726 平和の質
「平和がいいものじゃないだと。じゃあおまえは、日々魔物に襲われ殺されるかもしれない不安と恐怖に苛まれる日常の方が幸せだとでもいうのか!」
そんなバカげた事があって堪るか。誰だって、様々な恐怖には怯えたくはないはずだ。
「いつ命を失うかわからない状況にゃぁ、身を置きたくないわな」
ボクの怒号を、タカハシのおっさんはあっさり肯定しやがった。
「やっぱり平和の方がいいじゃないか。デタラメなでまかせも大概にしろ!」
「知らねぇからンな事言えンだよ。平和が故に生きる目的もなく、ただ社会の歯車として生かされ続ける日々がどれほど虚しいか」
粋がっていたタカハシのおっさんの瞳から、スンと光が失われた。その暗さは底なしの穴のように絶望的な深さを感じさせられる。
「正直俺もどっちがいいかはわかんねぇよ。今日を生きる保証のない恐怖の世界の方がいいのか、よほどの事がない限り生き続ける事がデキる虚しくて長ったるい世界の方がいいのかなんてな」
問いに対して浮かんできた記憶は、血と涙で地面を濡らしながら志半ばで事切れた人々だった。
元気いっぱいの幼なじみから希望を持ってイキイキと使命を全うしようとしていた男、視界に入っただけでも老若男女キリがない。みんな生きる事を望み、そしてまだ死にたくないと願って死んでいった。あんな終わりが、幸せなはずがない。
「人はきっと、いつ死ぬかわかんねぇから懸命に今を生きれんだと思うぜ。子供の頃ならともかく、大人になってから代わり映えも夢もない現実を淡々と生かされるだけの人生は、生きる意味が薄れてっちまうんだ」
タカハシのおっさんにドス黒いオーラが漂い始めた。不気味さはヴァリーが放っていた死のオーラ以上に近寄りがたい。
「金を必要以上に稼ぐ気もないのに毎日残業をさせられるのは生き地獄だぜ。金より時間が欲しいと何度思ったか、何度願ったか。毎日定時で上がれる事を夢見ては砕かれ、あまつさえ休日出勤まで毎週のようにさせられんだからよぉ。ハタチ過ぎた男なんざ、心が衰えた瞬間からおっさんなんだよ」
視点が合わずに呆然とネガティブに喋るタカハシのおっさんが、年老いて見えてきた。
「まぁ俺を討伐したらイッコクから魔の脅威はなくなるだろうな。あとは勇者が好きなように平和にすりゃいいさ。けど気ぃつけろよ。世の中には間違った平和も存在すんだな。どんな平和にデキるかはテメェの腕次第だかんよぉ」
「どんな平和だって。平和はひとつじゃないのか」
「そりゃ築く人によって平和の種類は変わんじゃねぇのか。考えてもみろや、マリーと一緒に暮らしていた平和がどんな平和だったかをよぉ」
「あっ」
あの平和は、平和というベールで視界を遮られた不平等な平和だった。選ばれた人間だけが甘い蜜を吸い、それ以外が搾取させられ続ける偽りの平和。
「まっ、そういうこった。俺の国も平和だったけど、世界は人種の違いとかの争いが絶えないかんな」
チキュウという世界と比べてタカハシのおっさんがしみじみと呟き、クミンがハッと気付いて食いかかる。
「待ちな。人種の違いとかの争いだって。やっぱり人間以外にも人はいるんじゃないかい。そうなると魔物がいないっていうのもウソなんじゃないかい」
「あぁ勘違いすんな。人種って言っても人間の種類だ」
「はっ、人間は人間だろう」
「チキュウじゃ生まれた国や肌の色で人種を区別すんのさ。ニホンは黄色人種だな。外国じゃ白人や黒人がいて、今でもなお差別の壁は取っ払い切れていねぇ。表面上だけの平等だって結構多いはずだ。ついでに国同士の諍いも続いてる。人間の敵は究極的には人間なんだよ。なんせ歴史上争いのない時代はないんだからな。ニホンはたまたま上手く立ち回れてただけさ」
人間の敵は、人間だって。
「そんなはずはないだろ。現にボクたちは、仲間同士で手を取り合って強敵を打ち倒してきたのだから」
「盗賊や山賊の類いも人間の集まりじゃなかったか。少なくとも魔物が知能的に犯罪する事はないはずだぜ。そもそも法が適応されねぇかんな」
「それは」
人間だ。いや種族が人間じゃないとしても、人の集まりだ。
「せいぜい頑張れよ。平和は一筋縄じゃいかねぇからよ。質のいい平和が作られる事を地獄から期待してんぜ」
タカハシのおっさんは言うだけ言うと、疲れた笑みを浮かべたのだった。




