そして彼女は王妃になった
「残念ですがイスターシャ様の足はもう……金輪際、動かすことはできないでしょう」
王太子妃のために用意された部屋の寝室でそれを聞いたイスターシャは、普段の彼女であれば絶対にあり得ないほどの動揺を表情に現し、唇を震わせていた。緩やかに波打つ金髪が、櫛すら通されず背中を流れている。
そして彼女は、未だに感覚が戻らない足に翡翠色の目を向けた。
もう、立て、ない。
何度力を込めても戻らない感覚が、彼女に現実を突きつける。
顔を真っ青にして震えるイスターシャを気の毒に思ったのか、医師は頭を下げて退席した。他人の前では決して泣けないイスターシャへの配慮だった。
侍女たちもこうべを垂れ退席していく中、ひとりぽつねんと残されたイスターシャは天井を仰ぐ。
「もう、立て、ない」
呟いた瞬間、頬を一筋の雫が伝った。
それを皮切りに、雫は幾筋も音もなく流れ落ちる。
「あ、あ、あああ」
喉の奥から湧き上がったのは、声にならない何かだった。
それは大きく確かな音となり、やがて悲鳴となって部屋に響き渡る。
――イスターシャ・メリアヌ・エレノアーノはこの日、人生で初めて絶望を味わった。
***
イスターシャは、エレノアーノ公爵家の長女だ。
幼い日から、この国の王太子であるフェリクスの婚約者候補として、様々な教育を受けてきた。
妻として夫を支え、国母として民草を慈しめ。
幾度となく言われてきた言葉に従い、イスターシャは王妃にふさわしい女性になるべく努力を積み重ねてきた。
誰よりも淑女らしく、しとやかに。
そして王を支えられるよう、賢く。
はじめのうちは泣きに泣いた。しかし次第に、イスターシャは我慢することを覚えた。王族の仲間入りを果たすならば、民の前では絶対に弱音を吐いてはいけなかったからだ。
そしてその並々ならぬ努力が実り、イスターシャは正式な王太子の婚約者として王宮に入ることを許されたのだ。
これからフェリクス様のために頑張れる。
民のために国を良くしていける。
そんな希望に満ち溢れた少女の心を砕いたのは、彼女と同じ少女によるものだった。
イスターシャは、メイドとして働いていた子爵令嬢の手によって、階段から突き落とされた。
その理由は「フェリクス殿下を愛していたから。わたしのほうがフェリクス殿下にふさわしい」という、勘違いも甚だしいことだった。
それを聞き、イスターシャは思う。
「恋慕のためならば、他人をいくらでも傷つけていいなどという御託が、あってたまるか」と。
「わたくしの今までの努力をどうしてくれるのか」と。
***
医師から残酷な現実を告げられたその日から数日間、イスターシャはぼんやりとした意識のまま日常を過ごした。
イスターシャへの配慮か、彼女の部屋には極力人が入ってこない。彼女にとってそれは、ひどく嬉しいことだった。両親からも手紙をもらってはいるものの、封を開ける気にはなれない。
されど王や王妃、王太子が訪問しに来ないのはいささかおかしい。イスターシャはそう思っていた。
むしろ、追い出されると思っていたのに。
足を折り立てなくなった王太子妃候補など、いるだけ邪魔な存在だ。だからと言って実家に戻っても、イスターシャは穀潰しとして過ごすだけだろう。人のためという信念の元自らを奮い立たせていた彼女にとってそれは、ひどく屈辱的で絶望的な事実だった。だからと言って立場上、自殺すらできやしない。彼女は人生の瀬戸際に立たされていた。
しかしここで治療を受け続けることのほうが、イスターシャにとっては心苦しいことだった。
役に立たない、傷物の王太子妃候補など、すぐに排除するべきだわ。
まるで他人の声のように、自分の声が頭に響く。イスターシャは不思議な気持ちでいた。
そしてその声がとても大きく響き出した頃、イスターシャは侍女に言付けを頼んだ。相手は言わずもがな、フェリクスだ。
本来ならば一介の貴族が王族を呼び出すなど甚だおかしいことなのだが、イスターシャは構わなかった。だってイスターシャの存在自体が、今の王宮にとってはおかしいのだ。
ならその狂人がさらにおかしなことをしても、誰も何も言わないでしょう。
むしろ王太子であるフェリクスが何も言わないならば、イスターシャから言うべきだ。民のことを第一に考えるなら、この考えは間違いなく正しいのだから。
彼女は自分のそう言い聞かせ、ベッドの上で両手を握り締める。
「大丈夫。わたくしは、言えます……」
そして、お優しいフェリクス殿下から、わたくしという重荷を取り除かなくては。
イスターシャは砕け散った夢の欠片を胸の中で掻き抱き、唇を噛み締めた。
フェリクスがやってきたのは夜だった。それはそうだろう。昼間に気楽にやってこれるほど、彼は暇ではないのだ。
しかしフェリクスは、その忙しいときにもかかわらず、夜に時間を作ってくれたのだ。イスターシャは心からそれに救われた。
すっかりやつれたイスターシャを見たフェリクスは、穏やかな表情をわずかに歪ませ寂しく笑む。
「イスターシャ。具合はどうかな」
「はい、殿下。足以外は、すこぶる良好ですわ」
イスターシャも微笑み目を伏せる。
一方のフェリクスは、殿下、という呼び方にすべてを悟ったらしい。目をハッと見開き、緩く首を傾ける。
彼女はそれを見つめ、フェリクスにこうべを垂れる。
「殿下。此度はお願いがあってお呼び立ていたしました。無礼な行い、誠に申し訳ございませんでした」
「……いい。ところでイスターシャ。あなたの願いとは、一体なんだい?」
イスターシャはひとつ、大きく息を吸った。そして声が震えないように最大限努め、ゆっくりと口を開く。
「――フェリクス殿下。どうかわたくしと、婚約を解消してくださいませ」
その言葉を吐くために、イスターシャは凄まじい体力を使った。
言って、涙がこぼれそうになる。しかし唇を噛んで耐えた。こうべを垂れているため、イスターシャの顔はフェリクスからは窺えない。彼女は必死になって自らの想いを封じた。
フェリクス。
亜麻色の髪に穏やかな青の双眸を持つこのヒトを支えることが、イスターシャにとっての存在理由だった。
何よりもこのヒトの側で、その姿を見守ることを夢に見ていた。
されどその夢は、とある狂女によって儚く散らされた。
フェリクスは、国民想いの優しい王族だ。婚約者が彼のようなヒトだったからこそ、イスターシャも努力を惜しむことなくやってこれた。
しかしそれも、今日でおしまいだ。イスターシャが彼にできることは、何もない。
フェリクスから降るであろう言葉を待ち望んでいると、ふと彼が動く音がした。
フェリクスは、イスターシャが座るベッドの横で膝をついていた。
それを視界の端で捉えたイスターシャは、唇をわななかせる。
「でん、かっ」
「前のように、わたしの名前を呼んでよ。イスターシャ」
そう言うと、フェリクスはイスターシャの手を取り掌に口づけを落とす。イスターシャは思わず悲鳴を上げた。顔を真っ赤に染め、フェリクスの手の体温を意識する。それはそうだろう。イスターシャに男性経験はない。
まるで恋人に懇願するような口づけに、イスターシャは頭の芯からしびれるような、奇妙な感覚に襲われていた。
「イスターシャ、呼んで」
「な、りませんわ、フェリクス殿下……」
「……イーシャ」
「う……」
お願いだから、呼んでよ。
そう言いたげな熱視線を向けられ、イスターシャは口ごもる。
本来ならば、王族に対し一介の貴族が愛称を呼ぶことは許されない。そして既にイスターシャには、その権利がないのだ。
しかしそんな顔をして愛称を呼ばれると、イスターシャ自身も返さなくてはいけない気がしてしまう。そんな誘惑があった。
「……リクス、さま」
言った瞬間、フェリクスがとろけるような笑みを浮かべた。そしてごくごく自然に、イスターシャを抱き締める。
困惑したままなすがままになっているイスターシャは、次いでやってきた言葉に目を見開いた。
「婚約破棄は、しないよ」
「……え?」
「父上と母上とも話し合った。家臣たちも説得している。いろんな声があったけれど、過半数が納得してくれた。王妃にふさわしいのはやはり、イーシャ以外いないと」
「そん、な、わけ」
イスターシャは信じられないといった眼差しで首を横に振る。しかしフェリクスはさらに抱き締め告げた。
「わたしは、イーシャがこの国のことを考え様々なことを学び、行動に起こしてくれていたことを知ってるよ。学園視察、孤児院訪問……そして貧困層視察。あなたは決して国の黒い部分に目を瞑ることなく、真摯になって行動してくれた。そんなイーシャ以外に、王妃は勤められないよ」
「でも、わたくしの足は、もう」
「動かないならわたしが運ぶよ。あなたのために、異国から車椅子と呼ばれるものも取り寄せた。……それでもイーシャは、わたしから離れていくのかい?」
イスターシャはそのとき悟る。フェリクスが今まで彼女のもとへ来れなかったのは、イスターシャのために色々と動いてくれていたからなのだと。
それが嬉しくて、同時に申し訳なくて。イスターシャはぽろぽろと泣き出してしまう。
「わた、くし、はっ」
「うん」
「わたくし、は、リクス様のことを支えたい、民のために、誠心誠意働きたい、です……っ」
「そう。なら、決まりだね」
本格的に泣き出すイスターシャを頬を、フェリクスが指先で拭う。そして赤子をあやすように、イスターシャの瞼に口づけを落としていった。
「イーシャ。愛してるよ」
そんな幸せな言葉を聞きながら、イスターシャは泣き疲れて眠りに落ちた。
――それから二ヶ月後。イスターシャとフェリクスは正式な婚姻を果たした。
結婚式の際、フェリクスはウェディングドレス姿のイスターシャを横抱きにしながら入場した。その素晴らしい演出に、参列した貴族たちは皆喝采の拍手で祝福したと言われる。
それから代が変わりフェリクスが王となった後、ふたりは幾度となく民のもとへ顔を出し国の治世を良くしていった。
どんなときでも嫌な顔一つ見せず王妃の車椅子を引く王の姿は国民の間でもとても好評で、ふたりは国民からも愛される国主になっていった。
子宝にも恵まれ、イスターシャは元気な王子と王女を産んだ。
「リクス様」
「うん、なんだい?」
「わたくし、リクス様ことが大好きですわ」
「うん、知ってるよ。でもわたしのほうが、イーシャのことを愛してるから」
「まぁ」
そして今日も今日とて王宮の庭で、ふたりはこんな会話を交わしていたという。
掌への口づけは「懇願」という意味だそうです。
この作品を最後までお読みくださった方々、ありがとうございました!!!