Journey to Heaven from Heaven
この旅に出たのはいつの事だったか。
故郷を勢いで飛び出して、行く宛も分からず泣きながら道を歩いて、誰かに拾ってもらってまた飛び出して。
夕日が怒って空が悲しんでも、風に無視されて月が微笑んでも、ただただ歩み続けた事しか記憶が無い。
たくさんの街を通り抜けた気がする。ある街では人が溢れ、違う街は飢餓に苦しみ、その先にあった街には闘技場があった。
いろんな人に会った気もする。女、子供、男、夫婦に老人、顔色の悪い病人に死人にも出会った。
たくさんの友とも別れた。かけがいの無い友たち、時には反発して二度と顔も見まいと思った。そんな友も別れる時は皆泣いていた。
この先に、何があるだろう。たくさんの街があるだろう。たくさん人に出会うだろう。たくさんの友と別れるだろう。たくさん泣くだろう。
俺は、覚えていられるだろうか。こうして立ち止まって振り返った事も。俺の故郷の風景などはとっくに忘れてしまったし、自信が無い。
少し、思い返してみるかと野宿の用意をしたのはもうずっと前の事で。俺は進みつつ戻りつつただ旅路を歩いている。飛び出した筈の故郷を探して。
たくさんの街の中で一際印象に残っていたのが月の街だった。もちろんこれは勝手につけた名前であって本当の名前は……忘れてしまった。そこでは、石で作られた四角形の家々がまばらに立ち並び旅人に冷たい雰囲気を伝わせ、ついでに街道までもが全て岩。しかしどれもとても綺麗に磨かれていて、昼間なんかは太陽の光をこれでもかとぶつけてくる。
だが、人がいないんだ。
別に恐くは無かった。廃村を訪れた事も何度かあったし何より、友との別れが無いからだ。
ただその認識は日が暮れ月が出ると訂正せざるをえなかった。
その街の住人は影だった。月影が人の形を作り、でこぼこの平面でしゃべったり、物を売ったり、愛を誓ったり、喧嘩をしたり、友と並んだり、子供と遊んだりと。最初はさすがに不気味に思ったが、生活感がありすぎて逆に和んでしまったのと、俺の影に話しかけるやつまで現れたことによりそういった感情は消えた。
「見かけない方ですが旅人か何かですか?」
声は若い女性だった。髪をおろしてスカートをはいているというシルエットしか見えないが、多分美しいのであろう……であって欲しい。
「ああ」
気の抜けた返事だった。
「どこへ向かって旅をされてるんですか?」
どうやら会話は出来るようで。
「どこを目指してって訳でも無いんですけどね」
苦笑した。この旅に目的も何も無い事を一番理解していたのは俺だった。若気のいたりとか、若い頃なら誰でもあるかもしれない外に出たいという気持ちだけが先行してこの旅は始まった。しかし外に出たという目的が達成されてしまった今、どうしたらいいかなど自分にも分からなかった。
「何か、自分でもよく分からないんですけど、旅に出ちゃったんです。苦労も親の心配も知らず」
言葉に詰まった。紡ぐだけなら容易いが、それだけではいけない気がした。
「でも」
女性は唐突に言った。
「それでもあなたは旅を続けましたよね。故郷に帰ろうとせず、それを悲しむ事も無く、かといって親への敬意も忘れずに。私はこんな体なので外へは出られないんですけど、ここに定期的にやって来る旅人の方がいて、その方から外の世界のお話をよく聞くんですよ。その人もあなたと同じでした。旅の目的が無くて困っていると最初に言われたので、私は外の世界の事を私に話してくれるようにお願いしたんです」
女性の声は柔らかかったし、明るかった。月明かりはさんさんと影を濃くさせていた。
「でも俺は……あなたに話すような事なんか覚えてないんです。どんな事も辛い事以外はすぐに忘れちゃうんです」
何か恥ずかしいというか、悔しいというかもやもやした。喉がつまって、胸が締め付けられて。
女性は何も言わなかった。何も、言わないでくれた。
静かな朝日が、頬を温めた。影たちはいつの間にか姿を消していた。石は存在を主張した。
次の月を見ることなく俺は街を去った。目に滴が貯まっていたのを覚えている。友との別れではなく、自分の不甲斐なさでもない。
ただ、ただ影があった。故郷を目指せと、黒く浮いていた。
ずっと求めていたのに気づけなかった故郷への想いが、悲鳴をあげていた。
それから俺の旅は故郷を探す旅になった。
方位磁石も地図も無い旅、同じ街は何度か通ったが月の街は二度と通る事が無かった。それでもいい。あの女性には旅人がいるのだから。
家に帰るまでが遠足とはいったい誰が言った言葉なのかは知らないが、あながち間違いでもないだろう。
故郷はまだ遠い。でもいつかはたどり着ける。そこが旅の終着点。この空で繋がった場所に向かって、泣きながら、笑いながら、落ち込みながら、怒りながら距離を縮めて行くのだろう。
一歩一歩進んで、一歩一歩戻って、今日もそれの繰り返し。
密かに俺の影が涙を流していた。地面にある小さな影はそれを見て、月の街へと伝えてくれるだろう。
「ありがとう」
影もまた、自分の存在を主張したくてしょうがないものなのだろう。俺がそう言うとおもむろに旅路を遡っていった。