272 魅惑の姫と意地の人間魔王
チェルは静かに近寄ると、俺のデコをちょんと指で突いた。
「コーイチ、あなたこのままでは潰れてしまうわ」
ズイッと顔を寄せ、超至近距離で俺の目を見上げてきた。甘くもツンとくる香りが鼻孔を刺激する。
「コーイチ。私は今からあなたを洗脳するわ。だから心して聞きなさい」
引き込まれる。甘く淡い誘惑に陥っちまいそうだ。
エアが身体を支えてくれてるってのに、二人きりだと錯覚する。
「幸せに家庭を築きたい……助けて」
不意に揺れる瞳が、震える唇が、チェルを年下のか弱い女の子だと認識させる。
やれやれ、ホント情けねぇぜ。こんな愛らしい女性におんぶ抱っこされたままでいられるかよ。俺は魔王になって、チェルを守るんだ。この意地だけは譲れねぇ。
チェルが表情を気品に変え、少し後退した。
「立て直したようね。頼んだわよコーイチ。少しでもダメだと思ったら交代するから」
「いつまでも情けねぇままじゃいられねぇ。交代する機会なんて訪れねぇよ」
ニヤリと笑ってやると、妖艶な笑みが返ってきた。
「あら、コーイチのくせに生意気じゃない。けどその意気よ。それとあなたの子供達からメッセージが届いてるわ。無事にマリーを殺ったそうよ。じきにみんな帰ってくるわ」
「これで、アスモのおっさんとリアの願いは果たされたって事かな」
空を見上げてみる。静かな風が通り過ぎるのを感じた。
「お父様とお母様の願い、半分は叶ったわね。イッコクを狂わせる歯車は取り除かれた。後はどう修正していくか」
そして、俺が討伐されるまでにチェルと家族になれるか。こっちの方が本命な気がするぜ。
「カウントダウンは始まったってか。制限時間いっぱい、命がけで魔王をやってやる」
イッコクの平和には命の代償……魔王の命が必要だ。
「そして、コーイチの子供達もね」
俺の心を読んだかのように、チェルが補足した。
「あぁ。俺たち全員の命で勇者の修正を図る。チェルの命なんて賭けさせねぇ」
口にして笑ってみせる。チェルが安心したようでいて、悲しげな笑みを浮かべた。
「私も覚悟を決めていてよ。一人生きて、幸せになる覚悟を」
そうだよなぁ。幸せになるには覚悟がいるんだよな。けど独りぼっちはなぁ。
「なんなら子供達の誰か一人を生かすか?」
「冗談は存在だけにしなさいな。たとえ一人でも、魔王級を生かすのは難しいわ」
冗談は存在だけって、俺に掛かってるのか?
「わかってる。言ってみただけだ」
儚い夢物語。笑いの種にはもってこいだ。大丈夫、俺はまだ、生きている。




