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庖丁梅譜  作者: 鏑木恵梨
6/7

其の六

 格子越しに空が白む、早春の明け方。

 北の山より吹き下りてくる霧は、散り染める梅を取り巻き、どこへともなく去っていった。枝枝の尖は霧の残していった微粒子が美しく珠を綴る。

 半四郎は朝番に出仕し、冷たい水に食材を洗う指先を凍らせていた。

 本日は式日で、一菜加わる。この一品が半四郎の腕の見せ所だった。

 魚河岸の賄方御用より入った旬の飯鮹を、酢を差してやわらかく煮付ける。伊予守が召し上がるときはすでに冷たい。それも考慮して冷めても美味なよう、調味にくふうを重ねる。藩主は若く壮健の身で、江戸定府であらせられた。少し濃いめがお好みかも知れぬ。

 半四郎は御昵近以下足軽以上の士分で、御目見はかなわぬ身分であった。だから実際、伊予守を見たことはない。一度おすがたを拝見できればお好みが類推出来るのに、と半四郎は時に残念に思う。

 配膳を済ませれば半四郎らにはしばらく御用はない。

 明け五つ(午前八時前)。城が賑わいを見せる時間だ。

 側用人は朝番の内でもだれよりも早く登城する。中でも主税は最も早い。

 ───そういえば昨日一日、なにも云ってこなかったな。

 傷が癒えるまで家で匿っている梶原新左衛門のことだ。

 匿うとはいえど、城下の人々は秋津家に滞在していることは既に知れわたっていた。しかし理由は伏せられていた。主税が抑えているのだろう。

 当藩師範役、それとも牢人。両者の勝負が決着したのであろう、とだけは囁かれていた。常より剣とは無縁の賄方でも興味深々の者が多く、

「秋津、その武者修行牢人とはじっさい、どういう」

 賄方の連中は全員、半四郎を注視した。

「どうって云っても」

「負けたのか」

「負けたって」

「決まっているだろう。あの牢人だ」

「ああ。それで怪我をしたから養生してもらっている」

 おお、と全員からどよめきが漏れた。

「なぜ貴殿の家に」

「それは居合わせたから、なりゆきで」

「貴殿は側用人の滝口と昵懇だったな」

「そこが解せぬのだ。滝口殿が預かるのが筋ではないのか。向こうは七百石取りだろう」

 半四郎は思わず失笑した。

 正直いって七十石二人扶持の身では、確かに楽な家計ではない。

「それもまあ、なりゆきで」

 返答に窮しながら言葉を濁すと、食膳が返ってきた。半四郎はこれ幸いと片づけにかかる。

 旨い、とのお声がかりはないが、飯鮹の煮付けの椀はどれも空になっている。

 ……よし。

 半四郎は確かな成果に胸を躍らせながら、朝番を終えた。


 昼には空は晴れ上がっていて、白灰色の帷の行方は跡形もない。鶯が伸びやかな声で早春を謳う。

 秋津家の庭は狭い。そこで男ふたりが棒きれを振り回す。一撃を大きく避けると、垣根に突っ込んでいく。それでも当然、本人たちは真剣そのものだった。

 一見、滑稽である。

 されど、奈津は眸子を見開いたまま総身を震わせるばかりだった。

 梶井はあらためて見ると年は二十五六、色浅黒く、弓なりの眉に意志の強そうなはっきりした目、引き締まった口許がひどく印象的な美丈夫であった。

 奈津が数日前感じていた恐ろしさは、朝の霧のように何処へと去っていた。噂と先入観ほどあてにならないものはない。

 良人も武芸修行の牢人も、ほぼ腕は互角。これも人は知らない。

「奥様」

 勘右衛門が敷居の手前で呼ぶ、

「滝口様がお見えでございます」

 奈津は手拭いをふたりに渡しながら、

「私が参ります。それと、えいに梅干しを用意するように云って頂戴」

 庭先で半四郎は吹き出した。

 良人の武士らしからぬ振る舞いに、奈津も負けじと娘のように睨みかえすと、ぷいと表へ出ていった。

「あれで主税の妹ですよ」

「……本当ですか」

 と、梶原は整った顔立ちを奇妙に曲げる。

「私は貴公はきっと名のある人物に相違ないと思っています。主税もそう思って、貴公をお上に推挙したいと勧めたと」

「深甚の感謝はしたいと思います」

 梶原の言葉は切り口上だが、しんじつはこもっていた。

「いず方とも主取りはしないと申されたとか」

 梶原は押し黙った。

 半四郎は衿を直しながら、物語でもするように云った。

「奈津の料理は全く自己流で、目分量で塩を入れるわ味がなくなるまで茹でるわと、庖丁人としては見てはいられないんです。食べたらもう、さらに驚愕の出来でして……」

 半四郎はひとり笑い、続ける。

「ところが梅干だけは旨い。俺がつくるより旨いんです。やはり塩は、がっさりとそれは大胆に入れるのですが、不思議なくらい味が馴染んでいる。細かいことを言い立て過ぎると、かえって味をつぶしてしまうのですね。貴公はどう思いましたか」

「頂きましたよ。確かに旨かった」

 半四郎はにこりと笑った。

「さて……主税が待ちかねていますよ」


 主税は裃を着け上座に座っていた。

 お茶受けには小皿に梅干がひとつ、添えられていた。待つ間に少しばかり手をつけたのだろう。少し茶は減っていたし、梅の実は皿の端に残っていた。

「お役目でしたら、とりも直さず参りましたものを」

 膝を払いながら半四郎は云った。

 分かっていて待たせただろう、と主税は云いかけたが、止めた。かわりに梶井氏の同席を求める。奈津の呼びかけに梶井が坐すと、主税は改めて背筋を正した。

「梶原氏、傷が治り次第即刻退国願いたい。これは御上意です」

「承りました。もとより敗北した時点でつぎの藩へ行く所存でした。今すぐにでも退国仕ります」

 梶原は旅のうを脇に寄せて、深く頭を下げた。

 対する主税は頭は下げなかったが、沈痛な面持ちでじっと梶原を見つめていた。

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