672 傷だらけの女神
互いに武器を構えたはいいものの、いかんせん魔王グラスに隙がなくて硬直状態になってしまう。
なんて威圧感だ。一歩踏み入る足がこうも重く感じるなんて。後衛のワイズとエリスが位置取りを取れずにいる。本来一番前に出ないといけないクミンの重圧は言うまでもないだろう。
そして何より、同じタカハシ家であるアクアでさえ冷や汗を垂らして動けずにいる。
「どうした。お見合いをしに来たわけでもないのだろう。見つめ合っていても事は始まらないぞ。それとも、気を利かせて俺から動いた方がよいか」
事もあろうかグラスは双剣をダラリと下げてから、ボクたちの方へと無防備に歩いてきた。
くっ、舐められている。こうまでされて前へ切り出せないなんて勇者として失格だ。
頭でそう身体へ叱咤するするも、足が無意識に後退しようとする。
「やれやれ、随分と弱腰だ。俺としてはサービスをしているつもりだったのだが、こうまで怖がらせてしまうとはな。いっそ背中を向けた方が襲いやすいか。勇者なら自分から攻め込んでみせろ」
挙げ句の果てには本当に背中を向けられてしまった。背を向ける相手を襲うだなんて勇者にあるまじき行為なのだろう。けど背中にすら睨まれているような感覚に襲われ動けないとなると、果たしてどちらが情けないのか。
ボクたちが動けずにいると、遠くから足音が聞こえてきた。息を切らす声も聞こえ、血の臭いがかすか漂ってきた。
「なんだ」
「この匂い、まさかっ」
ボクたちの疑問に対し、魔王グラスは明らかな動揺を態度に示す。
示し合わせずとも全員の視線は音の方へと向けられる。
「はぁ、はぁ。ジャス様。みな様」
「まさか、ドゥーシュか」
遠くで息を切らしながらこちらを見る女性、かつての仲間は見るも堪えない姿をしていた。
露出の多い絹のような衣服は血が滲んでいて、引き裂かれたり穴が開いていたりしている。まるで狼に襲われたかのような痛々しい傷跡が服の隙間から垣間見える。
首にはトゲのついた首輪がはめられており、繋いでいたであろう壊れた鎖が垂れ下がっている。かなりの拉げようから、強引に噛み千切られたのだと推測できる。
つまりドゥーシュは、首輪で繋がれてあられもない姿で痛めつけられていたという事か。
獣に噛みつかれそうになったのをたまたま鎖で防御した事で解放され、必死に逃げてきたのだと推測できる。
「えっ、まさか。これグラスがやったの」
驚いたアクアの声はどこか弾んでいるようにも聞こえた。
対する魔王グラスは応える素振りすらなく、ただドゥーシュを見て目と口を大きく開いていた。
アクアに物申したい気持ちにはさせられたものの、魔王グラスの動向も気になってしまう。
「なんだ。ちゃんとやればできるじゃん。グラスの事だから弱者をいたぶるとかできない性質だと思ってたけど。見直しちゃった。ちゃんと侵略者できてたんだね」
「あっ、えっ、あぁ。もちろんだ」
キラキラとまっすぐな青い眼差しを魔王グラスは、チグハグに視線を彷徨わせながら肯定する。どことなく空気がおかしい。
「そうなんですジャス様。この獣の王は夜な夜なワタシをあられもない姿にしていたぶってきたのです。もうワタシ、神に仕える身ではいられなくなって」
ドゥーシュは悲痛に訴えていたが、だんだんと尻窄みになって顔を背けた。
恥ずかしくて顔を向けられないと、そういう事だろう。
「思ったよりゲス野郎じゃねぇか」
「同感だね。ワシらは何をビビっちまってたのかねえ」
「許さない。覚悟しろ魔王グラス、ボクたちが勇者の力をもってして、必ず野望を打ち砕いてみせる」
仲間の身も心も痛めつけられた姿を見せられて、怯えてなんていられるかっ。
「ねぇアクア。ひょっとして」
「しっ。折角だから黙っててあげてエリス」
エリスとアクアがヒソヒソと話していたけれど、今はそれどころではない。
「まさか人質にこれほどまで闘気を高める効果があろうとは。色々と釈然としないが戦る気になったらなら結果よしだ。来いっ!」
怯えをはね除けたボクたちに、もう重圧なんて効かなかった。




