悪役令嬢の良心は幸せなシナリオに導きたいっ!
くすくすと肩を震わせて笑う令嬢と、その目の前に泣き崩れる一人の女。可哀想に、女の髪はくしゃくしゃに絡まってしまっていて、艶やかだったほんの少し前の面影など何も残っていない。
令嬢は口元を白くて繊細なレースの扇子で覆って、表情を隠したまま、目元を細める。
二人しかいないこの場において、どうして一人が笑い、どうして一人が嘆いているのか。それは簡単なこと。
「ねぇ……痛かった? ごめんなさいねぇ。だって、貴女の髪に虫が絡まってたんですもの。少しくらい痛くても許してねぇ?」
「…る…ない……ゆ…さ……」
泣きじゃくりながら言葉を紡ぐ女に、令嬢は笑いかける。
「聞こえないわぁ」
「ゆるさ、ない……!」
「許さないのはこっちですわ」
くいっと扇子で座り込んで顔を臥せている女の顔を持ち上げる。
「わたくしの婚約者をたらしこんだのは、このふしだらなお口かしらぁ?」
「たらしこんでなんかっ……!」
「それでもわたくしへの愛を横から掠め取っていたのに違いはなくて?」
どうして自分が、と悲劇に酔いしれる女の瞳を、令嬢の鋭い視線が射ぬく。
「さぁ……どう落とし前をつけてくれるのぉ?」
そう言いながら令嬢は唇を舐める。彼女の癖だ。口紅が唾液に濡れて艶かしく照り輝く。
そして令嬢が、女の唇に噛みつくように───
「…………勝手にわたくしの頭のなかで妄想しないでくれません!?」
えー、だめよー、今いいところなんだから。さぁ、私が考えるままに続きを───
「いたしませんわっ! 全く、興が覚めました。良いこと、貴女、二度とわたくしとわたくしの婚約者の前に現れないでくれます? あの人には二度と町へと降りないように伝えておきますわ」
「え、と……」
パッと扇子でもう一度自分の表情を隠す令嬢。あーあ、勿体無いなぁ。あそこまで接近してたくせにぃ。
「それとも、女であることを後悔するような目に遭いたいのかしらぁ?」
きゃぁっ! 待ってましたその展開! 貴女も結構もの好きなんだからぁ♪
「訂正。この世に生まれてきたことを後悔させてほしいのかしらぁ?」
鬼畜令嬢と町娘のドロッドロの愛情劇から始まる恋物語も素晴らしいわよっ!
あら? 青筋たてていらっしゃる?
「……わたくしの頭の中でごちゃごちゃ言ってるんじゃありませんわよドゥー!」
突然叫んだ令嬢に驚いて目を見開く女。涙なんかとっくに止まっている。どちらもこれ以上何かをしでかすような空気にはない。
最悪の事態は免れたから、良しとしましょうか。
だから大人しくしていてあげるわ、アン。
◇◇◇
さて、アン……本名をアンジェリカ・リークという伯爵令嬢のご機嫌とりをしつつ、私の自己紹介をいたしましょう。
私、アンジェリカの良心が独立して生まれたドゥと言います……と言えば聞こえは良いけれど、実際はアンジェリカの双子の人格みたいなものと思ってくださいな。一つの体を二つの人格で使っている。私の存在を知っているのはアンだけなんだけどね。このドゥという名前もアンがつけてくれたのよ。
私という人格があることは私とアンだけの秘密。本当はもう一つ秘密があるんだけど……体の主導権がアンにあるうちは、うっかり考えたら読まれちゃうからやめておこうかしらね。
「ドゥ? 何を考えているの? 大人しすぎて怖いですわ」
え? べっつにー?
そんなことより、アン。コーネリアス様へのお手紙は書けたのー?
「よ、読むんじゃありませんわっ」
あ、うん、まぁ、目線反らされれば私の目にも入ってこないけどさぁ……体の感触的に紙を今、ぐしゃってしてない?
「はぅっ」
あー、あははは。可愛いやつよのぅ。
くしゃくしゃになってインクが滲んでしまった手紙を見て、アンがしょんぼりする。そうよねぇ、せっかく書いたのにねぇ。
「……書き直しますわ」
紙を無駄遣いしちゃいけないよ?
「ドゥの感覚って時々、庶民っぽいですわ」
え!? そ、そうかな?
「ま、そんなこと気にしませんけれど。身体の主導権は基本的にわたくしですから、庶民じみたことなんて一切いたしませんもの。淑女らしく、優雅に生きますわぁ」
ペロリと唇を舐める。
まぁ、アンが思っているなら、それはそれでいいんだけどさぁ。その割りには昨日のサロンでコーネリアス様が好意を持たれた女性をみっともなくいじめてたけれど。あれって淑女のすること?
「何のことかしら? わたくしは虫を取って差し上げただけですわよ?」
アンは虫を触れないのによく言うわ……。それなのにわざわざ彼女の髪を、ね?
「ちょっとドゥ? 何を考えているの?」
んー? 女の嫉妬は怖いって思ってただけだよ。
コーネリアス様はアンジェリカの婚約者。正式に親同士の間で話しもつけているし、公表もされている。普通ならほっといても良いんだけれど、今の状況に暗雲が立ち込めていてね。
昨日のサロンでアンがいじめていたのはコーネリアス様が親しく好意を持たれている、町娘のブランカ。彼女がコーネリアス様と恋仲だっていう話が、最近よく聞こえてくる。真実かどうかを確かめるために人気のいないところへ呼び出したところ、ブランカは頬を染めて顔を臥せた。そこからはご想像にお任せしましょう。
まぁ、一言添えるのならあの一件を発端に、アンの立場は悪くなっていく可能性が高いのだけれど……いやまぁ、最悪な結果は免れたから、あとは相手のさじ加減次第なんだけどさ。
「ちょっとドゥ?」
何はともあれ、アン。試練は始まったばかりってこと!
「よく分かりませんわ」
と、ここで部屋をノックする音が聞こえた。アンはそれに答えようとして、でも手の下のくしゃくしゃになった手紙を思い出して、足下の屑籠にぽいっと放る。
「お嬢様、シーレ伯爵子息様がお見えです」
「コーネリアス様っ!?」
ガタッとアンは立ち上がる。それからおろおろと右往左往して……もう、仕方ないわね。
アン。身嗜みを整えるからと言って待ってもらったら?
「そ、そうですわね。貴女、コーネリアス様を客間にお通しして、お茶の用意をして待ってもらって。それと、もう一人メイドを呼んでわたくしの身嗜みを整えてちょうだい」
「かしこまりました」
メイドが下がるのを確認した途端、アンの口元がゆるゆると弛む。あーあー、だらしないなぁ。
アン、分かってないようだから言っておくけれど、今日ばかりはコーネリアス様と会うとき、それ相応の覚悟をしていなさいよ。
「まぁ……どういうことですの?」
だって昨日の今日よ? ブランカの件が話しに上がっても不思議じゃないわ。
「大丈夫ですわ。あの女にはきちんと言い含めておきましたし」
その油断が駄目なのよ。
あの女だって人間よ。そんな素直にこちらの話を飲むわけないじゃない。
「大丈夫ですって。コーネリアス様とは親同士の間で婚約が約束されています。どう転んでもわたくしにとって悪いことにはなりませんわぁ」
……もう。
アンは思い込みが激しすぎるから、言い出したら聞かないことは分かっていたわ。危なくなったら私がどうにかするしかなさそうね……。本当は私が事を治めるよりも、アン自身に解決してもらいたいんだけど。
◇◇◇
客間に入ると、コーネリアス様が険しい表情でアンを迎えた。あー……私の予感が的中かしら。
「お待たせいたしました」
ドレスの裾をつまんで軽くお辞儀。ソファーから立ち上がったコーネリアス様は、普段なら優しく微笑みかけながら手を引いて先導してくれるのに、今日はそれをしないで立っているだけ。アンが不安そうに心を揺らす気配が伝わってきた。
アン、自分でコーネリアス様の向かいまで歩くのよ。
「え、ええ……」
内心動揺しているのは分かるわ。それでもアンは毅然とした振る舞いでテーブルをはさんでコーネリアス様の前に立つ。
「……お掛けくださいませ」
「ああ」
ねぇ、アン。悲しまないで。
他人に接するかのような声と眼差しを、コーネリアス様から一身に受けるアン。そこには以前のような慈しみなどどこにも垣間見ること叶わなくて。
分かっていたことだけど、アンには相当堪えてる。
それでもアンは努めて明るく話しかける。
「コーネリアス様、聞いてくださる? わたくし、先日初めて刺繍を綺麗に縫い上げることが出来ましたのよ。以前、コーネリアス様が送ってくださったピンク色のガーベラ。それを刺繍いたしましたの」
「ああ」
「ガーベラの花びら一枚一枚を丁寧に縫い上げたのでとても時間がかかってしまいました。けれど、苦手だった刺繍もコーネリアス様のおかげで少しだけ好きになりましたわ」
「ああ」
「ガーベラと言えば、お庭はご覧になりましたか? 今、ちょうど花壇が華やかになる時期ですのよ」
「ああ」
「最後に共にお庭をお散歩したときには蕾だった花たちが──」
「ああ」
……アンが顔を伏せてしまう。虚しい問答。何を言っても淡白な返事だけ。伏せた顔に温かい滴が一滴、伝う。
「もう随分と長いこと、コーネリアス様のご来訪をお待ちしておりましたのよ……」
コーネリアス様が定期的にアンの元に通うことをしなくなってからもうすぐ一季節が過ぎる。原因は分かっていた 。アンが昨日、思わずあんな行動に出てしまったのも、仕方のないことだったの。
でもきっと、コーネリアス様はそれを分かってくれないんだわ。
だから、今もほら。
「それだけか?」
「え……」
「それだけかと聞いている。茶番はもういい」
霜が降りたかのような冷ややかな空気。
アンが瞳を濡らしたまま、顔をあげる。コーネリアス様は無表情のまま、けれどもその怒りの炎を瞳に持っていた。
「君は昨日、何をした」
「何って……知り合いの令嬢のサロンにお呼ばれしていましたわ。コーネリアス様からのお便りもないんですもの。それくらいしかすることも……」
「そのサロンでブランカに何をした」
アンが、必死に感情を取り繕ろうとしていることが伝わってきた。動揺も全て押し隠し、淑女らしい微笑みを浮かべる。レースの扇子で、震える口元を隠す。
「ブランカさんとは……?」
「しらばっくれるな。君が人気のいないところに連れ込んだ子だ。話は聞いた。君は……そうやってこそこそと見えないところで彼女を追い詰めて楽しんで、これで気が済んだか?」
カッと頭に血が昇る。
駄目! アン抑えて!
「そんな言いがかり、酷いですわ」
何とか激情を抑えてくれた。でも腹の底では怒りと絶望と哀しみと。色々なものがない交ぜになっているってことが伝わってくる。
「言いがかりなんかではないさ、ブランカから話は聞いている」
「そうやってコーネリアス様はわたくしなんかよりもあの娘を大切になさるのね……。わたくしがなんと言っても伝わらないのだわ……!」
「アンジェリカ、素直に言ってくれ。君はブランカに何をしたんだ」
「わたくしがなんと言おうと、あの娘以上の信用を得られないのでしたら、言う必要なんかありませんわっ!」
パッとアンが立ち上がる。
コーネリアス様はアンを疑っている。
信用なんか、していない。
今度こそアンは絶望に突き落とされた。その、闇に呑まれそうな感情が、私にまで手を伸ばしてくる。
ぐらっと視界が回った。
「……っ」
ボスっとソファーに倒れ込んでしまったみたい。痛くはないけど……あ。
身体の主導権が私になってる?
ぐっと腕に力を込める。体を支えるようにして、ソファーに座り直す。正面には少し驚いたかのように腰を浮かせたコーネリアス様。良かった、一応助けてくれようとしてくれる程度の情は残っていたのね。
「(情が残っていても、わたくしを見てくれはしないのですわ……ドゥ、わたくしはもう……)」
弱気にならないの、アン。少しの間だけだから、ね。
休んだら、きちんとコーネリアス様と向き合うのよ。
「(……………………)」
返事はない、か。まぁ、気持ちの整理をするまで、私は待つだけだわ。
「アンジェリカ……? 気分でも悪いのか……?」
さぁ、こちらも悪いようにはしない。アンが少しでも幸せになれるようなシナリオを進めなければ。
それならまずは。
「そうですね……急に立ち上がったので立ち眩みが……頭に血が上ってしまいましたの。こうも一方的にコーネリアス様から信用されていないことがわかって、気丈にいられるほど私は強くはありませんもの……」
顔を伏せる。レースの扇子で顔を隠して表情を読ませない。
「お帰りくださいませ。貴方が私をどう思っているのかは知りませんが、両家の関係を思うのでしたら今一度、自分の身の振り方をお考えくださいまし」
牽制と捉えられても文句は言わない。コーネリアス様。考え直す時間が必要です。このシナリオはブランカのためにはなく、アンジェリカのためにあることに気づいて。
ブランカの描くシナリオは、私がなんとしてでも書き変える。
───そうしなければ、アンジェリカの悲劇を覆せないから。
◇◇◇
数日、アンは表に現れようとしなかった。私が心の中でアンをつついても、無言を貫かれた。コーネリアス様の件は、予想以上に堪えたみたい。
私はアンジェリカとして支障なく生活する必要があったのだけれど、逆に私にとってはすごくストレスになった。こういう淑女の嗜みとやらを実践するのは私よりもアンの方が相応しいのよね。
そ う い う わ け で 。
いつものように私も街に繰り出してみようと思って馬車を手配しましたー。家庭用のこぢんまりとしたやつを一つ、お父様に許可をもらって借りました。御者もつけてもらって。
「ええ……と、お嬢様、どちらへ?」
「とりあえずパサージュに行きましょう!」
パサージュは歩行者専用の商店街。
ふふ、あそこでウィンドウショッピングするのが楽しみなのよねぇ。
たまーにアンに体を借りては行くの。アンはこういうことを庶民じみてるって言うのだけれど、こういうのも悪くはないものなのよ。
「……お嬢様、旦那様からお嬢様は落ち込んでいるだろうから元気づけてやってくれと言われてるんですが…………元気ですね」
「え?」
いやまぁ、落ち込んでいるのは私じゃないし……じゃなくて。お父様にこの前のことは筒抜け?
となると……私のこれからの行動も監視されているのに等しいのか……。娘に甘いようで厳しいお父様。今回の騒ぎの原因にもやっぱり早くから勘づいているのかしら。それなのに何もしてこないということは、取るに足らないと思っているのか、話はもう既に着いているのか。
シナリオの難易度がまた上がった……。でも、これくらいの誤差なら。
「元気ではありませんわ。コーネリアス様が私を無視するなら私も好きなようにさせていただきます。というわけで馬車を進めなさい」
「いつものところで?」
「あ、今日は違うわ。シュシュ・パサージュへお願い」
「かしこまりました」
さーて、遊ぶ前に布石を一つ。打ちに行きましょうか。
◇◇◇
無骨な鉄骨を覆い被さるような硝子の屋根。歩道の左右にはショーケースのようにお店ごとにサンプル品が置かれている。宝石のような高価なものはないけれど、特注のドレスと同じくらい素敵な衣装や、宝石のようにきらびやかに輝く繊細な硝子細工。あちこちに素敵なものが飾られているわ。
ふふ、目移りしちゃう。
そのうちの一つのお店に目星をつけると、私は導かれるようにして店内へと入る。ちなみに御者はパサージュの外に置いてきた。だって歩道のここに馬車を持ち込むのは常識はずれでしょう?
「こんにちわ」
「いらっしゃ……あ」
気づいたみたいね。
「な、何のようですか!! ご自分で二度と顔を会わせるなと言っておきながら……!」
「誰かと勘違いしているようだけれど……仰ってる意味がわからないわ」
あれはアンがやったことですから。私じゃないのよー。ね、ブランカさん。
私はふふふ、と無邪気に笑って見せる。
「こちらの店主は貴女?」
「な、なんのつもりかは知りませんけど、お引き取り願いますっ」
ふるふると震えながらも毅然として立ち向かってくる。うん、根は強い子なのね。でも、そんなに警戒しないで?
「表にあったお菓子のサンプル……あれと同じものが欲しいのだけれど……また日を改めた方がよろしいかしら? とても可愛らしい砂糖菓子でしたから、臥せっている姉に一つ買っていこうと思ったのですけど……」
ここで違和感に気づいたのか、ブランカは怪訝そうな顔をした。
「……お姉様がいらっしゃるんですか?」
「ええ。でも今臥せっていて誰ともお話をしてくれないの。それで何かプレゼントをしようと思って、ここのお菓子が目についたのよ。でも……店主様のご機嫌がよろしくなさそうですから……」
ちら、とブランカの顔色を伺う。
リーク伯爵には令嬢一人しか子供がいない。このことに瞬時に気づいたけれど、それでもやはり嘘をついていると言う疑念がわだかまりを残している……みたいな顔をしているわね。顔が全く瓜二つ……というか同じなんだから仕方ないわ。
「……お客様でしたらお仕事の依頼をお受けいたします」
「まぁ。よろしいの?」
「そのかわり、そこの椅子に座って出来上がるまで店内をうろつかないでくださいますか?」
「お安いご用よ」
微笑めば、ブランカも少しだけ安心したかのように、ほっとした表情を見せてくれる。
「造形と色はどういたしますか?」
「表の……花の上で猫が微睡んでいるものを。色は全体的にピンク色で華やいだものにしてください」
「承りました」
ブランカは砂糖菓子店の店主。両親は既に他界。コーネリアス様とはパサージュの視察の時に知り合った(アン調べ)。
彼女は親から受け継いだ繊細な砂糖菓子を作ることができるから、その技術を見込んだコーネリアス様が話しかけたのが二人の出会いのきっかけ。コーネリアス様は婚約者がいるというのに、ブランカへ会いに行くために視察を増やし時間を割いていた。
二人とも愛し合っているかは私には分からない。けれど、二人とも目の前の相手にしか気が向いていないから、忘れられた婚約者の立場というものが分かっていない。
これがねじれにねじれて、アンの心を傷つけた。
彼女は今まで自由というものが無かった。籠の鳥として運命付けられていることを理解している。ほんのちょっとの我が儘は許されても、人生を左右するような我が儘は許されない。そんな中で生活し続けてきた。
溜め込んだものを吐き出すように私が生まれたのは、そう言うことだと思ってる。
自由に生きたい、何者にも囚われないで生きる勇気のある人格。それが私、ドゥなのよ。
私は記憶を持っているわ。アンが覚えていること全て、私も同じように思い出せる。でもいつからか私が一つの個としての人格を得た。気付かないうちに、寄り添うように。双子なんかじゃくて歴としたアンジェリカではあるのだけれど。
アンが幸せな暮らしができるように導くのが私だと思ってる。だから、アンが引き起こしたことのツケを私が支払うの。そうならないためのお膳たても用意しつつ、ね。
「アンはコーネリアス様のことを慕っている。ブランカとコーネリアス様は相思相愛。婚約は未だ有効。コーネリアス様への布石はこの間、瀬戸際に打てた。ブランカに打つ手はどうする?」
何をやっても私がアンだと思われているうちは聞く耳をもってもらえないと考えても良いわ。どうやって説得を進めようかしら。
「お客様。こちら、作品のデッサンです。イメージはこちらでよろしかったですか」
ブランカが店の奥から出てくる。
見せられたスケッチブックに色鉛筆で書かれた花の上で微睡む猫。猫の頭の上には蝶がリボンのように乗っていて。あら、これはお店の表にはないオプションだわ。
「とても可愛らしいけれど、こちらの蝶は?」
「……虫がお好きかと思いまして」
……うわぁ。ブランカもなかなかに強い。
細やかな意趣返しのつもりかしら。いやまぁ、分かってるかどうかは知らないけど。まぁ、確かにアンだったら激昂してるわね。虫嫌いだし。可愛いけれど、蝶も例外じゃないのよね。
でもそこはほら。私だから。
「ごめんなさい、私は好きだけどお姉様はお好きじゃないの。この蝶はつけないでくれる? せっかくのプレゼントだから喜んでほしいの」
アンにそれを送ったらどうなることやら。
ここだけ訂正して、後はそれで大丈夫と伝える。いつ頃できるか聞いてみたら、二時間と言われた。
二時間か……正直、ブランカをノープランで牽制しに来たから何をするかと考えても思い付かないのよねぇ。
「店主、その砂糖菓子送ることってできますかしら」
「配達ですか? できますよ」
そう。なら、賭けに出よう。
「送り主の名前はドゥとだけ書いておいてね」
「よろしいですけど、どちらのお宅へ?」
「リーク伯爵家ご令嬢宛に」
ゴトッ!
なにかが落ちる音。見れば、スケッチブックとペンが転がっていて。板張りの床から視線をあげれば、ブランカはひどく泣きそうな顔をしていて。
あー、やっぱり。でもそんなに怯えなくても良いと思うんだけれど。
そんなこちらの気も知らないで、ブランカは叫んだ。
「帰って!! 貴女やっぱり私のことを恨んでいるんでしょう! だからコーネリアスのいないときにこんな手の込んだことを……!」
……コーネリアス、ね。敬称も無しに呼べるその『特別』を、アンには与えられていないことを、貴方は知らないでしょう。
私は落ちたスケッチブックとペンを拾いに行く。
「近寄らないで!」
甲高い声で叫ぶブランカを無視して、スケッチブックとペンを拾うとその手に無理矢理握らせる。ブランカの体が強ばっていることがよく分かった。
「大切なデザイン画なんだから、落としちゃいけないでしょう」
「……っ」
「それじゃあ帰るわ。くれぐれもそれ、ちゃんと届けてね? これお代。足りなかったら……アンジェリカのツケでお願い。伝えておくから」
微笑みを絶やさないようにして、店のカウンターにお金を置いていく。
「それでは今夜、お待ちしております」
店を出る間際にそれだけ言って、パサージュを足早に出た。馬車に乗り込むと御者に頼んでペンと紙を用意してもらう。少しお待ちくださいと言って、御者は近くの店から借りてくる。
それにさっとペンを走らせて、最後の仕込みを産み出す。
これを御者に預けて言伝ても頼んで……さぁ、帰りましょうか。
◇◇◇
コンコンと扉がノックされる。そろそろかしらと思っていたから、あんまり驚きはしなかった。
扉越しに言われた言葉はシーレ伯爵ご子息と砂糖菓子店のブランカと名乗る人たちの来訪だった。うん、この二人が同時に来ることは予想済み。こうじゃないと面白くないわ。
さて、アン。準備は良い?
「ドゥ……この状況はなんですの? どうしてあの二人の目の前にわたくしが……」
いいからいいから。耐えきれなくなったら私が交代するから。アンは自分の言いたいことを言い逃げしてきなさいよ。このままは嫌でしょう?
くしゃりと顔を歪ませて、今にも泣きそうなアン。
……ごめんね。つらいけど、もう少しの辛抱だから。
震えそうになる声を必死に抑えて、アンは部屋に通すように伝える。ありがとう、貴女は本当に──強くて優しいわ。
「ようこそお越しくださいました。コーネリアス様、砂糖菓子店店主様。今日は、どういった用件でしょうか」
「用件もなにも、君に呼ばれたから来たんだアンジェリカ」
「私も貴女に呼ばれてきたんです」
はーい、私が呼びました☆
「ドゥ……?」
絶望を通りすぎて、もはやドス黒い気配を醸し出すアン。その矛先は……私ですね。
しばらくの沈黙のあと、アンは心の奥底にあったものを吐き出し始めた。億劫そうに飛び出す言葉たちは、覇気がなくて。私にはどしゃ降りのように強い悲痛の涙が降っているような気分にさせた。
「わたくしはもう、何もかもが嫌だと……コーネリアス様からも嫌われて、それなのにブランカさんはコーネリアス様に慕われているのが悔しくて……!」
うん、うん、そうだね、そうだったね。
「ブランカさんに初めて会ったとき、彼女は幸せそうにはにかんで……わたくしがどんなに望んでも手に入らないコーネリアス様の愛を賜っているのが羨ましくて……!」
アンの瞳から涙が溢れてくる。堰を切ったかのように溢れる涙。これがアンの本当の思いなのよ。
「親同士が決めたからと言って、同情されるようにわたくしはコーネリアス様に見られていたのに……ブランカさんは違った! コーネリアス様から同情以外の視線を向けられていたのよ! 身分が低いと言うのにそんなことを憐れみなどしないで……わたくしのことは憐れんだ瞳で見ていたのに!」
くしゃくしゃに顔を歪ませて、アンは心の中に積もらせた思いを吐き出していく。
全て吐き出したとき、アンは涙が止まらなくなっていて、せっかくメイドが施してくれた化粧も落ちてしまっていた。
「もう……嫌なの……コーネリアス様に恥じぬように頑張ったレッスンも作法も全て無駄になって……わたくしは生きてきた意味などないじゃない。両家のためとせめてそれだけの責任と義務を果たそうと生きてきたのに、コーネリアス様には切り捨てられるほどちっぽけなものだったのだわ……わたくし、馬鹿みたい」
感情の奔流が私を包む。痛くて熱い、アンの激情。けれどその全てが心地良い。
「こんなわたくしなんか……最初から生まれてこなければよかったのよ……終にはコーネリアス様を愛してしまったわたくしなんか」
そう笑って、アンはテーブルに飾ってあった硝子の花瓶に手を伸ばした。
……ってちょっと待って!?
ガチャンッ
空しく床に叩きつけられる花瓶。生けられた花はガラスの破片の重みで切り裂かれくしゃくしゃになり、床は涙でできた水溜まりのようになった。
花瓶の破片を一つ摘まんで、首元へと運ぶ。
「もういっそのこと……二人の幸いを祈って……邪魔者は」
「アンジェリカ」
コーネリアス様がハッと気づいて叫び駆け寄ろうとするけど、間に合わない。
だからと言って、私もそう貴女をみすみす死なせてたまるものですか!
アン! 体を寄越しなさい!
問答無用でアンの意識を押さえ込む。自暴自棄になっているアンの意識はそう簡単に体を明け渡してはくれなくて、私と意識が変わるのに一瞬のタイムラグが生まれた。
そこに生まれた隙をコーネリアス様はこぼれる水を掬うようにして拾ってくれる。
パチンッと軽快な音を立てて、手に持ってた花瓶が落ちる。それからじわじわと痛みを感じる手……体の主導権が私になったのは良いけどさ。
「いっ……痛いじゃないのコーネリアス様! 貴方が間に合わなくてもアンは私が責任もって助けたわよこの馬鹿!」
「あ、アンジェリカ……?」
「せっかく私が舞台を用意してあげたというのにアンの激情に呑まれて何も言えずにいたし、なんて甲斐性無しなの! ブランカが好きなら好きって言ってさっさと婚約破棄しなさいよこの能無し! それだからアンがまた貴女に期待を持ってしまう──」
「待って、待ってくれアンジェリカ。いや、本当に君はアンジェリカなのか? 大人しいあの子とはかけ離れて……」
あ、しまった。
思わず腹が立つあまりに説教してしまった。
せっかく助けたのに全く別のところで逆上されて、目を白黒させる。
「……お、おほほほほほほ。ワタシハアンジェリカ、コーネリアス様ニ失恋チュウ」
「それもう誤魔化してるとしか……というか別人……?」
「お黙り砂糖菓子店の頭の中身まで砂糖詰まった店主!」
「もしかしてドゥって名乗った方の……?」
「あああっ! 気づいてるぅっ!」
私の罵倒にもめげないとかどういう精神力なのよっ!
「~っ! そうよ、私がドゥよ! アンジェリカの良心から生まれたもう一人のアンジェリカ。貴女たちがアンジェリカと思って接していた人格はアンよ。アンの方が主人格。私はアンを幸せに生かすためなら何でもする。今回、貴方たちを集めたのは私よ。アンの真っ直ぐな本心を知ってもらった上で貴方たちには聞きたいことがあるの」
「アンジェ……いや、ドゥ。君は何をしたいんだ。ブランカに危害を加えたら……」
コーネリアス様が自然と流れるようにしてブランカを守るようにして立つ。ズキリと胸が痛んだ。それほどまでに感じられるアンの悲痛。抑え込んだ意識から底知れず溢れだしてくる。
「それよ、それ。それが気にくわないの。私はブランカに何も危害は与えるつもりはないわ。それに私は聞きたいことがあると言ったのよ」
恋は盲目とはよく言ったものだわ。見ていて滑稽。人の話すら理解ができないほどに愚直になれる。でも本人たちは媚薬のようなそれに酔いしれているから理性的にはなれないのよねぇ。
「コーネリアス様、私が先日、別れ際に言った言葉を覚えていますか?」
───貴方が私をどう思っているのかは知りませんが、両家の関係を思うのでしたら今一度、自分の身の振り方をお考えくださいまし。
「その答えを今、頂戴したいのです」
ぐっと唇を引き結ぶコーネリアス様。彼に譲れない何かがあるように、私にも譲れないものがある。
「ブランカさんを愛しているのなら、心の底から一生を共にできるとお思いならば、アンジェリカとの婚約破棄を宣言してください。身分違いという絶対的な差の目の前に、貴方は幸せを得られるの? 幸せを与えられるの?」
貴族と平民。その差を埋めるにはどちらかが何かを捨てなければならない。
コーネリアス様なら、贅沢を尽くし、なにものにも苦労を要しない生活を。
ブランカなら、今までの人生を全て抹消し、作法や礼儀に縛られるために心身の自由を。
「そこで提案があるわ。アンジェリカとの婚約をそのままに、愛人としてブランカさんを置くことはどうかしら? アンには内緒にしておいてあげるわ。これが一番穏便じゃない?」
さっき、花瓶を割ったときに落とした、アンがいつも持っている白いレースの扇子を拾って開くと、口許にあてがう。
「さぁ、答えをお教えくださいませ」
これは大切なこと。白黒はっきりさせること。アンが偽りでも幸せを得られるなら、それに越したことはないわ。その事に気づきさえしなければいいの。
コーネリアス様は苦虫を噛み潰したような顔になった。それからゆっくりと口を開く。
「……そんな、不誠実な付き合い方、できるわけがない」
「貴方は婚約者がいるというのに浮気をしていたのよ? 今とたいして変わりないじゃない」
そう、浮気なのよ。正式に婚約者がいるというのにコーネリアス様は浮気をなさったの。違わないでしょう?
「───さっきから聞いていれば、コーネリアス様の悪口ばかり……!」
「悪口もなにも事実と良案を提示しているだけよ」
「貴女、何でそんなひどいことを言えるの!? 自由に恋愛もできないなんて、ただの人形じゃないっ! そんな人生に価値があるというの!?」
なんてお利口な考え方。
でも残念。アンが生きる貴族の世界というのは、そんな考えが通用する世界じゃないのよ。
「人形よ。貴族の令嬢は籠の鳥なんだから当たり前じゃない。恋愛なんて夢幻、結婚は義務や責任と成り果てる。貴族としての責任を果たさないコーネリアス様を責めて何が悪いの」
「あぁ、そうだ。分かっている。分かっているから……だから落ち着けブランカ。ドゥ、君は貴族らしい貴族なんだな」
今にも私に殴りかかってきそうな剣幕で怒りを露にしていたブランカの額に、そっとキスを落とすコーネリアス様。ちょっと、私の前でそれをする?
「ドゥ、君の言い分は分かった。私はブランカと一生を共にする覚悟はできている。今の生活を捨ててでも。ブランカ、君はどうだい?」
「私だってコーネリアスと一生を共にする覚悟はあるわ! でも、私のせいでコーネリアスに苦労を掛けるなら……」
「二人で乗り越えてこそ、だろ?」
お茶目に笑ったコーネリアス様。とても晴れ晴れとした表情だけれど……これは私の望まない結末になりそうだわ。
「本当に捨てられるの? これから立ちはだかる困難を乗り越えるというの? そんなものより私の案を受け入れる方が懸命よ」
「あぁ。私とブランカならできる。二人でともに歩む覚悟があるからな。だから───リーク伯爵令嬢アンジェリカ・リークとの婚約を破棄する。後日、正式にその旨を伝えよう」
「本気なの?」
「本気だ」
「アンを見捨てるというの?」
「アンジェリカは可愛い妹のような存在だ。私だって幸せになってもらいたいと望んでいる。もしアンジェリカに好きな人ができたら相談してほしい。力になってやるから」
「私も、力になります。できることは少ないでしょうけど……」
無理よ、無理に決まってるじゃない。たぶん、アンジェリカの人生に、コーネリアス様以上の存在は現れないもの。アンの幸せなシナリオはもう書けないわ。
立ち竦む私を残して、二人は決心したように視線を交わす。
それからゆっくりとコーネリアス様が笑った。
「アンジェリカ、君を幸せにしたいと思う気持ちは本物だ。だけれどその前に君も幸せになる努力をしてもらわないと」
「していたわよ。アンは本当ならそこらの令嬢に負けないくらい素晴らしい淑女なのよ」
「そうじゃない。精神科医を呼んでおくから、ちゃんと直すんだ」
……………………………………………………………………は?
「人格障害は対人ストレスで起こると聞いたことがある。私たちのことがそんなにストレスになっているとは思わなかった……私が責任をもって君をもとに戻してあげるから」
「いやいやいや、私の人格はもっと昔からので……」
「そんな早い時期から!? これはいけない、君は人より対人ストレスが溜まりやすい人だったんだね……長い間一緒にいたというのに気づかなくてすまなかった」
「え、あの、」
「ブランカ、使用人を呼んできてくれないか。私はアンジェリカを見ているから」
「ちょっ」
「分かったわ、コーネリアス。ちょっと待っていてね」
ええええええええええええええええ!?
私こんなに働いたのにそういうシナリオになっちゃうの!? アンどころか、私までお先真っ暗じゃないの!
アン起きてー! 私を助けてー!
◇◇◇
それから間もなくしてリーク伯爵宛に、コーネリアス様から正式に婚約破棄の旨の書簡が届いた。この件は両家要相談ということで、これからしばらくコーネリアス様は忙しくなるだろう。
ブランカはコーネリアス様が落ち着くまで下町で待つそうだ。コーネリアス様が平民を婚約者にするという噂が水面下で静かに流れたが予想以上に波風は立たなかった。有力貴族のご令嬢が数人、ブランカをお気に入りにしているということだった。
あの日、約束通り運ばれてきた猫の砂糖菓子は愛らしくて可愛らしくて憎めなかった。アンが泣きながらその砂糖菓子にキスを落として、今は部屋に飾られている。
そして、私はというと。
「いい加減認めなさいっ! 私だってアンジェリカなの! アンに迷惑かけてないんだから良いでしょう!」
「うん、うん。そうだねぇ。でも、君は一人の人間なんだ。アンでもドゥでもなくてアンジェリカなんだから」
コーネリアス様が本当に精神科医を連れてきたものだから、数日に一度は私が表に出てその精神科医を追い払ってる。アンに任せるとうっかり場に流されちゃうからねっ!
「(わたくし、ドゥがいなかったらこんなにすぐに立ち直れませんでしたわ)」
「ほらっ! アンもこう言ってることだしっ!」
「うーん、僕には聞こえないからなぁ」
このヤブ医者ぁ!
狂人扱いされるなんて、アンにとって一番最悪なシナリオじゃないのっ!
End.
続編です。
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