4、雨上がり
「わ、笑? わらう……笑う……?」
天照さんの頭上に?がいっぱい付いてる。そんなに難しいこと言ったっけ。ダメだ、頭痛い、回らない。そろそろ薬が効き始めるだろうから、あと少し耐えよう……。
「可愛いって、初めて言われました……」
天照さんはもにもにと自分の頬を揉みほぐしている。泣いた後だからか指で押しているからか分からないけど、心なしか頬が赤いような。
「閉鎖的な空間にいたなら、そりゃあね。全校生徒が天照さんを見るために集まるくらいには可愛いよ」
「あの人たちってそういうことだったんですか……?」
「あー……なるほどね」
じゃああの人集りはなんだと思っていたのか。いや、よそう。天照さんに常識を求めてはいけない。俺が天照さんへの理解を随時アップデートしていくしかない。
「あの、空本さん」
「なに?」
「もう少し、ありませんか」
「もう少しって?」
「その……お願い事? 笑顔だけっていうのは、なんというか、むず痒い? ので……」
頬から手を離した天照さんは、膝に手を置き、真っ直ぐこちらを見つめてきた。綺麗すぎて直視できない。眩しい。
……本当に笑顔だけで十分なんだけどな。でも本人が求めてるんだし……。
ふと、先程天照さんの情報をまとめたメモが視界の端に映った。ああ、そうだ。これなら。
「じゃあさ、天照さんのこと、虹さんって呼んでもいい?」
「えっ、それが、お願いですか……?」
「うん。俺のことも青晴って呼んでいいからさ。ダメ?」
さっき、俺の聞き間違いじゃなければだけど、天照さんは下の名前で呼ばれてみたいと言っていたはず。俺も天照さんと距離が近づいたみたいで嬉しいし、WinWinなんじゃないか?
「あの、」
「ん?」
天照さんは小さく喉を鳴らし、小さく息を飲んだ。
「私の名前、呼んでみてください」
「……虹……さん?」
「もう1度」
「虹さん」
「もう1度だけ……!」
「虹さん! もう1度と言わずに、これからもそう呼ばせてよ。……天て、じゃない、虹さん?」
気づけば、天照さんの頬には静かに涙が伝っていた。
「あま、じゃなくて、虹さん!?」
なんでまた泣いてるの……!? 何かやらかしたか? そうだ、天気、天気を見れば……!!
「……あれ?」
そういえば、あれほどまでに強かった嵐の音が聞こえない。窓を見てみれば、滴がガラスを這っていた。依然として空は曇っているけれど、あの暴風雨は綺麗さっぱりどこかへ消えてしまったようだ。つまり、この涙は……。
「……っ、ありがとう、ございます……!」
天、じゃなくて、虹さんは顔を上げた。
「な、なさん?」
泣いてる、けど、笑ってる。濡れたまつ毛が光を散らしていた。
「ご、ごめんなさい……! 嬉しいんです、私。ずっと、こんな日が来ないかなって、思ってたから……」
途中で息が詰まって、言葉がほぐれていく。そのたび、肩が小さく震えて、涙が頬を流れ落ちる。そんな大袈裟な。そう言おうと思ったけれど、口にできなかった。……名前呼ぶだけでこの反応? この人、本当に今までどんな環境にいたんだ……?
天照さんは一度、胸に掌を当てて、震える声で絞り出す。
「青晴、さん」
「なあに? 虹さん」
「本当に、色々とありがとうございます……!」
「いいっていいって。ごめんね、案内の途中で倒れたりなんかして。偶に……じゃないけど、突然痛みが来るとちょっとだけ意識を失うっていうか、倒れることが本当に稀にあって。びっくりさせたよね。ごめんね」
「私のせいなので……! いきなり囲まれて、動揺しちゃって……!」
「あんなの、誰でも同じような反応になるって。そういえば、その後はどうなったの?」
「えーと、騒ぎを聞きつけた先生がいらして、空本さんが運ばれていって、私は職員室に移動いたしました。それで……」
顎に人差し指を添えて、天照さんは白い天井を眺めながら一つずつ教えてくれた。運ばれてって……とんでもない醜態を晒してしまったようだ。明日どんな顔して登校しよう……。
「それで、とりあえず教室に戻ろうとしたところに雨沢さんとすれ違って、空本さんの、頭痛のことを……っ!」
天照さんの目に、また涙がじわりと滲んできた。気のせいかもしれない。気のせいかもしれないけど、窓に強い風がぶつかったような、ガタンと音がしたような……。どうにかして話を逸らせば……!
「あー、虹、さん? 違うよね?」
「え?」
「空本さんじゃないでしょ?」
「あっ……」
多分、作戦は成功した。涙は引っ込んで、その代わりに頬を赤く染めている。
……あれ、なんでだ……?
「あ、お、あお……」
天照さんはギュッと胸元で手を組んだ。言葉になりそうでならない声が、薄ピンクのカーテンに包まれて溶けていく。言いたいけど、言えない。苦しそうにも見えた。
「あまて……じゃなくて! 虹さん、ゆっくりでいいよ。これから、長い付き合いになるだろうし、ちょっとずつ慣れていこう?」
「で、でも、
天照さんがやっと言葉を発したと同時に、ガランッと勢いよく扉がスライドした音がした。
「天照さんってここにいるー?」
いつもの呑気な声、ノックしなくても保健室を出入りできる存在。現れたのは椿先生である。
「はい、私はここです!」
天照さんが立ち上がりながら返事をした。シャッとカーテンを開け、椿先生はいつものように白衣のポケットに手を突っ込んだまま喋りだした。
「こんなところにいたのね。お見舞い? あっ、荷物持ってきてくれたのか。ありがとう」
「いえいえ! そ、らもとさんとお話できたので!」
「そう? 実はちょっと天照さんに用事があってさ。来てもらってもいい?」
天照さんは振り返り、俺に視線を送った。どうしましょう、と顔に書いてある。
「こっちはもう大丈夫。行ってきなよ」
呼び出されてるのなら、仕方ない。もう少し話せたらな、なんて気持ちがないなんて言われたら否定するけれど、天照さんにとって俺はただの隣の席のクラスメートで、校内を案内した人で、天照さんを守ることもできず惨めに地に伏した人で……。あれ、もしかして俺の印象って最悪……?
「あ、そういえばお姉さんが迎えに来たよ。さっき廊下で会って話してきたから、お姉さんがここに来たら帰って大丈夫。君んとこの担任となんか話してたから、来るのはもう少しかかりそうだけど」
「うっっっっっっっわ……」
考えるだけで気が重すぎる。あの姉にどんな絡み方をされるのやら……。
「じゃ、天照さん、いこう」
「はい……」
椿先生はさっさと扉へと向かう。天照さんも、それに続く。まずい、天照さんが行ってしまう。いや行ってきなよって言ったのは俺だけど! なにか、なにか明日に繋がる言葉を……!
「あまて、
「あの!」
天照さんは急に振り返り、てくてく俺に近づいてきた。突然のことすぎて脳の処理が追いつかない。天照さんはずいっと顔を俺に近づける。虹色の瞳に俺が映っているのがはっきりわかるくらいの距離だった。
「明日こそ、あなたの名前を呼んでみせますから。少しずつ、慣れてみせますから」
天照さんは、高らかにそう宣言した。ああ、違う、天照さんじゃない。意識してないと戻ってしまうな……。
「待ってるよ、虹さん」
虹さんは、大きく頷き、満足げに扉へと駆けていった。
「虹さん、また明日」
軽く手を振ると、虹さんも軽く手を上げ、笑った。
「はい! また明日!」
カララ……扉はそんな軽い音を立てて、虹さんの姿を隠していく。名残惜しくて、気づけばしばらく虹さんが消えた扉を眺めていた。
明日は、自己紹介があるんだっけ。その後は、普通に授業。オリエンテーションが主だとは思うけど、色々と不安が残る。薬、ちゃんと常備しないとな。それから……部活勧誘! そうだ、なんにも準備してないじゃん。やばいか? 流石に今年は部員欲しいし……。虹さん、うちの部活見に来てくれたりしないかな。もう一回案内のチャンスがほし
「あおばあああああああああああああああああ!!」
「うわあぁぁあああぁあああぁあああぁあ……!」
バシン! と壊れていないか心配になるほど力強く扉を開けてきやがったのは長い金髪をポニテールでまとめた女性。破天荒という言葉はこの人のためにあるんじゃないかと思わせるほどの荒ぶった性格の俺の姉──紫春姉さんは鬼気迫る表情で現れた。




