第2話 真実を伝えて
文化祭の振り替え休日で、本当はゆっくり休むはずだった月曜日。
穏やかに晴れた秋晴れの朝に似合わず、私の心は憂鬱で満たされていた。
朝食を食べ終え、私は居間に掛けられた時計を見上げる。
「もうこんな時間」
時間どおりに家を出ると、もうそこには律子先生の車が停まっていた。
「おはようございます。先生」
「おはよう。じゃあ行きましょう」
今日律子先生が迎えに来たのは、ボランティア部の部活動だからではなく、今から二人で行くところがあるからだ。
昨日の合唱コンクールで、大勢の人たちが声を出せない筈の少女の歌声を聴いた。
担任の柴田は、教室に現れた唄子の母のアドリブで一旦納得したが、そのアドリブを母親に頼んだのは、他でもない律子先生だった。
そして、昨日一旦保留しておいた詳しい事情を話しに、私たちは唄子の家へと向かっている。
「すみません。律子先生」
「まあ、いつかはこうなると思ってたけどね」
海岸通りで車を走らせながら、先生は大きなため息を吐く。
「鳴瀬さんが歌い始めた時、心臓が止まりそうになったわ。どうせ後先考えずに走り出したんでしょう」
「すみません……」
「話が大きくなる前に何とかしないとって、私がどんだけ慌てたか。とにかく反省しなさい」
「すみません……」
昨日のことに関しては、律子先生には本当に申し訳ないことをしたと思っている。
あの騒動のあと、先生はいわゆる火消し役に奔走してくれていた。
合唱コンクールの終了後、すぐに律子先生は行動を起こした。
まず、面識のあった唄子の母を観客席で捉まえ、事情は後で説明すると説き伏せて、即席で拵えたシナリオを覚えてもらった。
それから教室で問い詰められているであろう私たちのもとに母親を連れてきて、担任教師の追及から解放した。
そして、唄子が母親と帰ったあと、律子先生は私を待ち伏せていた。
その時に、明日一緒に唄子の家に行って母親に真実を話すよう言われたのだった。
「先生やクラスメートを納得させられても、こうなってしまったからには、これ以上ご家族には秘密にできないわ。あなたと鳴瀬さんの口から、ちゃんと説明しなさい」
「はい。そうします」
あの合唱コンクールの舞台でお互いの手を握りしめ、私たちは大きな一歩を踏み出した。
それが抑えきれない鬱積した感情だったのか、未来へ立ち向かう勇気だったのかは、はっきりとしない。
だが、その行動は力強く波紋を広げ、私たちの平凡な日常を壊した。
前に進むことを選んだ私たちは、その責任を負わなければいけないのだ。
「これから、どうなるのかな……」
助手席で車窓からの海を眺めていた私の口から、心にある不安が、ふと漏れ出た。
唄子の家に着くと、いつものように美津江さんが出迎えてくれた。
「奥様とお嬢様がリビングでお待ちです」
調度品の飾られた広いリビングで、唄子と母親はテーブル挟んでお互いに向かい合うようにして私たちを待っていた。
そして、唄子の母は私たちが部屋に入ると、一度席を立った。
「お呼びだてして、すみません」
「こちらこそ、お休みのところ、すみません」
社交辞令ともいえる挨拶を律子先生と交わしてから、母親は唄子と並んで座る席を私たちに勧めた。
席に着くと、すぐに美津江さんが香り高い紅茶を運んできた。
美津江さんはいつものように笑顔を浮かべ、テーブルにカップを並べていく。
「緊張なさらずに」
そっと私に声を掛けて、美津江さんはまた部屋を出ていった。
「どうぞ、召し上がって下さい」
母親は私たちに紅茶を勧めてから、自分もカップに口を付けた。
「志藤さんも。よく来てくれたわね」
母親は口元に笑みを作ってはいたが、向けられたその眼には、娘の友人に対するいくばくかの好奇の色が窺えた。
「あ、はい、昨日はありがとうございました……」
私は先にお礼を言っておいた。もしあの時この人が来てくれなかったら、大変なことになっていたかも知れない。
「早速ですが、昨日約束して頂いた、お話を聞かせて頂けますか」
カップを置いて本題に入った母親に、律子先生は落ち着いた様子で応えた。
「はい。でもそれは二人の口から聞いた方がいいでしょう」
律子先生の目配せを合図に、私は昨日から用意しておいた説明を開始した。
「本題に入る前に、少し私の話をさせて下さい。実は私、唄子さんとは違うハンデを持っています。あまり人には話していませんが、色覚に障害があって色を認識できないんです」
なぜ今そんな話をするのか。母親はそんな不思議そうな顔を見せつつ、律子先生に目を向けた。
「彼女の言っていることは事実です。それを踏まえて、最後まで話を聞いてあげて下さい」
律子先生にハンデのことを肯定してもらい、私はさらに話を続ける。
「唄子さんは聴覚にハンデを持ち、私は色覚にハンデを持っていました。でもあることがきっかけで、私たちはそれを克服してしまったんです」
そして私は隣に座る唄子の手を取った。
「唄子」
先に私が席を立つと、唄子も一つ頷いて席を立った。
「原因も理由も分かりませんが、私と唄子さんは、こうして触れている間だけ、お互いにハンデを克服していられるんです」
そして、唄子はゆっくりと口を開いた。
「そのとおりよ。お母さん」
声を発した唄子を目にした母親が、驚きを隠すことなく席を立つ。
「本当なのね……」
驚きで大きく見開かれた目に涙が浮かぶ。
そして、母親は二人を隔てていたテーブルを回り込み、唄子の肩に両手を置いた。
「もっと、もっと声を聞かせて、唄子……」
声を震わせる母親に、唄子の目頭が赤くなる。
それでも私がいるからか、唄子は昂ぶりを抑えるように手を胸にあてた。
「彩夏の言ったととおり、二人ならハンデを克服していられるの。きっかけは偶然だったけど、私たちはもう半年ほどこんな風にハンデを克服し合いながら学園生活を送ってきたんだ。お母さんに話すべきだったんだろうけど、あまりにも突拍子もない話でしょ。だから……」
とりとめもなく言葉を続けようとしていた娘を、突然母親は抱きしめた。
人目をはばからない母の抱擁に、唄子は赤面しつつ目尻に涙を浮かべた。
「ずっと黙っててごめんなさい」
二人から言葉にならない嗚咽が漏れだす。
それからしばらく、母親は娘を抱きしめたまま涙を流し続けた。
真実を伝えてひと息ついたあと、私は思いがけない母子交流の場に立ち会うことになった。
それは、ひとしきり泣いた母が娘に、あるお願いをしてきたからだ。
「私がピアノを弾くから、歌ってくれない?」
それは、母親が胸に抱いていた、絶対に叶うことは無いと諦めていた夢だった。
それからあの防音室で、小さなコンサートが開かれることになった。
観客は私を入れて四人。
律子先生と家政婦の美津江さん。そして三階から滅多に下りてこないおばあ様だった。
先程事情を説明したとき、美津江さんとおばあ様はその場にいなかったので、二人にはざっくりと私たちのことを話しておき、実際に唄子が歌声を披露することで理解してもらうことにした。
それから私たちは特別な体験をすることになる。
一流ピアニストの母と天才的な歌声を持つ娘。
奇跡ともいえるコラボに立ち会った私は、言葉もなく立ち尽くし、心を震わされた。
曲はあの合唱で歌ったのと同じ「大切なもの」だったけれど、音楽の先生とはまるでレベルの違う洗練されたピアノ伴奏が、さらに唄子の稀有な歌声を引きだした。
ああ、これって音楽で会話しているんだわ。
言葉では語りつくせない心の中を、二人はピアノと歌声で表現していく。
純粋な歓びと、切なくなるほどの愛情。
言葉による語らいを遥かに超えて、二人はお互いの想いを音楽で紡ぎ合った。
それは、長らく語り合うことの無かった母子の、濃密な会話のように私には感じられたのだった。




