第八話
モヤモヤした気持ちを解消出来ないままに日々は過ぎ、約束の日はやってきた。
それでも夕子に対する感情の正体が何なのかはわからないけれど、結論だけは出ている。というか変わらなかった。
僕は澪と一緒にいたい。
その気持ちを何より優先すべきだ。
約束の時間は午後三時。場所は駅の西口前。付き合いだした当初に待ち合わせに使っていた地点だ。
時間を確認し、窓ガラス越しに空模様を確認する。
生憎と分厚い雲に覆われていてた。気温も低く、下手をすれば雨どころか雪が降るかもしれないとか天気予報では言っていた。自転車を使うのはやめた方が良いかもしれない。
となると。
「そろそろ向かうか」
徒歩でも家を出るには早すぎる時間ではあったけど、先に着いて澪が来るのを待てば良い。この悪天候で寒い中を彼女に待ってもらうのは忍びない。思えば待ち合わせには殆どの場合、澪が先についていて僕を待っていた。駅と自宅、各々の学校の距離関係から自然とそうなるだけと彼女はいつも言っていたけれど、僕の方が早くつける場合もある筈。
そういうところ、改めないとな。
気がつけば好意に甘えてばかりの自分を戒めつつ、準備を整えて家を出る。
「……っ!」
雨どころか、雪が降りはじめていた
だけど、僕が息を呑んだのはその事についてではなくて。
「あ、カナ君」
家を出た途端に、傘をさした夕子の姿が目に映ったからだった。
「どうして」
「えっと、今日ってカナ君の誕生日でしょ? だからプレゼントを……て思ったんだけど、ひょっとして出かけるところだった?」
夕子が僕の身なりを見て尋ねる。
「うん」
「もしかして、カノジョさん?」
「……そうだよ。三時に駅前で待ち合わせしてるんだ」
「――そっか」
僕の言葉を聞いて少し斜め下に俯く夕子の表情に、胸がざわつく。訳の分からない罪悪感がもたげ、グッと彼女にむかって引っ張られる様な気分になる。それらに抵抗する様に僕は声を発した。
「だから悪いけど……」
「でも三時ならまだ出かけなくても良くない?」
「……え?」
「だって、わたしの足でも二十分もあれば着くよ?」
「先に着いて待っていたいんだ」
「そっか、カナ君らしいね」
くすっと笑みを漏らす夕子に戸惑う。その様子に違和感を感じた。違う。何かいつもと違う。
「だけど、それにしたって早過ぎると思うよ。ほら、こんな天気だし、長時間待ってたら服とか濡れちゃうよ?」
「え、ああ……別にそれは構わないんだけど」
「カナ君が良くてもカノジョさんが申し訳ない気分になっちゃうよ。わたしならそう感じちゃう」
「……そ、そうかな」
戸惑って、決めていた行動基準が揺らいでしまった僕に、夕子が半歩接近して首をかしげながら言う。
「そうだよ。……だから、ね? わたしと少しだけお喋りしてから出掛けよ?」
「いや、それは……」
「五分ほどしてから出ればちょうど良くなるよ、きっと」
何だ。ますますわからなくなる。
こんな強引な夕子は見た事がない。
困惑して静止している内に、夕子は話を進めていく。
「それじゃ、ここだと私たちもプレゼントも濡れちゃうから、家の中に入れてくれないかな」
「いや、でも」
「大丈夫だよ。この間みたいに玄関で話すだけ。ね、それならいいでしょ?」
「それは……」
「お願い。ちょっとゆっくりしてから帰るってお母さんに言っちゃったの。それなのにすぐに帰ってきちゃったら、また色々と心配かけちゃう」
「……っ」
打って変わった様に真に迫った顔で、懇願するような仕草を見せてくる夕子に、そして彼女の持ち出した言葉に、僕は押されてしまった。
「……わかったよ」
敗北感いっぱいで呟く僕に、夕子はニッコリと微笑んだ。
玄関と廊下の間の段差の部分に二人並んで腰掛ける。夕子からのプレゼントは彼女の手作りだというケーキと包装された長方形の箱で、それらを受け取り、とりあえず壁際に立てかけた。
「一緒に食べようと思ってたから大きく作っちゃった」
そういうの迷惑だから、と言い切れたならどんなに楽なのか。だけど僕は夕子に対してそれが出来ない。今まで積み重ねてきた関係が、そこまで冷たい言動をとらせない。
「ごめん」
「ううん、でも頑張って食べてね」
「……わかった」
そこで、一度会話が途切れる。
雨の音が外から聞こえてくる。
こんな薄暗い玄関で何をしてるのだろうか僕は。
せめて明かりくらいは……じゃなくて。
用は済んだのだから、やっぱりさっさと駅前へ向かおう。雨脚が強いのならば近くで雨宿りしておけばいい。大体、澪は駅の中を抜けてこっちに来るんだから――と。
「ねえカナ君」
結論が出終わる前に、夕子が口を開いた。
すっと背筋に緊張が走る。何故?
「……何」
無視して自分の言い分を切り出すわけにもいかず、応答する。
「噂になってるよね……学校で、私たちのこと」
「……うん」
「だから校内だと、落ち着いてお話できないかなと思って」
それで、こんな似つかわしくない強引な真似をしたのか。
「まあ、今は確かにそんな感じだね」
だけど、と続ける。
「でも、僕や玲司の他にも噂が本当の事じゃないって知ってる人は居るし、すぐに収まるだろ」
もしくは玲司に新しいカノジョが出来たとかいう類の噂でも発生すれば一発だろう。
「カナ君は……わたしとそういう噂になるのって嫌なの?」
「……嫌というか、そういう問題じゃなくて。ただ単に困るんだよ」
「そっか、カノジョさんがいるもんね」
「……うん、まあそんなとこ」
何でわざわざそんな事を聞くのか。一気に鼓動が早くなった。
「じゃあ―?」
数秒の間隔を空けて、夕子が続きを喋ろうとする。遮ろうとして僕は口を挟もうとしたが、雰囲気に飲まれたのか声にならず。
結果、話の主導権を奪う事は出来ずに、僕は更に追い詰められる事になった。
「もしカノジョさんがいなかったら、どうだったと思う?」
「……っ」
心臓かまたギュウっと締め付けられるのを感じた。
「それは」
真偽に関わらず、ここは否定だ。わかってる。でも言えない。
「カナ君はわたしのこと、好きじゃない?」
「……っ」
その言い方はずるいだろ。心音の速度が更に飛び上がっていくのを感じる。
「わたしのこと、嫌いなの?」
悲しげな表情をしながら、体を傾けて身を寄せてくる。顔と顔が近づく。心が彼女の方へと押されるような引力を感じた。何だこれは。
「ねえ、どっち?」
あ、ダメだ。これはヤバい。
「……っ、そういう問題じゃなくてさ」
必死に理性を働かせて顔を背け、視点が定まらないまま吐き出す様に喋る。
「夕子が嫌いとか好きとか関係なくて、僕には澪ってカノジョがいて、僕は彼女の事を――」
「――わたしは好きだよ、カナ君の事」
「っ??」
突然告げられたそのフレーズは、彼女を拒絶しようとした僕の言葉を途中で止めた。目線を彼女へと戻す。夕子は顔を真っ直ぐにこっちへ向けて、じっと目を合わせてきた。どくん。瞬間、心臓に発作が起こったかの様な痛みが走る。息が止まる。
「ずっと、ずっと好きだったの」
瞬間、身体の奥からと脳天へ突き上げるような熱を感じた。体が反応しそうなる。
いや、待て、おい。落ち着けよ僕。そんな筈ないだろう。
理性にしがみつき、諭すように言う。
「それは違うだろ夕子。君が玲司の事をずっと好きだった事は、誰よりも僕が知っている」
そう。中学一年の時からずっと。夕子ががあいつの事で悩んだり怒ったりと恋患うのを、僕は隣で見てきたんだ。自身の気持ちを……隠しきれていたとは思わないけど、極力、夕子の前では見せない様にして。
だけど彼女は微かに首を横に振って否定した。
「玲司君の事は多分……憧れみたいなものを勘違いしちゃってたんだと思う」
憧れ? 何だよそれ。
「格好良くて、勉強もスポーツも何でも出来て。周りの女の子達もずっとキャーキャー言ってて。それで実際話してみても皆が言ってる通りの人で。凄いなあって。それで、何かボーッとのぼせあがっちゃったんだと思うの」
いや、今になってそれはないだろ。
それだけで三年以上も? あり得ない。
そう、僕は自分自身に言い聞かせ、それでいても尚、沸き上がってくる――。
「でも間違ってた。それは恋に恋している様な感じで本物の恋愛感情じゃなかったの」
――何かを必死に抑えつける。
「そ、そんな筈……」
「嘘みたいな話だけど本当の事なの。……ね、聞いて?」
そんな筈は無い、と否定しようとした僕の言葉を遮り、上塗りする様に夕子は少しズレかけていた僕との目線を再度きっちりと合わせてきた。
「前にお邪魔した時『そういう事だよ』って言ったの、覚えてる?」
「……うん」
忘れてしまいたかったけど、覚えている。
皆で仲間はずれにしたという誤解をとく為に、僕が夕子を追いかけた――その時の話をした後で、彼女が帰り際に溢した言葉だ。
「あの時、わたしがショックだったのは『玲司君が他の女の子と会ってた事』じゃなくて『カナ君がわたしに嘘をついた事』に対してだったって話をしたでしょ?」
確かに、した。だけど、それは。
「最初はね、自分でも流石に信じられなかったの。だからあの時、あの公園で落ち着いて自分の心を整理していたんだけど――そうしたら」
少しうつむいて、上目遣いがちに。
「カナ君が追いかけてきてくれて、わたしが誤解したままだと思って必死に説明してくれて。その時にね、何だか凄くホッとしたの――そして気がついたんだよね」
頬を少し赤らめて、ピンクの小さな唇を微かに動かして。
「ああ、わたしが本当に好きなのはカナ君だったんだって」
「――っ!」
体内を駆け巡る熱量に耐えきれなくなり、僕は強引に顔を逸らした。
「それが、あの時の言葉の意味なの」
「無い、それは無いよ夕子」
言い切った夕子に対し、吐き出す様に彼女の言葉を否定する。
「僕じゃなくて玲司を選んだのは君だろ」
「カナ君……」
そうだ。何を考えるのかわからないけど、夕子の言ってる事はおかしい。
「それなのに、今更何言ってんだよ。君は玲司の事がずっと好きで、玲司も君の事が好きで、だけど二人だと上手く仲が進展しないから間に僕が入って。ずっと、ずっとこの夏まで、そうやってきたんじゃないか」
自分でも何を言ってるのか、わからなくなっていた。多分、頭の中は相当に混乱している。
「カナ君お願い。落ち着いて」
そんな僕の醜態を前にして、夕子は落ち着いた口調でペースを乱さずに、僕の問いかけに答える。
「信じられいかもしれないけど、お願い。聞いて欲しいの。私だって本当にそうなのかって、何度も考えてみた。だけど一度気づいてしまうと、もう他の答えは無かった。そして、そう考えたら玲司君と付き合い始めてから、ずっと悩んでいた事もストンと腑に落ちたの」
「腑に、落ちたって、何が」
僕の思考は殆ど停止状態になっていた。
ずっと悩んでたって何を? その正体がわかったって何?
夕子が言ってる事が、理解できない。
ただ、無くなった筈の感情が、心の奥で再び燻り始めそうな予兆がして、そこから目を逸らそうと必死だった。
――そこへ、逃げられない直球な言葉が飛んでくる。
「わたし、玲司君とキスできなかったの」
「っ??」
揺さぶられる。違う。その話は聞いていた事だ。夕子の口から「キス」なんて言葉がでたから驚いただけだ。反射的に視点を合わせてしまった夕子の唇から慌てて目を逸らす。
「一度も、だよ?」
「それは……」
何と言えば良いのか。知ってた、とは言えない。
僕の濁した語尾をどう捉えたのか、夕子はうなづいて続きを口にする。
「どうしても、そんな気にはなれなかった。ずっと自分でも不思議だった。でもね、本当に好きな相手が玲司君じゃなかったからだと今ではそう思うの」
「夕子……」
「――きっと玲司君は途中から気がついてたんじゃないかな。何となく察してたんだと思う。だから一度それとなく避けたら、あの人も二度とそういう事は求めてこなかった」
――え?
聞いて、思わず視線を避けていた夕子へと戻してしまった。
「うん、そうだよ。だって、あの玲司君だもの。わたし達と違って恋愛経験が豊富なあの人の事だもの。きっとそれでわたしの本当の気持ちを察してくれてたんだと思う。ずっと、わたしが自分の気持ちに気がつくのを待っていてくれたんだよ」
違う。玲司から聞いていた話と食い違っている。
夕子は僕の反応には気がつかず、喋り続けていた。
「……優しい人、だもの」
「……」
自分自身にも語りかける様に、夕子はそう締めくくる。
僕はそのどこか遠くを見ているかの様な表情を見て、ようやく気がついた。
そうか。
夕子はそういう事にして、自分の初恋を終わらせたんだ。
良い思い出となる様に、一部の記憶を塗り替えて、都合の良い解釈をして。
……まあ、夕子らしいといえば、そうなのか。
納得した。僕は多分家族以外の誰よりも夕子の事は知っている。だから、腑に落ちた。
同時に、この状況下でそんな事を分析できている自分に驚いてもいた。
以前の僕では考えられない。
多分、いまはじめて僕は自分の気持ちがどこにあるかを本質的に理解した。
「ねえカナ君」
夕子が僕に視線を戻す。熱っぽい視線。僕がずっと自分に向けられる事を願っていた視線。
「カナ君となら、わたしできるよ――キス」
顔をやや上に向けて、ずっと目を閉じる。
なんて、蠱惑的な情景。
夢にまで見た、焦がれる程に焦がれた場面。
「夕子……」
呼びかけても彼女は答えない。無言でその唇に僕が向かうのを待っている。
……っ。
激しい衝動に襲われる。重力が加わって、吸い込まれる様にその唇に引き寄せられる。
――だけと。
僕はもう知っている。
理解してしまった。
自分の想いが誰に向けられているのか。
それがわかったうえでも尚、引き寄せられるこの感情。
今の夕子に僕が向けている気持ち。
それは狂おしい程に強く、激しい。
でも、違う。
もう、僕はそれを恋とは呼べない。
好きだった時間の長さの分だけ、想っていた深さの分だけ、今もまだ感情の記憶は僕を揺さぶってくるけど。
それは今現在の僕の感情じゃない。
だから、やっぱりもう、それは今の僕が受け入れてはいけないものなんだ。
「――ごめん、夕子」
彼女の両肩に手を置き、腕の長さの分だけ距離を空ける。
「カナ君?」
驚いた様子で、夕子が目を開いた。
信じられない、目がそう物語っている様に見えた。
一瞬、また心が揺らぐ。
だけど、ここでも止まるわけには行かなかった。
「君も知っている事だけど、今の僕には他に好きな子がいるんだ。だから、ごめん」
言った。夕子ならこれで充分。わかってくれる筈だ――と思ったがそうではなかった。
「今付き合ってる子の事だよね?」
「……うん」
「その子の事、わたしよりも好き?」
「……うん」
「……私よりも大切?」
「…………うん。大切で特別で一番大事にしたい人なんだ」
「――――そっか」
夕子は呟き、天井を見上げた。
「どうして、うまくいかないんだろ……」
「夕子?」
「ようやく、自分の気持ちに気がついたのに」
「……ごめん」
その話の真意については問わない。人それぞれ気持ちの整理の付け方は違う。夕子の事が嫌いになれた訳では無い僕はただ謝るしかない。
「カナ君の付き合ってる子って、去年の秋に合コンで知り合った人だよね」
「……知ってたの?」
「本人から聞いたの」
そういえば、澪もそんな事言ってたな。一体どうやって会い、どんな話をしたのか。僕が知る機会はないのかもしれないけど。
「そんな出会い方で、まだ付き合いの浅い女の子に、わたしはカナ君をとられちゃうんだ……」
「……好きになるのに出会い方も時間も関係ないんだよ」
もしあるとすればタイミング。
それが少しでもズレていたならば、僕はまだ夕子よりも大切な存在を見つけられていなかったかもしれない。
「……」
「……」
夕子はまた俯き、そして会話は途切れた。いつの間にか雨音は聞こえなくなっていて、しんとした静寂が訪れる。――今、何時だろうか。徒歩だとそろそろ向かわないとマズイ筈だけど、自転車を使えばまだ余裕は若干残っているだろう。
――だから。
「ねえ、夕子」
今度こそ本当の本当に。
引きずり続けてきた初恋を終わらせよう。
「僕はそろそろ行かなきゃいけない。僕の――一番大切で特別なカノジョが待ってるんだ」
多分、不安をいっぱい抱えながら。
夕子ははぁっと大きな溜息をついた。
「私ね、勝手な話だけとカナ君はずっとわたしの側に居てくれるんだと思ってたんだ」
「夕子……」
「わたしが誰と付き合っても、カナ君に恋人ができても、それとは関係なく幼馴染みの関係は特別なんだって」
僕もずっとそう思ってた。思えば、だからずっと引き摺っていたのかもしれない。
「――だけど、そうじゃなかったんだね」
だけと現実はそう簡単にはいかない。単なる幼馴染みは特別じゃない。特別にしてはいけない。他に大切な人がいるならば、特に。
澪だけでなく、玲司だって。
僕が夕子を特別視していなければ、玲司と夕子だって違う展開が有り得たのかもしれない。
それは、僕の罪だ。
罰が降るのならば、それは甘んじて受け入れよう。
――だけと、今は。
「ごめん、夕子」
彼女の顔は見ず、僕は立ち上がった。
「もう行かなきゃ」
「……うん。だけど、ごめん。もう少しだけ、ここに居させて貰ってもいいかな」
「わかった」
鍵を渡し、夕子に預ける。
「じゃあ、戸締まりは宜しくね……小牧さん」
彼女の事をそう呼ぶのは何年振りか。
でも、それでいい。それくらい離れてて、丁度良いんだ。




