644 父子の約束
流れに飲まれて受け取ってしまった。フォーレ印の媚薬を。返そうにもいつの間にかチェル様は消えていたし。今日は厄日なのか。
更に溜まった鬱憤を晴らそうと筋トレしまくったが、あまりいい汗は流せなかった。
「シェイ。別の意味で最後の一人は気が重くなったぞ」
本来の最後の砦候補に思いっきり不満をぶつけてやった。もういないけども。
「ん、いけない。もうこんな時間だ。父さんの晩ご飯を作らなくては」
窓の外がとっぷりとオレンジに染まっていた。
もう実家には、父さんしか癒やしが存在しないんだ。
トボトボと歩きたい気分で、全速ダッシュ帰宅をする。父さんの腹を空かせるわけにはいかない。間違ってもチェル様の手料理は食べさせられない。
男冥利に尽きるイベントだろうが、父さんの命には代えられないからな。まだ万全だった頃なら堪えられただろうけど、やつれきった父さんには酷すぎる。
もはや栄養よりも美味いものを食べさせてやりたいぐらいなんだ。俺も父さんも、終わりが近いから。
ただ一緒にいられる時間が愛しい。
砂煙を上げ、どうにか陽が暮れる前にタカハシ家二階建て一軒家の玄関へと辿り着いた。軽く息を整えてからドアを開く。
「ただいま」
急いで帰ってきたなんて気を気取られない様、至って平穏な声を演じた。
「よぉグラス。おかえり。早かったな。今飯作ってるところだから、ちっとくつろいで待っててくれや」
先を越された、父さんに。急ぎすぎて気付かなかったが、そういえばいい匂いが漂っている。
まっすぐキッチンへ向かうと、エプロン姿の父さんが鍋を温めていた。コンソメの香りが胃にダイレクトアタックを仕掛けてくる。
「すみません。帰るのが遅れたせいで、父さんに晩ご飯を作らせてしまって」
「よせよグラス。俺はもうこんくらいしかお前らにしてやれないんだ。っつっても、半端なヤローメシだがな」
屈託なく笑う父さんが自然体過ぎて、思わず涙ぐんでしまいそうになる。今にも消えてしまいそうにも見えたから。
「なんでポトフなんて作るんですか。俺、手伝えないじゃないですか」
「悪ぃな。誰かと並んで料理するの、苦手なんだわ。代わりによぉ、美味しく食べてくれたら嬉しいんだがな」
「仕方ないから待っててあげますよ。うんと美味しいのを期待しますよ」
「ハードル上げんなよな」
平凡な茶化し合いがこんなに貴重だなんて知らなかった。大切な事は失ってから気づくって言う。俺は、失うギリギリ手前で気づけたから幸せ者なんだ。
「できたぞー。グラス、鍋敷き置いてくれー」
父さんが鍋ごとポトフを持ってくるので、ライオンの顔が描かれた鍋敷きを用意する。どっかりと鍋を置き、お椀とご飯を持ってきてからよそう。
父さん得意の一品料理だ。けど量も栄養もたくさんだから温まる。
二人で頂きますをして食べ始める。
「美味しい。けどチェル様はいいんですか」
「チェルならススキとディナーに行ってるぜ。まっ、あいつらなりにオレらの事を気遣ってくれたんだろ。ありがてぇ話だ」
ちょっと複雑だ。散々弄んだ詫びにしては釣り合いが取れてないと思う。
「いよいよグラスも戦うんだな」
声色に寂しげが漂う。悲痛ささえも感じられてしまう。
「安心して下さい。俺、死ぬつもりありませんから」
米をかっ込んでポトフの汁を啜る。口の中で米へ口内全体へと味が広まっていく。
「おいおい。俺の事を心配してんのか。安心しろよ、俺にはお前らが作ってくれた最強の魔王装備があんじゃねぇか」
「あの欠陥品を使うつもりですか。確かに出力は保証しますけど」
「使わせろ」
懸念事項を口にしようとしたら、途中で遮られた。
「俺は歴代最弱の人間魔王なんだ。リスクありきでも武器を使わな勇者と勝負にならんだろ」
そうか。父さんだって魔王なんだ。覚悟、してるに決まってるよな。
「わかりました。でも俺だって、ギリギリまで出番を引きずるつもりなんでご了承お願いしますね」
だから返してやる。とびっきり強気の笑顔を。
「ナマ言いやがって。期待してっからな」
「はい」
父さんの期待が純粋に嬉しかった。そしてポトフと一緒に満足できた。




