693 地獄の色
「って言われても、見覚え全くねぇわぁ。元々パニックしてたから場所を覚える余裕もなかったし、目印になる物もなかったから全く感慨ねぇわ」
コーイチは改めて周囲を見渡しながら素直に白状したわ。
「風情のない魔王だ事。思い出の場所だというのに。様変わりしてしまっているからしょうがない部分もあるのだけどね」
少しだけ、期待していたのだけどね。思いの外ガッカリしてしまうものね。わざとらしく唇とツンとさせてやるわ。
「場所は覚えてねぇが、イッコクに来て早々、絶世の美少女に出会えた事はクッキリ覚えてんぜ」
久しぶりね、腹の立つドヤ顔をコーイチに決められるのも。美少女だなんて今更もてはやさなくてもいいというのに。
「そう、運の悪い事に最初に出会ったのが魔王の娘である私だったわ。そして、コーイチの地獄の日々が始まった。どこか別の誰かに出会えたなら、平穏に生きる事だってできたかもしれないのにね」
水筒のお茶を入れて差し出すと、コーイチは一息ついたわ。
「確かに、地獄の日々だったかもな。果てには魔王になってんだから人生わかんねぇわ。波乱に満ちて、危険と隣り合わせで。けど、生活に地獄なりの色がついていた」
「色?」
「話したかどうか覚えてねぇけど、俺の暮らしてた日本は平和そのものだったんだ。普通に暮らしてりゃ食いっぱぐれる事もねぇし、娯楽も充実していた」
コーイチのマイルームに置いてある物の数々だけで発展している世界だと窺えたわ。あの狭い居住スペースでさえ思い知らされるほどだもの。外へ出られたらどれほどの驚きに遭遇したかわかったものではないわ。
「そもそもイッコクに来てしまった事自体が地獄だった訳ね」
「楽しい地獄だ。地球で暮らしていた頃よりよっぽどか充実してたかんな」
両手を後ろにつき、背を逸らしながら遠い目で空を仰ぐ。私も釣られて見上げたわ。
「コーイチにとって充実って、平和よりも大切なのかしら」
「充実ってのは、生きる気力だかんな。停滞した灰色の平和より、万倍大切だと実感したぜ」
妙な色合いの平和だ事。
「子供の頃こそ大人になったら色んな事がやれるって思っていた。それこそ虹のように鮮やかな未来があると信じていた。けど成長するにつれやれない事が明確になって、未来は閉じてつまらなくなっていった。あるのは漠然とした、不安だけ」
「何を不安に思って。急に殺されるような物騒な世界ではないのでしょう」
「平和だろうが不安はついて回んだよ。勉強も運動もついていけなくなって、飽きかけている生産性のない娯楽へ逃げ、それでもつまらない現実は迫ってくる。夢を掴んで輝ける人間なんざ極々一部。そんな一部の成功者さえ一歩足を踏み外してはドン底まで転落していく」
夢も希望もない話ね。
「パソコンとか動画とか、かなり発展しているというのに救いようがないように聞こえるのはどうしてかしら」
「なまじ気楽な娯楽が発展しちまったからこそ、人間同士がコミュニケーションをとれないように進化しちまったんだよ。人間として出来上がらないまま就職して、望んでもない仕事をやらされる日々。時間に追われ、プライベートを会社に食い殺されてゆく。使いどころのない貯金だけが増えるものの、数字の羅列にお金なんて実感が湧いてこない」
不意にコーイチの顔に視線を戻すと、瞳から光が失われていた。
「終身雇用制度って無能がハブられないようにするシステムがあんだけど、アレは会社の成長を停滞させるな。無能な人間が無能なまま取り残される。よほどの事をしない限りクビにできないのだから。下を切って上を成長させなきゃ会社なん腐っていくだけなのによぉ。俺みたいな無能、とっとと切りやがれっての」
「コーイチ。そろそろ戻ってきなさい。ネガティブが過ぎて寿命が尽きてしまいそうよ」
肩を揺さぶると、コーイチの瞳に光が戻ってきた。ついでに卵焼きを口に詰め込んでよく咀嚼させたわ。
「んっく、甘いな。まぁ日本でも不満は山ほどあっから、イッコクで起きた地獄には存外満足してんだよ。すっげぇツラいけどな」
強がりつつも生気のある笑顔を浮かべてくれたわ。
私は知らぬ間に、コーイチを灰色の平和から救い出せていたようだったわ。




