28 越えられない線
涙と鼻水をたれ流して大声で泣くアクアをチェルに任せ、俺はグラスの話を聞くことにした。
アクアを託すとき、まるで汚物でも渡されるようにチェルは顔を顰めた。気持ちはわかる。現に俺の胸元は涙と鼻水でぐっしょりと濡れているからな。豪奢なドレスに泣き顔を埋められたらって考えると、ね。
でもアクアとグラスを一緒にいさせるわけにはいかないのでチェルには我慢してもらう。ついでにアクアの服も見繕ってもらうつもりだ。
「仕方ないわね。この借りは高くつくわよ。楽しみにしておきなさい。ほら、アクア。こっちにきなさい」
息をひっくひっくと苦しそうにさせながら泣きじゃくるアクアを、チェルの腕へと抱き渡した。
アクアがチェルの胸に顔を埋めると、チェルのこめかみにピクピクとしわができる。
なぁ、アクア。チェルの胸はやわらかいのか。傍から見ると滝のようにまっすぐだから、いまいち想像が効かないんだ。あとでパパに教えてくれよ。
「コーイチ。しくじったら命はないと思いなさい」
一段とドスの利いた声で俺を威嚇してきた。やべ、雑念を読まれたのかも。ここからまじめにやろう。
ちらりとグラスを一瞥する。眉間や口元に幼子とは思えないほどのしわを刻み、今にも跳びかからんと俺を睨みつけている。
「任せとけ。それと、アクアを頼むぜ」
コクンと頷くと、部屋から出ていった。頼むぜチェル。
魔王城に住んで十一ヶ月だけど、他の部屋なんてほとんど知らねぇ。場所を譲ってくれたことに感謝する。
「さてと、待たせたなグラス。いろいろと聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
俺はグラスの傍まで近寄ると、膝を折って視線を合わせた。
「俺はアクアよりも役に立ちます。そのために母さんからトレーニングも受けたし、俺も強くなってチェル嬢の親衛隊長になることを目指しています。先に生まれたからといってぬるま湯に浸かっているアクアとは違うんです」
挑戦するような鋭い視線でまっすぐに俺を睨みつける。茶色い瞳には誰にも負けないという強い意志が込められている。
「おっ、おう。そうか」
マンティコアのやつ、いったいどういう教育を施しやがった。くだらねぇほど脳筋に仕上がってんじゃねぇか。
「グラスがチェルの側近になりたいことはわかった。でもいきなりお姉ちゃんの手をはたいちゃダメだろ。血の繋がった姉弟なんだからさ」
グラスは悔しそうに唇を噛みしめる。だから、なんでそう好戦的になるんだか。
「わかっています。そんなこと。俺の方が、ほんの少しだけ年下だってことも。でもそのほんの少しが決定的な線を引いていることも。俺は父さんの第一子じゃないことも!」
グラスは目尻に涙を溜めて吠えた。どうしようもない理不尽な理由から、目指すものを奪われている行き場のない思いを込めて。
「俺はチェル嬢に連れてこられたときに嬉しかったんだ。一番最初に父さんと一緒に暮らせるんだって。俺は側近を約束されたから特別なんだって。兄弟の誰よりも、アクアよりも優れているんだって」
ギュっと握ったこぶしが震えている。瞳は恨みがましく濁り、声は震えていた。
なんでそんな流れができあがってんだよ。別に最初に暮らしたからって優劣に差が生まれるわけでもないのに。どこかに誤解を解くカギはないのか?
「俺は期待していたんだ。父さんに一番最初によろしくって挨拶することを。チェル嬢と一緒にいる間、ずっと父さんのことを待っていたんだ。けど、父さんはアクアを肩車して一緒に戻ってきた。こともあろうか俺よりも先に父さんとの挨拶を済ませて。俺はまたアクアに後れをとったんだ!」
あぁ、そうだ。子供ってわけもなく対抗心の塊を持っているんだ。どうしても比べたがって、一番になりたくて、世界の主人公が自分だと疑わないんだ。やべ、俺こんなのを説得しないといけないのか。
「アクアが第一子だから人間の姿に期待したんだろっ! 父さんはきっと、側近は人間の姿の方が様になると思ったからアクアには強要したんだ。俺はどうでもいいから期待しなかったんだろっ! だから、アクアにばかりかまうんだろっ!」
「ちょ、待て。人間の姿ひとつでなんでそうなるんだよ。アクアは……」
「うるさいっ! ……いいぜ、今はそれでも。でもいつか絶対にアクアを超えて父さんに認めさせてやるんだからな!」
くそっ! と床を打ち抜くんじゃないかってほど勢いよく踏むと、ダムが崩壊したように泣き出した。
あかん。グラスも限界だったわ。こりゃ説得どころの騒ぎじゃないな。
一人涙を流しているグラスを、胸にギュッと抱い寄せた。握りしめていた手が背中に回り、痛いほどに爪を食い込ませる。
痛い、って泣き言はいってらんねぇな。そういや、俺の胸もグラスにとっては二番手なんだよな。余計なことを考えてないといいけど。
グラスの悔しさを背中の痛みで痛感する。すまんチェル。説得できないとは言わないけど、時間がかかりそうだわ。




