10、選んだ空
4月の朝の空気は、まだ少しだけ冷たい。制服の上着を羽織り直しながら、陽の光に照らされた校門へ向かう。
昨日虹さんといたあの空間、天文ドームがやけに綺麗に見えた。
今日からは、虹さんと共に勧誘活動ができる。断じてそれ目当てではないけれど、虹さんには集客効果があるはずだ。
──このまま2人きりというのも、悪くは……? いやいやいや、部が存続できなくなる!
「朝からそんなに首を振って、元気だね」
下駄箱で靴を入れ替えている最中、後ろから冷ややかな声がした。振り向くと、江雪が立っていた。
いつも通りの表情なのに、どこか不服そうだ。目がいつも以上に笑っていない。それに、なんだか……眠そう……?
「噂の転入生の──天照さんだったかな? 天文学部に入るんだって?」
一瞬、胸が跳ねる。
「さすが会長。お耳が早いようで」
「お褒めにお預かり光栄だよ」
褒めてねーよと心の中で悪態をつく。しかし、虹さんが天文部に入るというのは、江雪だけが知ってるのか? それとも、もう校内に噂は広まって……?
「心配しないで。これを知っている生徒はきっとまだ僕だけだよ。……まぁ、噂は立っているかもしれないけどね?」
くすりと笑って、江雪は俺の不安を払拭した。読まれた、と表情が少し動いてしまったのが悔しい。
「それじゃあ、これで幽霊部員を含めて3人目……あと1人見つければ、存続できるのか。おめでとう」
ん?
「3人目?」
「おや、君の親友を忘れてしまったのかい? さて、僕はもう行かないと。では、またね。お父上によろしく」
腕時計を眺めながら江雪は足早に昇降口を去っていく。その背中を見送りながら、俺は段々と頭が冷えていくのを感じていた。その瞬間、がっちりと肩に衝撃が加わった。
「おっす青晴。また絡まれてやんの。つか、何してんの?」
腕を肩に絡めてこちらを覗いているのは、たった1人の天文学部の幽霊部員だった。
「昴……! うわ、そっか、ごめん!」
「え、何? なにしたの?」
「いや、えーと、うん、なんでもな、い……」
すっかりこいつの存在を忘れていた。
非常に気まずい。この事実は、墓まで持っていこう。
……そっか。俺たちは、別に二人きりじゃなかったんだ。胸の奥にあった、よく分からない特別感が、しゅっと萎んでいく。
──いや、別に残念とかじゃない。断じて。
逆に考えよう。あと一人入れば、天文学部は生き残れる!
「よし、教室行こうか!」
「ん? なんかよくわかんないけど調子良さそうだなお前」
「後で良い報告があるから、期待してろよ」
「まじ!? 天文部に部員来たの!? 幻じゃなくて!?」
「失礼なやつだな。……ちゃんと人間だよ」
「ふーん……で、その良い報告の詳細は?」
「教室着いたら、な」
早く教えろよー、と急かす昴を交わしつつさっさと歩き、教室の扉を開けた。廊下からも聞こえるほど、教室内はガヤガヤと賑わっていたはずだった。
「私天文学部に入ることにしたんです!」
虹さんの宣言が響くまでは。
「……ん? 今、天照さんなんつった?」
後ろにいた昴が教室を覗く。一瞬訪れた静寂は、叫び声と疑問の声と、誰かが立ち上がって倒れた椅子に変わった。
「そんな! いつ決めたの!?」
「昨日居なくなった後天文学室行ってたってこと!?」
「おい、部長とこ行くぞ……!」
「天文学部って……確か……」
1人、顎に手を当ててブツブツと呟いていた女子が、俺を見つけた。
「空本さん、天文学部だったよね!?」
「あー……はい。その通り、です」
「おい青晴、何が起こってんの?」
「昨日虹ちゃんが居なくなったのって、空本さんのせい!?」
「お前なにやらかしたの?」
「どんな手を使った訳?」
「なんか青晴、お前やばくね?」
「昴は一旦黙ってて!」
「青晴さん! おはようございます!」
「今、天照さんさ、空本さんのこと下の名前で……?」
──まずい、まずい。非常にまずい。
数十人の視線が一斉に集まる。名前を呼ばれる。責めるような声も、詰め寄る声も、興味本位の声も、全部同じ距離で飛んでくる。
「ち、違……」
「どういうことなの!?」
言いかけた声は、すぐ次の質問に掻き消された。説明しなきゃいけないのは分かっている。でも、どこから話せばいいのか分からない。
俺が強引に虹さんを誘った訳じゃない。ちゃんと彼女が選択したんだ。それを、言葉にしたところでこいつらは退かない。胸の奥が、じわじわと締め付けられてるみたいだ。
視界の端で、虹さんがこちらを見ているのが分かった。心配そうに、何かを言いたげに。
──君のせいなんかじゃない!
「こらー!!!」
劈くような怒声が、教室いっぱいに響いた。昴の横で仁王立ちしているのは、眉根を寄せた霧島先生だった。
「学べちょっとは! 天照さん困らせんなっつってんじゃん! ほら席についてー!!」
力強い口調のまま、先生は教壇へ上がる。
「早くないっすか?」
昴が言った。確かに、朝のホームルームまであと10分はある。
「話したいことがあるんでね。来た人から座って。そして雨沢さん」
「俺!? はい!!」
「これ配って」
昴は紙の束を受け取り、言われるままに人数を数えながら紙を配っていく。受け取ったその薄い紙の上部には、【各部活への注意勧告】と大きく書かれていた。
「えー、君たちの酷い勧誘活動を見て、とうとう生徒会が動きました。じ〜っくりこの資料に目を通すように。それから、記載してある部活動の部長副部長を含む代表者15名は昼休みに大講義室へ集まるように。時間厳守。遅れた部活は勧誘行為禁止でーす」
霧島先生は淡々と述べていく。
資料には
・授業時間前後・休憩時間における集団での声掛けの禁止
・教室内での部活動勧誘行為の自粛
・本人の意思確認を伴わない勧誘の禁止
・特定の生徒に過度な注目が集まる状況を作らないこと
・本人の学習環境・精神的負担への配慮を最優先とする
などなどが書かれている。更にはバスケットボール部、ラグビー部、吹奏楽部などの勧誘行為が激化していた部活動の名前が羅列していた。
この特定の生徒って、きっと虹さんのことだ。
「昨日遅くまで作業してくれた生徒会メンバーに感謝しようね」
霧島先生はそう付け足した。
──もしや、江雪が眠そうだった理由って……?
「それじゃあ、ホームルームを始める……前に! 天照さん、どうぞ」
先程までの表情はどこへやら、霧島先生はにっぱりと笑って虹さんを教壇へと上がらせた。虹さんはまた昨日のように、ひとつ深く息を吸って、吐く。そして。
「私、天文学部に入ることにしました!」
キラキラと輝く瞳で、そう宣言した。ようやく察したらしい昴が「えっ」と小さく驚いている。
「色んな部活を体験させて頂きました。どれもこれも魅力的な所ばかりで……。でも、私、空が好きなんです!だから、自分で選びました!」
堂々と話し続ける後方で、霧島先生が腕を組んで目を瞑り、頷いている。そういえば昨日、帰り際に呼び止められていた気がする。打ち合わせをしていたのかもしれない。
「決意は変わりません! だから、皆様、勧誘ありがとうございました!」
拍手は起こらなかった。その代わりに、ざわめきが一拍遅れて教室を満たす。
俺は、席に座ったまま彼女を見ていた。さっきまで向けられていた好奇の視線も、詮索の声も、もう届いていないみたいに、虹さんはまっすぐ前を見ている。
──自分で選びました!
その言葉が、胸の奥で何度も反響した。




