108 魔王夫人
「それじゃ、かんぱーい」
お母様の合図で缶ビールのふちをカチ合わせて一口仰ぐ。
魔王一家が小ぢんまりとした部屋に揃って、異世界の安物ビールを楽しむだなんてね。
「ほぉ、キレがよくてグビグビといける酒ではないか。悪くはないが、これっぽっちでは心許ないな」
お父様はお気に召した様子で、手に持つ缶をチャプチャプ揺らしながら凝視した。
イッコクの下手なワインよりよっぽどおいしいのだけれど、コーイチの世界に負けた気がして嫌だわ。
「でしょうアスモ。わたくしも気に入りましたの。まだストックがあればいいのですけど」
「残念ですがお母様。この三本で終わりだとコーイチが言っていたわ。ラストがなくなったって首を捻っていましたけど」
「あら残念」
罪悪感の欠片もないわね。図太さは年齢並みといったところかしら。
「このまま一家揃ってのんびりと会話を興じるのもいいのだが、コーイチについて聞きたいことがあったのだよな」
お父様はニヤリと獰猛に笑うと、私に視線を寄した。ようやく本題に入れるわ。
「えぇ。聞いたところによると、コーイチから魔王になる相談を受けたようでしてね」
「チェルの耳にも届いておったか。いかにも。なかなか愉快な男ではないか」
深い笑みを濃いものにした。当時のことを思い出したみたい。
「お父様は、本気でコーイチが魔王になれるとでも思っているのでして?」
「さてな。なれんやもしれんし、なれるかもしれん。前例がないから何とも言えんが、期待はしている」
コーイチに期待をしているということは、私に期待をしていないということではなくて?
缶ビールを両手で握り、俯くように飲み口を見つめてしまう。
「私じゃ、役不足かしら」
「荷が重いとは思っている。魔王になる、ならないは別として、コーイチの力は必要になるだろう」
ポンと、紫の大きな手が私の背中を叩いた。守るようなやさしさの反面で、子ども扱いされている気がしてならない。
お前は半人前だという言葉が、裏に隠れていそうだ。
「チェル、わたくしはコーイチさんが魔王になれるとか思っていなくってよ」
「お母様……何を、考えているのですか」
ゆっくりと顔を上げると、とてもいい笑顔で私を見つめていた。ただ、両目の碧眼がおもしろいことを企んでいるようにキラリと輝いている。
「なる、ならないだなんて悠長なことは考えていませんの。わたくしの手で、コーイチさんを魔王に仕立て上げますわ」
淀みなく宣言する姿は様になっていて、佇まいはお父様よりも強靭に見えた。
「どうしてコーイチなの? 私の方が力も品格もあるのに。私じゃ役不足なの?」
私はお父様やお母様にとってただの役立たずなの? お荷物なの? 私は、どうでもいい望まれない子供だったの?
縋るように二人を見上げる。お父様とお母様は仕方ないと苦笑するように見つめあうと、私に視線を戻した。
「ワシにとってチェルは守るべき大切な娘だ。愛しているが故に、危険な道を辿らせたくはない」
「でもそれじゃあ、私は何もできなくなる。お父様が亡き後に、縮こまって震えるだけの存在にはなりたくないの」
だからお願い。私を頼って。魔王としての存在を認めて。じゃないと、何者でもなくなってしまう。
「落ち着いてチェル。わたくしはコーイチさんに魔王を求めるのと同じように、チェルにも役目を求めているの」
「え?」
「魔王になるには酷く頼りのない男ですもの。コーイチさんはきっと、何度も挫折をして立ち止まるわ」
コーイチが魔王になったときの行動が鮮明に想像できてしまった。小さいことで躓いては、立ち直れないくらいに落ち込んでいる。
「そのときチェルはお尻を叩いてあげなさい。馬を鞭打つようにね。いい、男は女が手綱を引いてあげないとうまく進めないものなの」
やさしく、男の扱い方をレクチャーする。視界の隅でお父様が震えた気がした。
「あなたの役目は人間魔王コーイチを導くことでしてよ。表に立つのはいつも男、女は裏で輝くものなの」
「言ってくれるではないか」
お父様の呟きは震えていた。威厳なんて消し飛んでいて、とても情けなく聞こえる。
「いい、あなたがコーイチさんを魔王に導くの。これは、魔王の娘チェルにしかできないことよ。しっかりと鞭打ってあげなさい」
真剣な視線で、力強く私を見つめてきた。
私はビールをグイッと飲んでから、微笑む。
「普通、背中を支えるものではないかしら」
「甘くってよ。男は油断するとすぐにサボるの。鞭はガンガン打たなくっちゃ」
とても、とてもいい笑顔で男を語るお母様。私には逞しすぎるわ。
「もちろん、鞭を打ってばかりでは心が壊れてしまうわ。ときにはチェルの身体で飴を与えて甘えさせなければいけません。飴と鞭と鞭。バランスが大切ですわ」
「鞭の数がおかしい気がするわ」
「そうね、もう一個ぐらい鞭を追加するぐらいでちょうどいいかもですわ」
さも当然の如くお母様が言い切った。お父様は巨体を縮こませてガクガクしてしまっている。
見ていて不憫だわ。こんなお父様、見たくなかった。
「とにかく、チェルは最高の魔王夫人になりなさい。コーイチさんと協力して魔王になるの」
コーイチと協力……対等なのが癪だけど、背中を叩くのもおもしろそうね。重要なのは、私が舵を取ることですもの。
まだ引っかかる部分はあるけど、気持ちがスーっと楽になったわ。
落ち着いてビールを飲むと、ドアから三三七拍子のノックが響いたのだった。




