第1話 次の舞台
講堂は溢れんばかりの拍手で満たされていた。
鳴り止まない拍手は、舞台上で合唱を終えた二年A組にではなく、たった一人の女生徒に向けられたものなのだろう。
聴覚にハンデを持っているせいで、声を発することができないはずの女生徒が、途中からではあるが合唱に参加した。
あり得ないものに遭遇してしまったクラスメートは、合唱中に意識が散漫となり、練習の時のようなハーモニーを奏でられなかった。
そのことが結果的に、さらに彼女の歌声を際立たせることになった。
合唱後のざわつくクラスメートの中で、美しい歌声で観客を魅了した少女は、大粒の涙をたくさん流しながら深く一礼し、舞台を降りて行った。
一つの物語が終わり、新しい物語が始まる。
いつまでも続く拍手の中で、私と唄子は新しい舞台へと踏み出したのだった。
文化祭が終わり生徒達が帰ったあと、私と唄子は、二年A組の教室で担任教師の柴田と向き合っていた。
「どういうことか説明してくれないか」
柴田は憮然とした態度で腕を組んだまま、そう尋ねてきた。
説明を求められるのは、勿論二人とも覚悟していた。
耳のハンデのせいで今まで全く声を発しなかった唄子が、突然歌い出したのだ。見逃してくれるわけがない。
それが分かっていながら、適当にはぐらかす言い訳を私たちは用意できなかった。
舞台上で唄子の背中を押してしまったことに関して、後悔はしていない。自分を解放した唄子もきっと同じ気持ちだろう。
しかし、やはりまずいことになってしまった。
「黙ってたら分からないだろ。ちゃんと説明しなさい」
納得がいかないといった面持ちで、柴田は腕を組む。
何も応えることの出来ない二人と教師の間で、息苦しい無言の時間が積み重なっていく。
そのうちに、教室に射し込む陽射しに眩しさを感じたのか、担任教師は一度席を立ってカーテンを引くと、また椅子に腰を下ろした。
「志藤は事情を知っているんだろ。鳴瀬の代わりに説明してくれないか?」
「すみません……」
そう応えることしか出来なかった。
沈黙の中で、また息苦しい時間が続いて行く。
「だんまりを決め込むか……なら、教えてくれるまで帰さんからな」
一歩も引かないという意思表示を柴田がした時だった。
「失礼します」
戸を開けて教室に入って来たのは律子先生だった。
柴田は一度席を立って、取込み中であることを告げた。
「大江先生、すみませんが、いま生徒と話をしてまして……」
「そのことで、お話があります」
律子先生は私たちに視線を一度向けた後、教室の入り口に向かって声を掛けた。
「さあ、お入りください」
「失礼します」
教室に入って来たスーツ姿の女性に、唄子は大きく目を見開いた。
柴田は少し戸惑いながら、訪問者と向き合う。
「娘がいつもお世話になっております。わたくし、鳴瀬唄子の母です」
丁寧に母親が頭を下げると、柴田は急に態度を軟化させた。
「いえ、こちらこそ……二年A組を担任しております柴田と言います。あの、大江先生、これはいったい?」
律子先生は落ち着いた様子で、ここに母親を案内した経緯を説明した。
「養護教諭として、鳴瀬さんのお母様とは、普段から娘さんの情報交換をしておりますの。今回の件は家庭の事情が絡んでおりまして、柴田先生にはお母様から簡潔に説明させてもらいます」
「そういうことですか。ささ、こちらにお掛けください」
頑固な生徒との膠着状態に困っていたのだろう、柴田は愛想良く手近にあった椅子を唄子の隣に用意した。
そして母親が静かに席に着くと、律子先生は私たちをチラリと見てから一礼した。
「では、後はよろしくお願いします」
そそくさと律子先生が教室を出て行ってしまったので、私はまた緊張に引き戻される。
いったいこれからどんな話が始まるのだろうか。
担任と向き合う母親の横顔を、私はさり気なく窺う。
凛としていて、とても強そうな人だ。
講堂で遠目に見た時は少し冷たそうに見えたが、間近で見た彼女はそんな印象だった。
そして、真っ直ぐに担任教師に視線を向けていた彼女は、その場で深く頭を下げた。
「この度は娘のことで皆様を混乱させてしまい、申し訳ありませんでした」
私たちの前では憮然としていた担任教師は、恐縮した様子で言葉を探す。
「いえいえ、その、あれです。唄子さんが突然歌われてびっくりしましたが、別に悪い事をしたわけではありませんし……ただ、事情を教えてもらえればいいだけのことでして……」
「ええ、勿論説明させて頂きますわ」
説明など出来る筈がない。あまりにも馬鹿げたこの状況に、私は心の中で疑念を抱く。
しかし、彼女は誠実さという仮面をつけているかのように、それらしく淡々と言葉を並べた。
「娘がいきなり歌い出して驚かれたと思いますが、聴覚が回復したわけではありませんの。実は海外から高性能の補聴器の試作品が昨日届きましてね。文化祭を楽しめるよう、今朝娘が家を出るときに持たせておいたんです」
「え? そうだったんですか?」
柴田は拍子抜けしてしまったような顔で、唄子の方を向いた。
「なんだ。そうならそうと言ってくれればいいのに」
唄子はどう反応すれば良いのか分からないのだろう。緊張のせいか無表情になってしまった娘の隣で、母親は再び深く頭を下げた。
「すみません。今回のことは全て私の責任です。娘には試作品のこと、内緒にしておくよう言っておりましたので」
この話は完全に出まかせだ。しかし、唄子の母はそれをまるで真実であるかのように説明した。
「ここだけの話ですが、まだ公表できない試作品を特別に回して頂いたので、あまり公にされると困った事になるんです。いわゆる大人の事情というものなのですが、先生ならお分かりになりますでしょう」
「なるほど。そういうことですか」
唄子の家が名のある財閥であることを柴田は知っていたようで、殊更に追及することも無く話はついてしまった。
だが、ようやく打ち解けた空気になった教室で、柴田の表情はまだ少し険しいままだった。
「しかし困りましたな。私はいいんですが生徒たちにどう説明すればいいか……」
「そうですわね。先生は生徒さんに説明する義務がおありですものね……」
母親はほんの少し目を伏せ、考えを纏めるような仕草をしたあと顔を上げた。
「試作品のことは口外できませんが、外国で作られた最新の補聴器だと説明して頂ければ……それなら嘘をついていることになりませんし」
「なるほど、そうですね。では今回のことは、いま仰られたように私の方から生徒たちに伝えておきます」
それからはまるで保護者面談の様だった。
母親は娘の普段の様子を聞いたりし、担任は当たり障りなく成績のいい唄子のことを誉めていた。
多分十分程度のやりとりだったが、母親のしたたかさに舌を巻いているのか、唄子は終始険しい表情だった。
「では先生、唄子をこれからもよろしくお願いします。さあ唄子、帰りましょう」
和やかな雰囲気で担任との話を終え席を立った彼女は、娘の腕を取って促した。
「では失礼します」
唄子は母親に手を引かれながら、私に「またね」と唇を動かす。
私は小さく手を振って、その姿を見送った。
すると、そのまま教室を出ていこうとした母親の脚が止まった。
「ああ、そうそう……」
ゆっくりと振り返った唄子の母は、私に目を向けると口元を僅かに緩めた。
「志藤さん。あなたのことは家政婦から聞いてます。是非また遊びに来て下さいね」
何気ない言葉の中に隠された意味に、私の心臓はドクッと鳴った。




