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庖丁梅譜  作者: 鏑木恵梨
3/7

其の三

「満開だな」

 半四郎は裏木戸の梅を見上げていた。良人を出迎えた奈津は、半四郎の視線を追った。

「匂ふがごとく今さかりなり、ですわね」

「豆腐を買ってきた」

 半四郎は小脇に桶を抱えていた。

 嫁してきたはじめは不快だった。武士が食物を買って帰るなどと、職人でもやらないことではないか。実際、意見した。

 だが、半四郎はわかった、と云うなり変えようとしない。

 修行していたころを思い出して楽しくてね。そう笑うだけなのだ。

 奈津もやがて考え直した。半四郎は家を潰され江戸を出た。そして京に庖丁を学んだ。それは家命で修行に出たのとは違い、門戸を叩くまでに並々ならぬ苦労があるらしいと、主税から聞いた。その修行時代を思い出すというのだ。無碍にやめてほしい、などとどうして意見をいえるだろう。

「おえいに渡しておきます」

「いや、おれがつくろうと思ってな」

 奈津は目をみはった。

「あなたが」

「おれがね」

 半四郎は穏やかに微笑んだ。

 (くりや)では下女のおえいが夕餉の支度を終えたばかりであった。

「あれぇ、だんなさま」

「それをおくれ」

 半四郎はまな板と布巾を受け取ると、豆腐の上にのせた。水抜きである。水抜きの間に、梅干しを裏ごしし、芥子(けし)の実をつぶす。水抜きを終えた豆腐に串を刺す。刺して、炭火にあぶる。梅と芥子をまぶし、さらに軽くあぶる。

 奈津もおえいも半四郎の手ばやさに見とれ、ぼうっと立っていた。

「運んでくれ」

 といわれ、ようやくふたりは我にかえった。

「えいと勘右衛門の分もそこにある。食べてみてくれ」

 おえいは感激して何度も会釈し、主人らの膳を放り出して裏庭の勘右衛門を呼びに駆けだした。

 あっけにとられながらも奈津は怒って、

「あとで叱っておきます」

「自分で持っていくさ。おまえも一緒に食べよう」

 半四郎は苦笑し、ふたり分の膳を持って厨を出た。

 奈津はあわてて半四郎のあとをついていった。


 膳は一汁一菜、そこに半四郎の豆腐椀がひかえる。

 深い土の色、白い肌に茜さすような浅葱(あさぎ)いろの梅。雲のごとく芥子が散り、ささやかに開きはじめた梅の花弁が華を添える。

 奈津はおそるおそる、箸をつけた。

 ほのかな梅の香りと酸っぱさが、次いで甘みが口のなかに広がる。芥子の実の歯ざわりがまた、顎をうごかすごとに面白い。

 ───これが良人のしごとなのだ。

 そう思うと、奈津は梅豆腐もいとおしく、誇らしい。

「どうだ」

 半四郎は興味深そうに問うた。

 奈津は少し首をひねって考える。

「なんと申し上げればよいのでしょう。とにかく、おいしゅうございます」

「梅干しの味がいいんだ」半四郎は嬉しさをかくさず云った、「これは奈津の味だよ」

 奈津は紅をはいたように頬を染めた。

 だが、なぜ今日。

 奈津は汁椀を近づけつつ考えた。

 考えられることはただひとつ。あの兄のことばだ。

 ───おれが頼んでもか。

「あなた、刀をお持ちになるのですね」

 半四郎はその問いには答えず云った。

「指南役の来栖どのと主税どのが向かわれた。ことと次第によっては」

「……兄が」

「主税どのは真剣のみを携えていたという……主税どのがやるくらいなら、おれが」

 半四郎は静かに箸をおいた。

「おまえは主税どののお屋敷へ行きなさい」

「離縁などいたしません」奈津はきっぱりと告げた、「誓紙をたがい譴責(けんせき)を受けたとしても、どこへも参りません。わたくしは秋津半四郎の妻です」

 半四郎は眼を細めた。

 妻の瞳は覚悟の色か、活き活きとした光を帯びている。声音も力づよく、何者にも引かぬ決意を示していた。

「お勝ちになりましたら退身いたせばよいのです。あなたなら、どこへなりとも仕官できます。仕官叶わずとも小料理屋でもひらけばやっていけますとも。わたくし、ついて参りますわ」

「小料理屋か」

「お待ち下さいませ、刀を取りに参ります」

「刀はいい」

 ではと、奈津はま新しい(はかま)をさし出した。半四郎は立ち上がって足を通すと脇差のみを腰に差した。

「お気をつけていってらっしゃいまし」

 奈津が深々と頭を下げると、半四郎は安心したようにおっとりと微笑した。

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