夕星
少しグロテスクな表現が含まれます。ご注意下さい。
眩しいほどの白に囲まれた一室。目の前のベッドには、ひどく痩せた『大切な人』が横たわっていた。
「大丈夫、まだまだ元気だから」
そう言って彼女は微笑みを見せる。その意図は親密な関係になった自分でなくとも分かる。強がってみても、立つ元気すらどこにもないことを知っていた。
「そっか。もっと良くなるといいな」
「そうねえ」
良くなどなっていない。むしろ病状は悪化の一途を辿っている。二人とも、現実から逃げていた。
この前まで柔らかく包み込むような母性に溢れていた彼女は、痩せ細って以前の面影をすっかり無くしている。窓の傍で揺れるカーテンと彼女が重なって、ひどく弱々しく見えた。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「もう行くの?」
「明日、また早めに来るよ」
「ふふ、ありがとう」
短い応酬を交わして病室を後にする。本音は、彼女の変わり様をむざむざと見せられることに耐えられなかったのだ。言葉で表面上の逃避をしても、現実は的確に彼女を抉ってゆく。変わり果てたからといって、彼女を思う気持ちが薄らいだかと言うとそうではない。逆に深まったと言っても過言ではない。だが、その感情は今の自分にとって苦しいものになる。日に日に愛情は増してゆくのに、日に日に彼女はやつれてゆく。そして彼女への愛情が最高に達した時、きっと彼女は旅立ってしまうだろう。
病院から早足に出ると冷たい風が頬を撫でた。冬もそろそろ本格化する頃だ。何気なしに空を仰ぐと、ブルーモーメントが一面に広がっていた。
「あ……」
そんな青一色の空に見えたのは、一つだけの輝く星。
――宵の明星。
見とれていると、いつの間にかそれは消えてしまっていた。
「……」
自分はしばらく動けないでいた。
きっと彼女が消える時もこんな感覚なんだろうか。いつの間にか消えていて、それを実感出来なくて、気付いた時には遅かった。そんな風に。
そう考えていると、自分の足元だけが濡れていた。
翌日。
私は早くに行くとは言ったが、こんな時間に何をしているのだろうか。
午前三時。空もまだまだ真っ暗な時間帯に、私は病院の中にいた。
『彼女の容態が急変しました。明日の朝が山場かと思われます』
その電話が来た時、私はなんとなく悟ってしまった。
ああ、彼女は死んでしまうのだ、と。
その瞬間に過去の様々な思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
初めて出会った時、私はまだ高校三年生で、彼女は大学一年生だった。その時は恋愛感情など全くなかったのだが、たまたま同じ大学に進学し、たまたま同じサークルに入り、そうこうしているうちにいつの間にか付き合っていた。
成り行きのような、そんなだらだらしたような関係だったが、彼女といる時間は悪くはなかった。それがだんだんと心地良くなり、今では二人で一人のような心持ちだった。
それが。
今日。
消える。
「くそ」
弱々しい罵声を吐き捨てる。相手はいない。あえて言うならば、私の心の一部を齧り取る不躾な神様のようなものに。
妙に落ち着いた憤怒は夜に融けそうになるほど不安定だった。私はそれがひどく危険に感じて、必至に感情を内に溜め込もうとする。しかし内外が一致してしまうような感覚が常にあった。
分からない。そう言ってしまえば簡単なのだろう。しかしそんな言葉では終えたくない。この感情は単純に見えて、非常に深いものなのかもしれない。そうでないのかもしれない。
腕時計を確認する。三時十五分。
顔を上げると、白衣を来た男性がこちらを見ていた。
「ああ、ちょっと来なさい」
「はい」
見知った顔だった。彼女の担当医。
彼の顔からは彼女の状況判断が出来なかった。いつも通りのにこやかな表情が顔に貼り付いていただけだった。
「……彼女は」
「まあ落ち着きなさい」
静かな院内の階段を上りながら応酬を交わす。
私は自分でも気付かないうちに声を震わせていたことを知る。
こつ、こつ。冷たい靴の音が階段に響く。私にはそれが最後の審判への一本道に思えた。
やがて『五○二号室』と書かれた病室の前へ辿りつく。
先生を見ると、彼は私を促すように一度だけ頷いた。
音を立ててがらがらとドアを引くと、
「――!?」
私は刹那に意識を失って倒れた。
気がつくと、私は真っ暗な空間に倒れ込んでいた。
妙にふらつく脚でなんとか立ち上がり周囲を見回すと、所々に物が見えた。
まず床。基本的には黒色なのだが、よく観察すると絵の具を混ぜたように深い緑色や赤色がこぼれている所がある。
そして周り。ネオンのように光る輪郭だけの存在が一定の間隔で機械のように動いているのだ。例えばいま私の目の前、約二十メートルほど(距離感覚が曖昧なので正確ではないが)先になんとも形容し難い形のそれがある。無理矢理そのままを言えば、薄桃色の台形に緑色の二重の円が乗り、その左右にぐねぐねと歪曲したダウジングマシンが繋がっている、というところだろう。
近寄ってみても、それは特に動きを変えるということはなく、ただ機械的に一定の動作をプログラミングされたかのように続けるだけであった。
意味することがよく分からない。
ふと右を見ると、下層へ繋がる階段のようなものがあった。何がなんだか理解が追いつかないが、見つけたのだからとにかく行ってしまえ、と混乱した思考の赴くままに歩を進めた。
階段の先は病院だった。
しかしそれは私が先ほどまでいた病院とは全く違いひどく簡素なもので、清潔感があるというよりは何かを強調するためのわざとらしい白色が眩しい。
「う」
私はそれを見つけてたじろぐ。
おびただしい量の、もう乾いてしまっている血しぶき。
壁と床の境を曖昧にするようにして、またはその隙間から吹き出したかのような血は甚だ異質に見えて仕方がなかった。そもそも、ここは病院ではないだろう。病院が血をそのままにしているわけがないのだから。
真っ白な蛍光灯の続く通路を無言で進んだ。
いくつか部屋が見えたが、その全てがもぬけの殻であった。元々人がいたような形跡があったが、この場所自体にそのような雰囲気は感じられない。
思考も放棄して進んでいると、ついに終わりが見えた。
『手術中』
大きな扉の上で、赤いランプがその文字を強調していた。
数秒見つめていると、ランプは急に消えた。
私は言い知れぬ焦りに襲われて、乱暴にその観音開きのドアを開放した。
「――」
彼女だった。
手術台の上で、こちらを向いて座って、笑って手を振っている。
あらゆる臓物をまき散らして。
笑う彼女の顔は、右目が黒い穴と化して、右頬には血しぶきが、左頬には変な模様の刺青が施されていた。
言葉を発することもできず、私は一目散に逃げ出した。
戻ってきてしまった。
先ほどとおそらくさほど変わらないであろう場所に私は戻ってきてしまっていた。近くではあの変な形のネオンが鬱陶しいほどに同じ動きを繰り返していた。
ふと左を見ると、今度は上にのぼる階段があった。
行くべきか。行かないべきか。
私はなんとなくネオンに目を向けた。二重の円形のネオン管が二色、緑色と黄緑色に繰り返し明滅している。
どう、と。私の中におそろしいほどの憤怒が溢れていきた。なぜその感情が湧いてきたのかが分からないというのは、どうしようもなくおそろしく不安になる。
ついに私はその感情に抵抗することもできず、そのネオンの集合体に思い切り蹴りを打ち込んだ。するとぱりんぱりんと音を立てて、それらは瓦解した。私はその中にひとつの鍵があるのを見つけた。
私は鍵を持って上る階段へと向かった。
階段の先はなかなか見えなかった。暗い階段を上へ上へと進んでゆく。不思議と疲れはなく、先ほどの通路を歩いている時と同じような錯覚を覚えた。
しかしやっと光が見え、ようやく外に出る。
「あ……」
夕方の病院の屋上だった。
空にはひとつの強く輝く星があった。
――宵の明星。またの名を夕星という。
誘われるように鍵を持った右手を星へ伸ばすと、耳に解錠の音が響き渡った。その瞬間、また私は意識を失った。
私はドアの取っ手を握っていた。
左を見ると、彼女の先生がまた頷いた。
私も同じように頷いて、一度だけ深呼吸をする。
開く。
「――あ」
彼女だった。ベッドに座って、こっちを向いて、手を振っている。
彼女らしい可愛い服を着て。
「せ、先生」
「なんとか成功した。彼女はよく頑張ったよ」
それからのことはよく覚えていない。後日先生に聞くと、私は先生の言葉を聞くやいなや彼女に駆け寄ってわんわんと泣いていたらしい。恥ずかしい限りだ。