其の四
朱が遠い空に溶け、闇に変わろうとしていた。
八幡社の梅はほかよりひとあし早く、そのいのちを誇る。
白梅香る樹下、武者ふたり、相対す。
剣術指南役・栗栖典膳は、木刀を正眼に構え、立っていた。息は乱れていた。肩がしきりに上下する。
向かえうつ牢人・梶原新左衛門は眉濃く、肩幅広い偉丈夫。静かに、上段から振り落ろす時を待っていた。
両者、ともに動いた。
典膳は膝をはらった。梶原は動きを読み、細やかにかわした。
なお典膳は打撃を加えた。打込みを流されながらも、二歩三歩と踏み込む。典膳は押すに押した。
かかっ。
と、軽い交錯音。
即、典膳は下がった。
形勢逆転、梶原の切り込みは速度を速めていった。
打ち込みは鋭く、速い。典膳は肩の前で受け流す一方である。
主税は太刀筋を追いかけた。
───見える。
動きがはっきりと、見える。もしおれの腕が自由なら、栗栖どのよりまえにおれが申し出た。このような介添役でなく……。
主税は唇を噛んだ。
やがて典膳は追いかける側となった。しかし典膳は息を乱していた。喘ぐように追う。
梶原は闊達に動く。歩に乱れはない。
突然、典膳の瞳に月が映る。牢人は何処……。
一瞬だった。
音もなく、一刀が空を舞った。
「勝負あった」
主税の声と同時に、典膳は膝をついた。
「負けにござる」
最悪の事態だった。
「梶原氏」主税はつとめて冷たく告げた、「当藩にはもう、格別の者はおり申さず」
牢人梶原は木刀を脇におさめ黙っている。
主税は言葉を継いだ。
「されど……面目にかけてこのままにはできません」
「拙者を討つ、と」
梶原は問うた。低く、透き通った声である。
「ええ。されど未練な真似はいたしません」主税は右腰より片手で刀を抜いた、「真剣にて、いざ」
主税の右腕はただの飾りと、梶原はそこではじめて気づいた。
でありながら、挑む。
───決死の覚悟だ。
諸国廻遊の剣士はすぐに悟った。
右腕の使えぬ男の剣術のほどは測れない。だが、捨身ほど厄介なものはない。
「拙者は武芸修行です。木刀にてお相手いたします」
「それは道理ではありません。拙者が真剣なのだから、貴殿も真剣を執るのが筋というもの」
「相手の得物は問わずとあります。拙者は木刀にてお相手いたしますし、でなければ御免被ります」
「では木刀と真剣にて」
主税は苛立った。こちらが真剣でも木刀という。それでも勝利する積もりなのだ。梶原の自信のほどを感じ取り、主税を苛立たせる。
だが、こちらは一度譲った。それでも向こうは木刀に拘った。なれば負い目はない。木刀と真剣の勝負であれ、後ろ指差されるいわれはない。
───遠慮なく斬る。
主税は自らに云い聞かせるように、ひとり頷いた。
その矢先である。
「待たれ、主税どの」
主税、梶原、典膳とも、声の主をさがした。
主税は聞き知る声に複雑な思いでかすれた声をもらした。
「半四郎」
梅の木の木陰、提灯をかかげ三者を煌々と照らす。
その薪の下に浮かび上がる姿は、半四郎であった。
「拙者、台所組秋津半四郎と申します」
「庖丁ざむらいがなんの用だ」栗栖典膳は怒った、「真剣勝負を邪魔するかッ」
「滝口主税どのは私の義兄です」
半四郎は笑みを絶やさず云った。
「敗北のときは腹をかっさばくお積もりでしょう。しかし、よくお考えください。義兄上は殿の片腕と申すべき人物。あたら命を粗末にするのは不忠ですよ」
「されど」
主税が渋るのを遮り、半四郎は梶原牢人に向き直る。
「お手合わせ願えますか」
梶原は不思議な顔をした。
「貴殿、腰のものは」
「帯刀を許されていません。かわりにこれを帯びております」
懐紙の上にさらし布に巻いた二本をのせる。脇差、そして包丁。
半四郎は一礼し、主税に託した。
「よろしい。参りましょう」
梶原は右手の木剣を執り直した。
「いざ」
と受けた半四郎の孤影に、三人はあっと声をあげた。