488 シャイン・タカハシ
常に思っている。女性ほど素晴らしい生き物はいないと。
幼女時代のあどけなくもまっすぐな愛情は優しさに溢れていて、同時にかわいくありたいと自身を高める事に常に全力だ。
抑えきれないわがままでさえ、周りを癒やす力を持っている。
世の母親達がマイエンジェルと称するのも大袈裟ではないだろう。
成長するにつれ個人差はあるが美しさを兼ね備えるようになってくる。世のアホウ共を勘違いさせ、女性同士でも惚れてしまうような魅力を醸し出すようになってくる。
自制も効くようになり、優しさと気遣いでイキイキとした輝きを放ち出す。
丸っこいプニっとした身体は、徐々に細さとしなやかさを兼ね備えだす。未成熟と言う名の旬が、矛盾した完成品が確かにその瞬間にある。
世界の理不尽に勘づきつつも力強くか細い両足で地面を踏みしめ、互いに褒め合いながら元気に日々を生きる。
コレが案外成長していくにつれ、女性でなければ難しい生き方なんだと解らされる。
やがて初潮を迎えた女性は新たな、女性を誕生させる母体へと成長を遂げる。
体付きは勿論の事、精神も魅惑的になってゆく。
魅惑の種類は千差万別。ひとつひとつ語っていたら時間がいくらでも溶けてしまう事だろう。
素晴らしく美しい身体と、そしてタフさを兼ね備える。もはや生命の神秘と言っても過言ではない。
娘を産んだ女性は、娘と共に母親としての成長を始める。その包容力で娘を抱く姿は絵画にして残しておくに価する。
そうだ。ミー専用の美術館を建てて飾れば足を踏み入れるだけで癒やされる空間が出来上がる。我ながら名案ではないか。後に、母性の間で聞くミュージックは格別だとセリフを吐きたいぐらいだ。
おっと、話が逸れたね。
母親はやがて熟女となり、老婆へと衰えを始める。調えていた容姿は少しずつ崩れてゆき、身体は軋みだし、記憶力も壊れてゆく。
だが女性としての経験は積み重なっている。半生以上過ぎた思い出は創作物よりもおもしろい物語となり、娘や孫を喜ばせながら次代の成長を促し続ける。
終わり時の眠るような安らかな顔は、残す女性達を涙させるだろう。だがその涙の多さこそが女性が一生を歩み終えた証であり、生命の美しさを実感させる。
女性とは生であり、性であり、聖なのだ。
だからミーは、そんな女性達の味方に常になり続けなければならない。
そしてミーの世界に、ヤローが存在してる事は許されないのだ。ヤローほど自分勝手で欲に塗れた生物はいないのだから。




