第六話
夕子は運動が得意じゃない。今も中学の時も帰宅部だった。だから簡単に追いつけると思っていたんだけど、赤信号に次ぐ赤信号で完全に見失ってしまった。故意になのか気付いてないだけなのか、携帯電話を鳴らしても反応はない。仕方なく夕子が無意識に向かいそうな場所に当たりをつけて辿り着いたのが、澪と付き合い始めた公園の噴水前の広場だった。
「夕子」
空いているベンチの一つにぽつんと座っている彼女に近づき、呼びかける。
「カナ君……追いかけてきてくれたの?」
その問いに「うん」とだけ答えた。
「当たり前だろ」は違うし「放って置けなかったから」でもない。強いて言えば「衝動に駆られて」だけど、それは言えない。その正体を僕はまだ分かってないし、分かりたくも……ない。
「ありがと」
やめて。悲し気な笑みなんて要らない。僕は首を横に振る。とにかく、自分が言うべき事を話す事にする。
「聞いてほしい。誤解なんだ。あそこにいた全員が最初から約束して集まっていた訳じゃない。電車が止まってて、駅の中で待ってるより外に出た方が良いやって外に出たらアイツらがいて。だから夕子が見たのはその偶然の瞬間なんだよ」
決して君一人を仲間外れにした訳じゃない、そう言う意味を込めて説明した。
だけど、対する夕子の言葉は意外なものだった。
「わかってるよ」
「え?」
「確かに一瞬そう誤解しちゃったのは事実だけど、ここに来て、カナ君が来るまでの間に気がついたの」
「そう……なのか?」
「うん」
それじゃ、何でそんな無理からな笑みを浮かべているのか。
「カナ君達と玲司君達があそこで偶然に会ったんだよね」
「その通りだけど……玲司だって菅木さんと二人で会う約束をしてた訳じゃ無くて、まだ他の人達が来てなかっただけで」
「良いよ、そっちの事も、もう」
慌てて玲司のフォローに入ろうとした僕を、穏やかだけど冷たさを感じさせる声で、夕子はスパッと止めた。
「……夕子?」
「カナ君は追いかけきてくれた。玲司君は追いかけて来てくれなかった。――それが全てじゃないかな」
「それは……っ」
夕子らしからぬハッキリとした物言いに、返す言葉が見つからず言葉が止まる。
クスッと、夕子が微笑む。
「カナ君は知ってるんでしょ? わたしと玲司君が上手く行ってない事」
「それは聞いた。だけど……」
「最近ずっと険悪な状態が続いているの。もうつかれちゃった」
「……恋人同士だって喧嘩する事もあるだろ」
「だけど心穏やかな時間が殆ど無いってのは問題じゃない?」
「夕子……」
「しかもその時間って、カナ君が間を取り持ってくれたお陰で出来た時間じゃない?」
「それは……」
「あーあ、間違えちゃったのかな、わたし」
「っ……そんな事、言うなよ」
それなら僕は何の為に君を諦めたのか。自分の気持ちを押し殺して二人を祝福したのか。揉める度に仲裁に入ったのか。
「――ごめんねカナ君。色々としてもらったのに」
「……」
「でもね、今わたし達がこうしている時間に、あの人は約束してた人達と遊んでいるんでしょ。そう思っちゃうとね……」
「……」
何も言えなかった。言葉が思いつかなかった。本当、何で追いかけなかったんだよ玲司。おまえだってずっと夕子の事が好きだった筈だろ。いつも僕より判断も行動も早かっただろ。何でだよ。
ここに居ない玲司への問いかけで頭の中が一杯になっている事に気がついた瞬間、僕は自分が夕子と玲司の仲を諦めてしまったことを悟った。
「ごめんね、カナ君」
夕子がもう一度、謝る。
哀しい響きが、感じられた。
十二月は早くに黄昏れ、夜の帳が降りてくる。街灯に明かりが燈り、街は煌びやかに彩られるけれども、目に映る風景は寂しくて冷たい感じがする。
そういえば、と隣を歩く夕子が切り出したのは、公園を出て駅へ向かう大通りの途中での事だった。
「カナ君、カノジョさんと一緒にいたよね? わたしを追いかけてきて大丈夫だったの?」
「大丈夫だと思う」
とりあえず、そう答える。実のところ、現状報告だけでも入れておきたいところだったけれど、夕子の醸し出す空気が僕にそれをさせるのを拒ませていた。だけど、今それを本人に言ってもマイナスにしかならない。
なので微妙に僅かに話の流れを逸らす。
「実は澪が僕に夕子を追いかけろって言ってくれたんだ」
「そうなんだ」
あまり喋りすぎると惚気話になる。今、それは駄目だろうと端的に説明した。それでも夕子は相槌を打っただけで、そこで会話は途切れてしまった。まあ今のこの状況で盛り上がれる話題なんてないよなと、成り行きに任せてそのまま歩く。
少しして、夕子が感想を口にした。
「カノジョさん、良い人なんだね」
「うん、とても良い子だよ」
「そういうとこが好きなの?」
「そういうとこ『も』かな」
気を遣いつつ、ここも短く回答。
「……そっか」
の後に「良いな」と独り言の様に呟く夕子。何が良いのか分からなかったけど、聞こえなかった振りをしてやり過ごす。そして、その後は会話が無いまま電車に乗り地元の駅へ。家に向かう道のりは住宅街を歩くこともあって、先程までよりも更に暗くて、体感的な寒さも増してる気がする。夕刻までは晴れていたのに、いつの間にか空は雲で覆われていて月も星も見えなくなっていた。
「カナ君」
と夕子が数十分振りに声を出した。
「何?」
「カナ君の事だから大丈夫だと思うけど、後でカノジョさんに連絡してあげてね」
「うん」
答えながら、何でまた澪の話なのか考え、夕子が気にしているのかなと思って、少しだけ補足する事にした。
「実はもう連絡してあるんだ。さっき電車に乗ってる時に、とりあえずの現状報告と帰ったら電話するって送っといた」
「え、そうなんだ。わたし全然気づかなかった」
「夕子、何か考え事してるみたいだったからね。その合間に」
「――そっか。羨ましいな」
声のトーンを落として夕子が呟く。今度はスルーするわけにもいかず、尋ねた。
「何が?」
「あの子って凄く綺麗だし、恋を応援してくれる友達もいるし、男の子を見る目もあるし」
「……」
顔を見ながらそんな事を言われて、どう返せというのか。前の二つはともかくとして、最後のはどういう意味なのか。
「澪が安条からの紹介って事、知ってたんだ?」
結局、一番当たり障りのない二つ目について目を逸らしつつ聞き返した。
「うん、紹介じゃなくて合コンだった事もね」
「……それは誰から聞いたの?」
「秘密」
ふふっと笑う。まあ夕子の耳に入るルートなんて限られてるから察しはつくけれど。
「ねえカナ君」
「何?」
「どうして合コンなんか行ったの?」
「それは……カノジョが欲しかったから」
「だから安条さんに頼んだの?」
「そうだけど……それがどうかした?」
「別になんだけど、意外だったから」
「何で?」
「カナ君らしくないな、ていうか似合わないなって思って」
「……そうかな」
「うん。だから、ひょっとして何かあったのかなって、悩みを抱えてたのかなって、ずっと考えてた」
「……別に特別に何かあった訳じゃないよ。ただ夕子と玲司とか見てて、そういうのも良いなって思っただけだよ」
「わたしと玲司君を見てて、羨ましくはならないと思うけど」
「……そんな事、ないよ」
何だこの薄氷の上を滑る様な、何かとギリギリ背中合わせの状態の様な会話は。何で僕たちは今こんな話をしている?
とくん、とくん。
胸の鼓動が大きくなってるのを感じた。じわりと胸に滲む。この話題は嫌だ。止めたい。そう思った時に冷たいものが頬にあたった。
「あ、雪……」
夕子が声を上げた。空を見ると、ちらりはらりとだけど白い氷の結晶が舞う様に降りて来た。
「今年の冬は早いな、もう二度目の雪か」
救われた様に呟く。
「そういえば」
と空を見上げながら、夕子が喋る。
「この間の雪が降った日の夜、カナ君窓を開けて雪を眺めながら、電話してたよね」
「……ああ、うん」
「相手はカノジョさん?」
「そうだけど……夕子、ひょっとして見てた?」
「うん、偶然だけど窓を開けたら斜め向かいのカナ君の部屋の窓が見えて。それで気づいてくれるかなと思ったけと、カナくんは気づかなかったみたいだね」
「そうなんだ。それは悪かった」
「ううん。だけど、よっぽどカノジョさんとのお喋りが楽しかったんだね」
「それは……まあ、うん。あの日の電話は特に盛り上がっていたかも」
思い出しながらそう答えると、夕子は視線を変わらず雪に合わせたままで。
「羨ましいなあ」
と、もう一度呟いた。
やはり今年の冬は寒い。早々に雪が降っただけでなく、木枯らしも吹き荒れる。朝晩には吐く息も白い。
「寒いねー」
駅のホームで電車を待っている間に、澪が手と手を擦り合わせた。
十二月中旬。僕の通う学校では期末テストの最終日にあたる、とある一日の朝の事だった。
「手袋をつけたりはしないの?」
と聞いたら、
「スマホ触りにくくなるから無理」
と手をパーの状態にして見せてきた。
「あたし、手ちっちゃいし」
「確かに」
と自分の手の平を重ねてみる。彼女の手がすっぽり隠れてしまった。小さく柔らかいけれど凄く冷たい。
「おっきいねー、さすが男の子? それとも元バスケ部だから?」
「部活は関係ないと思うけど――てか、恥ずかしいんだけどこれ」
「そう?」
「うん」
時折、チラチラと同い年くらいの学生がこっちを見ているのが、視界の隅に入る。朝の駅のホームはある意味閉鎖された空間みたいなものだ。変わった行動をしていると街を歩いている時より、ある意味目立つ。
「じゃあ、こうしちゃえ」
えいっとばかりに澪は彼女と僕の指を絡ませて掴むと、そのまま僕のコートのポケットに二人の手を差し込んだ。
「これでどう?」
悪戯っぽく笑う。
「……これはこれで、もっと恥ずかしいんだけど」
ていうか照れる。だけど澪はこの状態がお気に召した様で。
「いいじゃん、別に」
よりギュッとしてきた。最近の彼女はより積極的というか攻撃的というか。とにかくスキンシップが多い。
「……まあ、いいけど」
と押し切られながら、恥ずかしさもあって、僕は対面ホームの屋根の向こう側、ここのところ冴えない天気の曇り空へと目を向けた。
穏やかだけど、ちょっと落ち着かない日々。
あの、学校帰りの電車が止まって、僕と澪と安条が玲司と菅木さん、そして夕子と鉢合わせした日以降、ここ数日、こんな感じが続いている。
澪はあの後で電話した時も、次の日の朝も、特に何かを聞いてくるわけでもなく、先程の様に少し距離を縮めてくる行為が増えたくらいで、平然としているように見えた。もっとも、その代わりというのも変な話だが、安条からお叱りの言葉をしっかりと受けることにはなったのだけど。
「じゃあね」
いつもの登校途中にある電車の乗り換え地点で、澪と別れる。その後はボンヤリ一人で学校に向かったり、途中で友達と合流したり。何とも穏やかで心休まる日々だろうか。最近は夕子からも玲司からも連絡がない事は気がかりだったけど、逆に音沙汰が無いというのは何も起こってないという事だと僕は考えていた。第一、あの二人が別れたならば別クラスの僕にも自然と伝わる位のニュースになる。玲司がモテるのは元より、夕子も男子生徒の中で密かに人気がある。
――間違えちゃったのかな、わたし
まあ恐らくは、夕子のあれも一時だけの感情で直ぐに落ち着きを取り戻したのだろうし、玲司だって気まずいながらも反省したりしたのだろう。良い事だ。
何にせよ、このままこんな毎日が続いていてくれれば良い。
曇天模様の合間に僅かに覗かせた青い空を眺めながら、僕はそう思った。
――だけど。
得手してそんな感想を漏らした矢先に物事は動いてしまうものらしい。僕が穏やかな気分でいられたのは、その日から期末試験の結果が返される日までの僅かな間だけだった。
放課後、校舎内掲示板の前。
貼り出されているのは先日あった期末テストの順位表。。群がる他の生徒達に紛れて自分の成績をチェックする――辛うじて、現状維持。
良かったと声には出さず、心の中でホッと一息ついた瞬間に、背後から肩を掴まれた。
「よお」
と背後から。振り向くと玲司が同じ様に掲示板を眺めながら立っていた。
「玲司……」
ここのところ顔を合わす事の無かった友人。誤解した夕子が走り去って行くのを、コイツが追いかけようとしなかったあの時以来だ。思い出すとムカムカしたものが込み上げてきた。
「やっぱり頭良いな、奏多は」
こっちの気も知らずに玲司が言う。目線からするに順位表で僕の名前を見たのだろう。だけど、そんなお世辞は要らない。だって、いつも彼の名前はその僕よりも上にあるのだから――て、え? 無い? 視線を自分の名前を基点に逆方向へと滑らせる。
それでも『笠原玲司』の名前は見つからなかった。
「玲司、おまえ……」
「だからさっき言っただろ。やっぱり奏多は頭良いんだなって」
な? と自嘲混じりにも聞こえる口調で、これまで何一つ僕に負けた事の無かった友人は薄い笑みを浮かべた。
話がある――と言う玲司の要望で、校舎の中の人影の見当たらない位置にまで移動した。今日からクラブ活動が再開されるので、時間は良いのかと聞いたが、バスケ部に限っては顧問の先生の都合により今日まで休みらしい。
「その代わり、明日から年末までぶっ続けになるけどな」
「……バスケは中学でやめておいて、本当に良かったと思うよ僕は」
「そうか? うちの部なら奏多も一年でレギュラーとれたかもしれないぞ」
そう言う玲司は三年生が引退して以降、二年の先輩方を差し置いて早速レギュラーの座を掴みつつあるらしい。
「まさか」
「マジだよ。大体、中学時代だって俺とおまえの差なんて身長差位だっただろ?」
「その身長差が決定的だったんだがな」
エースとベンチの。
「だから今の奏多の丈なら、うちくらいのレベルなら……」
「玲司」
「……なんだよ」
「何を今更な話をしてんだよ。そんな事を話す為に呼び止めたんじゃないだろ」
玲司の話は『もしも僕がバスケを続けていれば』の話だ。そんな仮定の話に意味はない。第一、僕には毎日部活漬けの日々をこいつみたいに嬉しく思えない。
「俺は奏多と高校でもバスケやりたかったんだがな」
「悪いが僕はそこまで部活に熱心にはなれないと思う」
「その割には昔は――――て、その話はもう良いんだったな」
「ああ」
玲司の表情から昔を懐かしんで楽しんでる様相が消えて、真顔になった。こっちも身を引き締める。
「奏多」
「何だよ」
「俺、夕子に振られたわ」
「……そうか」
聞いた途端、頭の中が揺れた感じがした。多分、僕はこの展開を無意識の内に否定して考えないようにはしていただけで、ある程度の予想はしていたのだと自覚する。それでも実際に聞かされると心臓に響いた。
「この間の件が原因か?」
と感情を押し殺した声音で聞く。
玲司はこっちを向かず窓の方へ顔を向けたまま答えた。
「まあ、最後の一押しにはなったんだろうな」
他人事の様に言うなよ、おい。
「……なんであの時追いかけなかったのか聞いて良いか」
「言っただろ。俺が行っても揉めるだけだって」
「そんなの、わかんないだろ」
「結果は同じだった。断言してもいい」
「っ……!」
だから、何でそんなに落ち着いてんだよお前は。
カァッとなっている事を自覚しながらも抑えきれなくなりつつあった。
「奏多、少し落ち着け」
「……僕は落ち着いてる」
「お前は表情にすぐでるから、隠しても無駄だ」
「……っ!」
「だから、そんなに怒るなって。別れてからもう数日経ってんた。少しくらい心の整理もつくさ」
思い余って詰め寄ろうとした僕を制する様に玲司が口を開く。そこで新たな疑問が生まれ、結果的に僕の頭は少し冷めた。
「数日って、その、いつ別れたんだ?」
「期末テストの前日だったかな」
「それってお前……じゃあ」
さっき順位表に玲司の名前がなかったのって……。
「それは違う。試験結果とは関係ない」
僕の思考を先読みしたかの様に玲司は答えた。
さらに続ける。
「諦めたんだよ俺は」
「……どういう意味だ?」
「勉強、部活、友達に彼女。全部上手くやるなんて無理だったって事さ。中学の頃はメチャクチャ陰で努力してりゃあ何とかなったけどな」
「メチャクチャっておまえ、そんな事なかっただろ」
いつも余裕で。何でも最小限の努力で。それでいて全て僕を上回ってたんじゃなかったのか。
「格好つけてたんだよ。影では下手すると奏多よりもずっと努力してたかもな」
「……なんで、そんな事を」
「夕子に好かれたかったからだよ」
「そんな事しなくても、元々夕子は玲司に気があっただろ」
中学一年の時だ。僕と玲司が話しているところへ夕子が現れ、そして彼女が今までに見た事のない表情をした瞬間を僕は隣で見ていた。そして、それからずっと、彼女は玲司の事を同じ瞳で見ていた。玲司が他の女の子と付き合っている時だって、ずっと僕と三人で友達としてつきあい、耐えながら想っていた。
「――それ、中学の時までの話だから」
玲司は場に不自然とも言えるスッキリとした表情になっていた。
「奏多だって気づいてなかった訳じゃないだろ。春から夏までの期間、あいつが俺とお前の間で揺れていた事は」
「それは……」
言葉に詰まる。確かに僕はそう感じていた。今までと違って、ひょっとしたら僕にもチャンスがあるんじゃないか、そう思った事が何度かあった。だからこそ、彼女が玲司とやっぱり付き合いはじめた時に、より「ああ、やっぱり僕じゃダメだったのか」と余計にショックを受ける事になってしまったのだけど。
「だから俺は焦って先手を打つ事にしたんだよ。あいつの気持ちが奏多の方に戻ってしまわない内に。今、告白したらまだ俺に分があると知ってたから抜け駆けしたんだ」
抜け駆け。玲司がそう表現したのは、こいつが夕子に告白した時が夏休みで、僕が予備校の夏期合宿に参加して不在だった間だったからだろう。だけどその後にも告げた様に僕自身は別に抜け駆けだなんて思ってない。元々二人は両思いだと知っていたから。むしろ僕が二人の邪魔をしていたんじゃないかと怖くなったくらいで。
――だけど、今聞きたいのはそんなことじゃなくて。
「玲司、夕子の気持ちが『戻って』とは、どういうことだ?」
彼女はずっと玲司の事が好きだった筈。
首をすくめ、躊躇うかの様な表情を見せた後で、玲司は僕の疑問に答えを出した。
「あいつは元々、奏多――お前のことが好きだったんだよ」
「――え?」
途端、ドクンと自分の心臓が跳ねたのがわかった。
「本人に確かめた訳じゃないけどさ、初めて俺が夕子と会った時、既にあいつはお前の事が好きだったと思う。――本人自体ぼんやりとしか気づいてなかったみたいだけどな」
「いや、待て待て待て。それは無いだろ」
頭の中では真っ白になりつつも高速回転という壊れそうな現象が起こっていた。
「夕子は自分で玲司の事『好きになったかもしれない』って言ったんだぞ」
だから僕は自分の気持ちを押し殺して、二人が一緒に居れる機会を増やしたんだ。
「あれは多分、別の気持ちを錯覚していたんだろう」
「そんな事ない。あいつは玲司が他の子と付き合ってる時はいつも辛そうだった。だけど、それでもやっぱり気持ちは変えられないんだって」
だから、そんな彼女を見るのが辛くて。僕はいつも自分を偽りながら応援してた。彼女に笑っていて欲しかったから。
「それこそ、誤解の証拠だ。考えてもみろ。あの夕子が自分に気がある振りをしながら、他の女と付き合う様な男を好きで居続けれると思うか?」
「それは……それだけ玲司の事が好きだったんだろ?」
「俺もそう思いたかった、思っていたかったよ」
玲司ばそこで嘆く様な溜息を吐き、一呼吸置いてから続けた。
「だけど違った。――覚えてるか奏多。お前、一度だけ暫く夕子に口を聞いてもらえなかった時期があったろ?」
「……ああ」
中三の時、文化祭の実行委員がキッカケで僕が安条香澄と話す機会が増えた頃だ。夕子は当時評判の悪かった安条と僕が友達になるのを好ましく思ってなかった。
「あの時の夕子、凄かったぞ。俺の話なんて聞いちゃくれなかった」
「そう……なのか?」
「ああ。結局、お前にその気が無いのがわかって、文化祭が終わってから安条と話す機会も減って、漸く収まった感じだったな。そこは奏多だって知ってるとおり、だろ」
「……それは」
確かにそうだったけど。でもそれがそういう意味だとは思わないじゃないか。
「夕子は……潔癖症っぽいところがあるから、色々と噂のあった安条の事を嫌っていただけだと」
「潔癖症ね……。まあその点に関しては、ある意味当たってるかもしれないな。――何せ、結局指一本触れさせてくれなかったんだもんな」
「――は?」
いきなり何を言い出すのかと思った。理解できない。何でいきなりそんな話になるのか。
玲司は僕の疑問に答えるかの様に話す。
「夕子は俺にキスすら許してくれなかった」
「――っ??」
「いつも『今はそんな気分じゃないから』とか『まだ心の準備が』とか理由をつけて拒んできた。――一度、強引に迫ってみたら大喧嘩になってデートの途中で逃げ出されたよ。ほら、お前の仲介で仲直りのデートをした日の事だ」
聴きながら思い出す。ああ、あの日の事か。僕はが澪と知りあい、付き合う事になって、別れた直後に一人で駅の改札口から出てきた夕子と出会した時。彼女が玲司と付き合うのが無理かもしれないと零したあの日。
「奏多の言う通り『潔癖症』なアイツの事だ。他の何人もの女と色々と体験済みな俺となんて生理的に無理だったんだろう。――特に本当に恋してる男じゃないなら尚更な」
「……」
「それでアイツも漸く確信したんだと思う。自分が本当はどういう男が好きなのか。もっとも俺にはそのだいぶ前から、気づきはじめてた様に見えていたがな」
「玲司……」
名前しか呼べなかった。それ以外思いつかなかった。頭の中はたぶん、情報過多とショックで停止していた。
玲司は朝とは違って完全に鉛色だけになった空を見上げた。
「それで俺も漸く決意できたよ。正直限界だったんだ。スポーツも勉強も難なく得意で、誰にも人気があって、モテモテでスマートな奴なんてのを演じるの。だけど、そんな自分を続けてたら、夕子も単に揺れてるだけじゃなくて本当にこっちへ心を向けてくれるかと思ったんだよ。だから……おまえにも内緒でさ、実は陰でメチャクチャ努力してたんだぜ」
だけど、と自虐と諦念さのこもる言葉の後に、玲司はスッキリとした表情になって思った。
「だけど、そんなのいつまでも続けられるわけがない。だから、やめにした。バスケと友達と遊ぶ事を優先する事にした。そしたら案の定、すぐに壊れた」
「……夕子の事はもう良いのか?」
「ああ。元々片思いだったところを無理矢理横恋慕して……ってところだ。これ以上どうしようもないだろ――だから奏多」
「……何だよ」
いきなりこっちを向いた玲司に押され気味になりつつ反応すると、すっと頭を下げられた。
「抜け駆けして悪かった。すまん。お前が夕子の事を好きなの、最初からわかってたのに……本当にすまん」
その言葉に、およそ普段の彼からは想像もつかない様な言葉に。動揺していた心の上に更に動揺が上乗せされて、頭の中が真っ白になった。
やがて漸く頭に浮かんだ言葉は。
――そんなの、今になって何だよ。
――今更、何言ってんだよ。
憤りみたいなものが生じて、ぶつけたくなった。
でも、それこそ、もう今更だ。
目の前で萎れた様になっている友人を前に、瞬時に湧き上がったものは、次の瞬間にはもう消え失せていた。
――それこそ、本当に今更だ。
だから、その後に声にでた僕の言葉はきっと本心に近いものだったんだと思う。
「そんなの……もう良いよ」
「奏多……」
「全て済んだことだし。それに玲司も知ってる事だけど、今の僕にはもう澪っていう恋人がいる。……だから、もう良いよ」
そう。僕にはもう別に恋愛する相手がいる。
胸の中に燻り続けていたものは、もう必要ない。
「カノジョか……」
ややあってから玲司が思い返す様に言った。
「お前のカノジョ、良い子だな」
「ん? あの日、あれから澪と何か喋ったのか?」
「いや、何も。お前が夕子の後を追いかけて行った後、すぐに安条とその子はすぐにどっか行っちまったからな。だが、あのちょっとの間だけのお前とのやりとりでもわかるものはわかるさ」
「そっか……」
この場に相応しくない。少しこそばゆい感じがした。やはりカノジョを褒められるのは嬉しいものなのだろうか。
「なあ奏多。おまえ、あの子の事を本当に好きになったのか?」
「何を急に……どういう意味だ」
意図がわからず、聞く返す。
玲司は少し言いづらそうにしながらも、僕にそれを問いかけた。
「俺が言うのも何だが……その、夕子の事はもう良いのかって」
「それは……」
言いかけた僕の声に、玲司が上から被せる。
「夕子はフリーになった。それも自分の意思で。今、アイツの心にいるのが誰か、流石にわかるだろ」
――カナ君は追いかけきてくれた。玲司君は追いかけて来てくれなかった。それが全てじゃないかな。
夕子の言葉を思い出す。あれは……。
「……」
言葉にしようとしても、声が出てこない。
誤魔化すように空を見上げると、ポツリと水の粒が一つ、頬を濡らした。
午後から降り始めた雨は本降りにはならず、止みはしたものの、いつ再び降り始めてもおかしくない様相のまま、日没の時間を迎えた。現在午後六時を回ったところ。
「……」
帰宅した僕は自分の部屋でボーッと仰向けに寝転がっていた。何をする気にもなれず、ただボーッと。一体なんなのだろうか僕は。
――今、アイツの心の中にいるのがだれか。
玲司のあの言葉に対して、何故声を出せなかったのだろう。いや、その理由はわかっている。動揺していたからだ。困惑していたからだ。玲司と夕子の仲については、いつも気にかけていたからショックを受けたからだ。
だけど、あれからもう数時間経過している。
いくらなんでも他人事でそこまで引き摺るのは、おかしいだろう。
「……澪、何してるかな」
暗い気分を立て直すべく、カノジョの事を考える。澪の学校にはウチの学校にはない試験休みなるものがあるらしく、彼女とはここ二日ほど顔をあわせてない。
連絡してみようかと、携帯電話に手を伸ばした。
――と。音が鳴った。
操作しようとした矢先に、どうやらメッセージが届いたらしい。結果的に即座に読む事になってしまった。
その、文言の差出人の名前を見て言葉に詰まる。
「え?」
ディスプレイには『小牧夕子』と表示されていた。
『ちょっと良い?』
……全く、なんてタイミングなんだ。今はなんとなく夕子とは関わりたくなかった。思わず天井を仰ぐ。だけど読んでしまったからには返さない訳にはいかない。
『何?』
とだけ返す。部屋の明かりがついている事から、僕が在宅である事は、斜め向かいの家に住む彼女は確認済みなのだろうから居留守は効かないだろう。
案の定、夕子からは僕が家に居ることを前提にした文章が返ってきた。
『今からそっちに行くね』
いや、駄目だろ。この家には今、僕しかいないし。悪いけど――と断ろうとしたところで、追伸が送られてきた。
『お母さんが肉じゃが作り過ぎちゃったから、カナ君に持っていってあげてって』
「……」
断るに断れない内容だった。
『了解』
仕方なくそう返す。
『じゃあ、準備が出来たら行くね』
という夕子の返事をみて思わず天井を仰いだ。
夕子の家には昔から世話になっている。僕の両親は揃って仕事で家にいない時間が多く、小さい頃はよく小牧家で食事をご馳走になっていた。今では流石にそういう事はなくなったけれど、それでも何かとお世話になるケースは多々ある。今回みたいに食事のおかずをお裾分けしにきてくれる事も、割と頻繁に有ったりする。
それを現在の一時的な感情の乱れだけで今までに受けてきた好意を無下に拒絶する事は、僕には出来ない。
……それにしても、夕子が来るのか。
確かに以前は夕子がよく来てくれたけれど、彼女が玲司と付き合い始めてからは、彼女の妹にその役割が変わっていた。玲司に気を遣っての事だろうと推測はできたし、僕としても寂しさはあれど、概ねはその方が気楽で良かったんだけど。
玲司と別れたら、そういう所も元に戻るのか……。
「はぁ」
何とも言えない複雑な気分。思わず大きな溜息をついてしまった。
――と、そこでインターフォンの音が鳴った。夕子の姿を確認し、一言応答してから玄関へ。扉を開けると傘を差した彼女が、大きめの紙袋をもう片方の手に持って立っていた。どうやら今頃になって雨が本降りになってきたらしい。
「こんばんわ」
「あ、うん……」
久しぶりだからか少し照れの混じった表情で挨拶をしてきた夕子に、僕はどうしてか「いらっしゃい」とは言えなくて適当な相槌を打ってしまった。
「……とりあえず、入って」
雨の中、屋根のない玄関先でやりとりをする訳には行かず、とりあえず家の中へ招き入れる。
「うん」
と言って傘を畳み玄関へと足を踏み入れる彼女の姿に懐かしさを感じ、何か胸の奥からこみあげてくるものがあった。
今年の夏の前まで、彼女はよくこんな感じで家に来ていて、その度に僕は内心ドキドキしていたんだよな。
――て、そんな事を思い出してる場合じゃなかった。
「雨の中をごめん、タオルかなんかいる?」
「ううん大丈夫。道路を斜め向かいに横切っただけだし」
「そっか。……じゃあ、それいただくよ」
夕子が濡れない様にビニールを被せて持って来てくれた紙袋を受け取ろうとする。
だけど、夕子はすっとその袋を自分の後ろに隠した。
「……夕子?」
「ね、上がってもいいかな?」
「――え」
上がる……つまり、玄関より中へ入ってもいいかと?
戸惑う僕を見透かした様に夕子が言う。
「台所貸して。お味噌汁とかも持ってきたし、あっため直して食器に移し替えてあげるよ」
「――なっ」
「あ,そうそう。ご飯ってもう炊けてる? まだならそれもしないとね」
「ゆ、夕子?」
「ん、カナ君どうかした?」
いや、どうもこうもないだろう。いきなり何を……て訳でもないけど、何て言ったらいいのか。
迷っていると、夕子は僕の返答を待たずに行動を開始しようとし始めた。
「? ……ま、いいや。それじゃ、お邪魔させて貰うね」
と言い切って、靴を脱ぎかけたところで、やっと僕は止めに入れた。
「ちょ,ちょっと待って夕子」
「どうしたの?」
あ、駄目だ。顔見てたら上手く喋れそうない。仕方なく顔を逸らして続きを口にする。
「……そこまでしてもらうのは悪いよ」
「え?」
「後は自分でやるから大丈夫。容器も洗って後日返しに行くし」
「え、どうして?」
夕子の声のトーンが少し変わる。
「昔からずっとそうしてきたのに、何でいきなりそんな事言うの?」
確かにそうだ。彼女の言う通り、以前は毎回持ってきたものをウチの食器に移し替えて温め直したり、後片付けまでしてくれたりしていた。時には彼女自身もここで一緒に夕食を取ったことさえある。
だけど、それも全部この夏の前までの話で。
「いきなりじゃないよ。聞いてない? 自分でやる様になったんだ」
とりあえず、言い易い理由で説明する。
「でも、それは相手が変わったからでしょ」
「それは――まあ、そう、なんだけど」
夕子と違って彼女の妹は割と何でも面倒くさがる傾向にある。昔も三人でお遣いを頼まれたのに、結局僕と夕子の二人で行く事も多々あった。
「だから、ね? 今日はわたしが来たんだし、これまでどおりにさせて? わたし、そういう事するの好きだし」
「……夕子」
反論の言葉が見つからなくなって黙ってしまった。という事は別に言葉に甘えてしまっても良いのか。
「それじゃ、改めてお邪魔します」
無言を肯定と受け取ったのか、夕子は脱ぎかけていた靴を脱いでしまって、玄関にしかれたマットの上に足を運ぼうとした。
僕はその彼女の腕を掴んだ。
「カナ君?」
驚いた形相で夕子がこっちを向いた。何で? と言わんばかりに。
「やっぱり、君にそういう事をしてもらうわけにはいかないよ」
「どうして?」
「……澪が、僕のカノジョがその事を知ったら、良い気がしないと思うんだ」
実のところ、それが一番『らしい』答えとして頭に浮かんだだけで、本当にそう思って夕子を止めたのか確信がある訳じゃない。何かが決定的になってしまう気がして、それを恐れての咄嗟の行動だった気もする。
つまりは、わからない。
わからないけど、衝動的に夕子を止めてしまった。
「――そう」
夕子が力なく俯く。ショックを受けているのは目に見てとれた。今度は彼女のその様子にズキンと胸が痛む。全く矛盾している。どうなっているんだ僕の頭の中は。
「うん、わかった」
ややあってから、夕子は気を取り直した様に口を開いた。
「確かにカノジョさんの事を考えたら、わたしがカナ君の家に上がり込んだりしちゃ駄目だよね」
「ごめん」
「ううん、カナ君は悪くないよ。どうかしてたのはわたしの方。自分だって似た様な経験あるのに、どうして思いつかなかったんだろう。本当にわたしって馬鹿。嫌んなっちゃう」
言いながら夕子の浮かべる笑みは、明らかに無理して作られたものだった。また、胸の奥が疼く。なのに何故かホッとしている自分もいて。
自己嫌悪に駆られる僕に、夕子は紙袋を差し出してきた。
「それじゃあ、これ」
「ありがとう。おばさんにも伝えておいて」
「うん」
受け取ると、夕子は背中を向けた。扉を開く。
さっき、ポツリポツリだった筈の雨が、この短時間の間に土砂降りに変わっていた。
「これは……」
「あはは……」
夕子が苦笑いを浮かべる。目と鼻の先ほどの距離でも、ずぶ濡れになってしまいそうだ。
「傘、持っていきなよ」
閉まってあった、ちょっと大きめの傘を差し出す。夕子には大き過ぎるかもしれないけど、ちょっとの距離だし、この降り方だとこれくらいの方がむしろ都合がいいだろう。
「ありがと」
受け取ろうとする夕子の手が、微かに僕に触れた。柔らかい、華奢な、子供の様な手が冷たくなっていた。
――少し、小降りになるまでウチで待つ? あったかい飲み物でも用意するよ。
思わずそんな言葉が出掛かり、ぐっと堪える。何考えてるんだ僕は。今さっき彼女に「ウチに上がらないでほしい」と告げたばかりじゃないか。
ダメだ、やはり今の僕はどうかしている。
そんな茹った頭を冷ます様に、半開き状態になっていたドアの隙間から、冷たい雨水が差し込んできて、肌に当たった。
「早く帰ったほうがいいよ、傘をさす前に濡れてしまう」
慌てて夕子の手に渡った傘から手を離し、夕子と距離をとる。彼女にさっさと帰る事を促す。僕の為に来てくれたとかそんなとこまで気を回す余裕はなかった。でも、それでいい。それでいいんだ。
――だけど、夕子は逆の行動をとった。
ガチャリ、と音がして外から何も入ってこなくなった。
そして、夕子はまだ中に立っていた。
「カナ君」
顔を俯けて小さく声を発した。
「な、に……?」
「今日の放課後、玲司君と喋ってたよね?」
「……うん」
「わたしたちの事、聞いた?」
「…………うん」
「玲司君、なんて言ってた?」
「……別に、ただ愛想を尽かされたって聞いただけ」
詳しくは言いたくなかった。というか言える筈もなかった。
「――――――――そっか」
「夕子?」
何だ、今の間は。
「ねえ、この間の電車が止まった時の事なんだけど……カナ君は覚えてる?」
「え? あ、うん……」
唐突な話題。夕子の意図がわからずに一瞬、答えるのが遅れた。僕と澪と安条、それに玲司と菅木さんが一緒に居合わせたところへ、夕子が現れた時の事だ。
夕子が俯いていた顔をあげて、僕を真っ直ぐに見る。
「あの時ね、わたしは玲司君が他の女の子と居たことよりも、カナ君に嘘をつかれたことの方にショックを受けたの」
「っ??」
「そして、その後にカナ君がわたしを追いかけて来てくれた時に凄くホッとしたの」
夕子、それは……。
僕の心の中を読んだかのように、夕子は頷いた。
「うん。つまり、そういうことだよ」
「……っ」
「じゃあ、傘借りてくね」
夕子は最後にそう付け加えると、ドアを再び開き、玄関から去っていった。
「……」
屋根や地面を打ち付ける雨の音が、さっきまでよりも大きくなっているように感じた。




