其の三
「満開だな」
半四郎は裏木戸の梅を見上げていた。良人を出迎えた奈津は、半四郎の視線を追った。
「匂ふがごとく今さかりなり、ですわね」
「豆腐を買ってきた」
半四郎は小脇に桶を抱えていた。
嫁してきたはじめは不快だった。武士が食物を買って帰るなどと、職人でもやらないことではないか。実際、意見した。
だが、半四郎はわかった、と云うなり変えようとしない。
修行していたころを思い出して楽しくてね。そう笑うだけなのだ。
奈津もやがて考え直した。半四郎は家を潰され江戸を出た。そして京に庖丁を学んだ。それは家命で修行に出たのとは違い、門戸を叩くまでに並々ならぬ苦労があるらしいと、主税から聞いた。その修行時代を思い出すというのだ。無碍にやめてほしい、などとどうして意見をいえるだろう。
「おえいに渡しておきます」
「いや、おれがつくろうと思ってな」
奈津は目をみはった。
「あなたが」
「おれがね」
半四郎は穏やかに微笑んだ。
厨では下女のおえいが夕餉の支度を終えたばかりであった。
「あれぇ、だんなさま」
「それをおくれ」
半四郎はまな板と布巾を受け取ると、豆腐の上にのせた。水抜きである。水抜きの間に、梅干しを裏ごしし、芥子の実をつぶす。水抜きを終えた豆腐に串を刺す。刺して、炭火にあぶる。梅と芥子をまぶし、さらに軽くあぶる。
奈津もおえいも半四郎の手ばやさに見とれ、ぼうっと立っていた。
「運んでくれ」
といわれ、ようやくふたりは我にかえった。
「えいと勘右衛門の分もそこにある。食べてみてくれ」
おえいは感激して何度も会釈し、主人らの膳を放り出して裏庭の勘右衛門を呼びに駆けだした。
あっけにとられながらも奈津は怒って、
「あとで叱っておきます」
「自分で持っていくさ。おまえも一緒に食べよう」
半四郎は苦笑し、ふたり分の膳を持って厨を出た。
奈津はあわてて半四郎のあとをついていった。
膳は一汁一菜、そこに半四郎の豆腐椀がひかえる。
深い土の色、白い肌に茜さすような浅葱いろの梅。雲のごとく芥子が散り、ささやかに開きはじめた梅の花弁が華を添える。
奈津はおそるおそる、箸をつけた。
ほのかな梅の香りと酸っぱさが、次いで甘みが口のなかに広がる。芥子の実の歯ざわりがまた、顎をうごかすごとに面白い。
───これが良人のしごとなのだ。
そう思うと、奈津は梅豆腐もいとおしく、誇らしい。
「どうだ」
半四郎は興味深そうに問うた。
奈津は少し首をひねって考える。
「なんと申し上げればよいのでしょう。とにかく、おいしゅうございます」
「梅干しの味がいいんだ」半四郎は嬉しさをかくさず云った、「これは奈津の味だよ」
奈津は紅をはいたように頬を染めた。
だが、なぜ今日。
奈津は汁椀を近づけつつ考えた。
考えられることはただひとつ。あの兄のことばだ。
───おれが頼んでもか。
「あなた、刀をお持ちになるのですね」
半四郎はその問いには答えず云った。
「指南役の来栖どのと主税どのが向かわれた。ことと次第によっては」
「……兄が」
「主税どのは真剣のみを携えていたという……主税どのがやるくらいなら、おれが」
半四郎は静かに箸をおいた。
「おまえは主税どののお屋敷へ行きなさい」
「離縁などいたしません」奈津はきっぱりと告げた、「誓紙をたがい譴責を受けたとしても、どこへも参りません。わたくしは秋津半四郎の妻です」
半四郎は眼を細めた。
妻の瞳は覚悟の色か、活き活きとした光を帯びている。声音も力づよく、何者にも引かぬ決意を示していた。
「お勝ちになりましたら退身いたせばよいのです。あなたなら、どこへなりとも仕官できます。仕官叶わずとも小料理屋でもひらけばやっていけますとも。わたくし、ついて参りますわ」
「小料理屋か」
「お待ち下さいませ、刀を取りに参ります」
「刀はいい」
ではと、奈津はま新しい袴をさし出した。半四郎は立ち上がって足を通すと脇差のみを腰に差した。
「お気をつけていってらっしゃいまし」
奈津が深々と頭を下げると、半四郎は安心したようにおっとりと微笑した。