其の一
「奈津のつくるものは、まずいな」
滝口主税の無遠慮なことばに、奈津は頬をふくらます。
「とくに菜ものなんかなっちゃいない。塩を入れればいいというものではないぞ。食えるのは梅干しだけだ」
「兄上さまは良人のつくったものを召し上がるつもりだったのでしょうけど、おあいにくさま。家では良人はなにもつくりませんのよ」
奈津がそう云うと、
「京仕込みの包丁道が味わえるかと思ったんだ」
主税の口調はさも落胆したといわんばかりである。
「主税どの、貴方は妻の手料理をけなしにきたんですか」
ずっと無言であった秋津半四郎は、ようやく口を開いた。
主税は左手にあった箸を盃に持ち替える。
「例の武芸者の話は、知っているだろう」
半四郎は「はい」と返事をした。
主税は盃を一気にあおる。
五日前のこと。
八幡社の鳥居の前に板札が掲げられた。札に曰く、
一.御領分ニ於テ御役筋認ノ下 仕合仕ル可ク候事
一.仕合ハ一騎一番得手次第 努々遺恨不可有候事
讃岐牢人 梶井新左衛門
武芸修行の廻国牢人と名乗る輩が立てたものである。
この牢人、修行の一環としてこの藩を訪れ領内での果たし合いの許可を申し出た。
断るのも筋ではない。藩は、評定うちそろって許可を与えた。
だが梶井という牢人者、おそろしく強かった。
初日に三人、二日目に藩内の道場より名札が上にある若者が五人、四日目には師範代が挑んだが、すべて破れ去った。
「だれも勝てなかったのだ」主税はぐいと座りなおした、「師範代までもが負けた。牢人者にだぞ。このままでは当藩には武辺の者なしと、もの笑いの種になる」
「それほど強いのですか」
奈津の問いに主税は黙って頷いた。
奈津は鳥肌が立った。師範代でさえ負けただなんて、考えただけでも恐ろしい。早く立ち去ってくれないものかと思う。だがこのまま立ち去られてはお国の恥となる。受けた恥辱は雪がねばならないという主税の意見も、奈津には理解できた。
良人の半四郎を見やる。
半四郎は主税の直視にこたえたまま表情は変わらない。
「半四郎、木刀でいい」
主税は静かに盃を置いた。半四郎は視線を落とす。
「それだけは、ひらにご容赦を」
「おれが頼んでもか」
「お役に立てなくて残念ですが」
そうか、とだけ云って主税は再び盃を手に取った。
半四郎は膝に拳を乗せたまま、押し黙っている。
奈津は両者を交互に眺め見た。
行燈の明かりが急に薄暗くなったと思えるほどに、ふたりの横顔は闇にとけている。澱んだ空気のなか、奈津は背筋を伸ばす。
「兄上さま、用件はそれだけでしょうか」
「……ああ」
「今度いらっしゃるときは夕餉を取ってからになさいませ」
主税は唇の端で笑った。
「そうだな。そうするよ」
主税は刀を手にして座を立った。奈津が手を出すのを制し、彼は左の片手だけで二本を腰に差す。
半四郎はその器用なさまを、暗い目で見つめていた。
主税を見送っている間に下ばたらきのおえいが片づけを済ませていた。
客間は静まり返っていた。ただ、炭は音もなく燃え続けている。
ほの暗くしんとした中、半四郎と奈津は向かい合う。
「おれは臆病者だな」
半四郎はひとりごちた。
「ちがいますわ」奈津はつよく云った、「兄が無理なことをおっしゃっているだけです」
「主税どのには返すことのできない恩があるというのに」
半四郎はまぶたを伏せた。
「恩など何です。あなたに牢人とあい対せと申すなら、兄が相手すればよろしいのです」
「奈津!」
半四郎の喝に奈津は肩をすくめた。
ごめんなさいまし……消えるような声で奈津は呟いた。
「すまなかった」
半四郎は妻の肩を抱えた。
細かい震えが半四郎の身へと伝う。
「とにかく、おれは庖丁しか持てないのだから」
奈津は、応えるように頬を寄せた。