、顔を赤らめた。ピー(自主規制)がピー(自主規制)でピー(自主規制)なんて!
そのまま、なんとか逃げる術を模索するも、体が持ち上がらないことには動けない。
そこへ、シャワーを浴び終わった隆が来てとどめの一言。
「外に記者がいるから、今帰ると質問攻めだよ」
だから明日に車で送っていってあげる、と言われても、なぜ今日では駄目なのか。
そして、周りの状況を確認して、絶望。
ここは、ホテルじゃない。春野隆の自宅だ。
それから初音は、隆に送ってもらい、仕事に向かうのだが。いつの間に登録したのか、隆からメールが来ていて。
「腕時計と手帳、返して欲しければまたおいで」
隆は細々としたものを攫うのが得意なようで。そして、小さなお願い事を初音にする。
こんなことを続けているうちに、初音は諦めた。
初音が諦めたのを隆も分かったのだろうか、とうとう大きなお願い「一緒に住もう」の爆弾を落とし、初音はそれを受け入れてしまった。
初音は、恋愛に冷めていた。
父親が大学の教授、母親が学生であり、母親が既婚であった父親に惚れ込み、それはそれは壮絶な不倫略奪愛の末に結婚したのだとか。
母親が父親の元妻に刺されたところを、父親が助けたシーンについて、ドラマティックに何度も母親から聞かされていた初音は、登場人物全員が頭が悪いのだと幼い頃から気が付いていた。
大学の教授で、その世界では有名な人物である父親も、恋愛沙汰が絡むとこんなに頭が悪くなるのか、と。
ならば、私は恋愛をせずに生きていこう、と。
そう決意したのは、9歳の夏であった。
そして、その決意の賜物か、初音は弁護士になり。
離婚調停などで修羅場を見るたび、初音はその決意を固くするのであった。
まさか、自分が恋愛沙汰に振り回されるとは思っていなかったけれど。
だから。
初音は早くも同棲に踏み切ったことを後悔していた。
もともと俳優である隆は、ドラマ撮影期間にはほとんど帰ってこない。別にそれはいいのだ、一人が好きだから。
夜遅くに帰ってきて、酒臭い息で「はつねぇ〜」なんて言われて、毎朝コーヒーを隆に淹れる。
ほとんど家政婦のような生活を、隆の「初音」に絆されて続けている現状が信じられないのだ。
これじゃあまるで。
まるで、両親のような頭悪い人たちみたいじゃないか。
自己嫌悪と「初音」の狭間で、初音が悩んでいた頃。
隆は、女遊びに明け暮れていた。
初音は、ホッとしていた。
「これで、解放される」
初音の手にあるのは、週刊誌の春野隆のスクープである。
「共演女優と熱愛!既に同棲、結婚間近!」と銘打ったタイトルに、同棲しているのは私だけどね、と毒吐いてから。
そういえば1日だけ、初音は職場で研修合宿があって帰ってこなかった時があって。
その日に撮った写真である。二人がマンションに入っていく画像は。
よくもまぁ器用なことをするのね、と半ば呆れながら。
初音は荷物をまとめ始めた。
二人で宝石店に入って、指輪を買ったという写真もある。
むしろ初音の方が、「浮気相手」だということを、いやでも理解させられた。
初音はもともと持ち物が少ない。すぐに荷物はまとまった。二人で買ったお揃いの寝間着は置いていく。
そして。
これで、頭の悪い自分から解放される。
チクリと痛む胸の傷を、見ないふりをして。
部屋を後にした。
初音が消えた。
隆は、飲み会から帰ってきてすぐ、そう理解した。
机の上にあるのは、自分の載った週刊誌と、置き手紙。
「今までありがとう、ごめんなさい」と。
これで堂々と、彼女をうちに上げることができるなぁ、なんて白濁した意識の中で考えて、そのまま眠りについた。
**
*
「初音、コーヒー淹れて」
「初音」
返事がない事に気がつき、そういえば彼女は出て行ったのだと再度認識。
一緒に暮らし始めてから、コーヒーを粉ではなく豆を買って挽いてから淹れるものだと初音に力説され、買ったコーヒーミル。
使い方が分からず、コーヒーを飲むまでに一時間もかかった。
いつもなら、起きて直ぐにコーヒーがテーブルに運ばれていたというのに。それから、仕事に向かう初音にキスをして、シャワーを浴びたら、昼前にマネジャーが迎えに来て。
仕事終わりに彼女とデートして、酒臭いまま帰った罪悪感を晴らすように、初音に抱きついて、寝る。
そんないつもが少し変わることを残念に思いながら、隆はコーヒーを飲む。
今の彼女も、どんどんワガママになってきて、結婚をちらつかせるようになってきたから潮時かなあ、なんて考えて、隆はシャワーを浴びた。
初音は、自分を信用しない事にした。
どれだけ理性ではわかっていても、どうにもならないことは、隆の件で立証済みである。
仕事でお世話になった方の事務所で雇ってもらえるという話を聞いて、初音は飛びついた。
ここに居れば、また隆に会うかもしれない。
そうすれば、また同じ過ちを犯してしまう。
そう考えたからだ。
偶然か運命か、新しい職場は海辺の街にあって。
「退職したら、海辺の街で静かに過ごしたい」なんて、隆に話していた夢が、一足先に叶ってしまった。
「春野隆、早くも破局か!?」
そんな週刊誌の記事に、一喜一憂してしまうような自分なんて、見たくない。
初音は、この世にいる限り、彼の呪縛から逃れることはできないのだと思い知った。
また、初音に会えるかもしれない、と、隆はバーへ向かう。
いつも彼女はジントニックを飲んでいたなぁ、なんて考えながら、カウンター席に座る。
いつものバーテンダーさんと話して。
「そういえば初音さん、引っ越したらしいですね」
「寂しくなりましたね」
と言われて初めて、彼女の「日常」さえも奪った可能性に気が付いた。
慌てて彼女がいた法律事務所のホームページを確認し、所属弁護士のページに飛ぶけれど。
そこに初音の名前はなく。
「もう二度と会えないかもしれない」
そして
「そうさせたのは自分である」
その事実が、何より隆を落ち込ませる。
数いる女の一人だけど、同棲に踏み切ったのは初音だけで、
結婚を迫ってこないのも初音だけで、
初音の中で自分の順位が低いんじゃないか、なんて焦って。
だから、初音が出て行った時、彼女の中に自分の存在があったことに、ほっとしたのも事実で。
それだけに、「もう会えないかもしれない」ということが堪える。
だから、隆は自分の目を疑った。
グルメ番組のロケで、どれだけエビが美味しいかについて、共演者が熱弁している時。
窓の外に、初音の姿を見た気がした。
幸い、ここが最後の店で。
お疲れ様です、とみんながワゴンに乗る中で、隆は一人駆け出した。
駅の方へ向かったはずだ、と。
初音は、背中で感じていた。
振り返らなくても、あの人が走ってきているのがわかる。
あの人は、ピタリと立ち止まって。
「結婚してください」
許すことも、付き合うことも、全てを飛ばして言われたその言葉に、初音は振り返らずに頷いた。
「許さなくてもいい、俺の人生に初音が欲しい」
なんて、我儘なプロポーズだろう。
初音は、断らなかった。初音だけを見つめなくてもいいから、自分の人生に彼が欲しかったから。
でも、赦しの言葉を言わずに、縛り付けるくらいの報復は許されるでしょう?
これは、我儘な二人が我儘を貫き通して一緒になる話。




