716 一番を焦がれて
獣爪拳を弾き飛ばしたアクアは、鱘・勇魷槍の勢いを衰えさせぬまま魔王グラスの身体を突き飛ばした。
分厚い氷壁に叩き付けられてなお勢いは留まらない。
魔王グラスのパワーでさえ風穴を開ける事しかできなかった氷壁が、衝撃で砕け散って室内に瞬間的な粉雪を舞わせる。
「破った。魔王ガラスの、獣爪拳を」
アクアがトライデントを手放し、後ろへ跳んで距離を取り状況を確認する。
「あっ、グラス!」
アクアの青い瞳に、魔王グラスの無惨な姿が映し出された。
吹き飛ばされた右腕。逞しい胸筋は青のトライデントに貫かれ、矛先が背筋から生えてしまっている。
それでもなお信じられない事に、魔王グラスは震える二本の足で立っていた。
「ぐっ、ぉぉっ」
弱々しい呻き声が、死に瀕した口から漏れる。
「待っててグラス。今エリクサーを使うから」
アクアは焦ってエリクサーを取り出しながら、魔王グラスへ駆け寄ってゆく。
「カぁっ!」
魔王グラスによる一喝の衝撃波がアクアの進行を退け、踏ん張る足を引きずらせながら後退させる。
「ちょ、何するのグラス」
「まだ俺は立っている。まだ俺は倒れていない。まだ俺は負けていない。俺は、生涯一番の勝負で、姉さんに勝つんだ」
血走った鋭い目つきでアクアを威嚇する。残った左の鋭い爪先を伸ばして、情けなど受けぬと拒絶する。
「もう充分でしょ。早く手当てしないと、グラスまで死んじゃうよ」
「例え今施しを受けても俺は負けを認めていない。ゴフっ。みっ、認めていない限り、俺は戦いを続行する!」
アクアの悲痛の訴えを、魔王グラスは吐血しながらも信念という爪で掻っ裂いた。
完全回復した魔王グラスと再び死闘を演じなければならないと考えると、ためらいがどうしても生じてしまう。
迷っている間にもドンドンと生命の液は傷口から流れ落ち、赤の池を床へ拡げていく。
「意地なんか張ってないで回復しようよ。ソレに、グラスは何度だって私に勝ってるじゃない。今回なんか、徒党を組んでの多対一での偶発の勝利なんだから」
「群れる力も、また力。アクアには仲間の輪に入る力があった。持てる力を十全に発揮した事になんの問題があろう。群れる力に俺の筋力が届かなかっただけだ」
茶色のネコ目から光が消え失せる。
「ソレに、俺はいつも、肝心な時にだけ姉さんに追いつけなかった。遊びでいくら勝とうとも、いざという一瞬では負けを喫し続けていた」
息を荒くしながら、声が小さくなっていきながら、魔王グラスは己にあった敗北を白状していく。
「わかんないよ。グラスは、いつも私より強かったじゃない。私、お父さんが勇者に復讐するって立ち上がった時、仲間はずれにされたぐらい弱かったんだから」
アクアが戦力外扱いだった。何かの間違いじゃないのか。
「ははっ。姉さんは一生気づけないだろうね。いつだって、父さんの一番をもぎ取ってきたっていうのにな。あーあ、俺も、一番になりたかったな……」
カクンと首がうなだれる。上げていた腕もダラリと下がる。なのに、床に縫い付けてある二本の足だけは離れない。
「グラス。グラスはいつだってお父さんから一番頼りにされてたよ。だから一緒にお父さんの所まで行こう。そんな傷パパっと治しちゃってさ。エリクサー、使うよ」
反応しない肉体へ歩み寄り、トライデントを消してエリクサーを頭へとブっかける。まるで寝ぼけている弟を冷たい水で目覚めさせるように。
失った右腕は治らない。開いた風穴も塞がらない。永眠からは、一向に目を覚まさない。
「アクア」
哀愁漂う細い背中へ呼びかける。声のかけ方もわからないまま。
「ジャス、ごめんね。エリクサー、一本ムダにしちゃった」
振り向いたアクアの笑顔が、妙に痛々しく脳裏に刻み込まれたのだった。




