第2話 吟遊詩人と幸せのかたち PASSGE:1
旅というのは、未知の出来事や出会いの連続だ。
「かわいい子には旅をさせよ」なんて言葉があるように、旅は人を成長させる。
そして旅は、間違いなく楽しい。
これは吟遊詩人として旅をしてきた私が、身をもって感じていることだ。
だからこそ、できることなら誰にでも一度は経験してみてほしい。
けれど、毎日が新しく、刺激に満ちているということは、いつも楽しいことばかりではない。
旅の途中で、戦の爪痕が残る土地や、人の死に触れることもある。
これまで目を向けてこなかったもの。
目を背けてきたものが、容赦なく目の前に現れることもある。
旅は素晴らしい。
それでも、そうした現実を前にして、心がすり減ってしまうことだってある。
──今の私は、まさにその真っ只中にいた。
工業都市ディペラ。
高い城壁に囲まれたこの街は、武器の製造で栄えている。
あちこちの工場が、絶え間なく灰色の煙を吐き出していた。
そのせいか、街全体が薄い霧のようなもやに包まれている。
正直、私はこの街にいい印象を持っていなかった。
つい先日、争いのあった土地を訪れたばかりだったからだ。
焼け落ちた家々や、踏み荒らされた畑。
人々の生活が、無惨に壊されていたあの風景が、まだ頭から離れない。
そんな経験をしたあとでは、武器の製造と売買を主な収入源とするこの街に、素直に好感を持つことはできなかった。
本当は、できることなら避けて通りたかった気持ちもあった。
でも、この街は次の目的地へ向かうには通らざるを得ない場所だった。
夕暮れの朱が夜の闇に溶けはじめる頃、私はこの街に足を踏み入れた。
霧と闇が混じり合い、不気味な雰囲気が街を包んでいる。
そのせいか自然と、足が速まる。
「……早く、今夜泊まる宿を見つけないと」
そうつぶやきながら、辺りを見回す。
街はよく整備されていて、石畳の道が真っすぐに続いていた。等間隔に立つ街灯が、霧の中でぼんやりと光を放っている。
整った道と、磨かれた建物の壁面。
この街が経済的に潤っていることは、見てすぐにわかった。
けれど、それが戦争の道具で得た富だと思うと、胸の奥が少しもやっとする。
そんなときだった。
ふと、通りの先からにぎやかな笑い声と、香ばしい料理の匂いが流れてきた。
私は足を止める。
一軒の酒場の前だった。
活気のある声、立ち上る煙、美味しそうな匂い――。
どうやら、地元の人たちでにぎわっている大衆酒場のようだ。
私自身、田舎にある、地元の人たちの社交場となっている。パブが好きだ。
だけど、こういった栄えた街ではないことも多い。
どうしようか、と迷っていたら――
ぐぅ、とお腹が主張してきた。
「……ここにしよう」
私は、おいしそうな匂いに釣られて、主張し始めたお腹の意見をそのまま受け入れる。ここで宿屋の場所を聞けばいいよね。
そう思いながら、少し古びている木製の扉を開く。
酒場の中は、熱気に包まれていた。木製の床には油と土が染みつき、どの席も作業着姿の人々で埋まっている。
工場仕事を終えたばかりの人たちなのだろうか。テーブルのあちこちで酒を片手に笑い声が弾けていた。
「いらっしゃーい!」
よく通る、明るい女性の声が店内に響いた。
私はその声に引かれるように、カウンターのほうへ視線を向ける。
そこには、ビールを注ぎながら笑顔をこちらに向けている女性の姿があった。
「あら、かわいいお客さん。こっちこっち、カウンターにおいで。ここは仕事終わりの野郎どもが多いからね。かわいいお客さんは危ないから、私の近くにおいで」
彼女の軽口に、「ひでえ言い方だな」と笑いながらヤジを飛ばす客たち。
誰もが酒場の空気を楽しんでいるようだった。
私は言われたとおり、カウンター席に腰を下ろす。
さっきの女性が手際よくビールを注ぎながら、今度はカウンター越しにこちらへやってくる。
女性の後ろでひとつに束ねた黒髪が艶やかに揺れている。
「女の子がひとりで、こんなとこに来るなんて珍しいね。……見た感じ、旅人さんかな?」
「はい。あの、ちょっとお伺いしたいことがあって……。あ、でもその前に、ビールを一杯いただけますか?」
「もちろん。ちょっと待っててね。先にこのビールを他の席に持っていっちゃうから」
女性が他の席へビールを運んでいるあいだ、私は、もう一度店内を見渡してみた。
酒場では工場の勤務を終えた人たちが労働の後の一杯を大いに楽しんでいる。そんな楽しそうな光景につい唇をほころばせる。
「お待たせ、はい、どうぞ」
先ほどの女性が、ビールの入ったグラスを私の前にことりと置く。
「ごめんね、むさ苦しい男どもばっかで。こんな場所に女の子が来るなんて珍しいからね、言い寄ってくるやつもいるかもしれないから気をつけてね」
「ふふ、大丈夫ですよ」
私は笑いながら、グラスを手に取り、一口ビールを含む。
……ふぅ。
街に来てから張り詰めていた、気持ちが少しずつほぐれていく。
気が緩んだせいだろうか。私の顔がよほどゆるんでいたのか、女性がくすっと笑った。
「ふふ、おいしそうに飲むね。で、何か聞きたいことがあるんだったっけ?」
「あ、はい。実は、ついさっきこの街に着いたばかりで、泊まる場所を探していて……。どこかいいところがあれば、教えてもらえないかと思いまして」
「あ、はい。実は今街についたばかりで、今日泊まるところを探しているんです。どこかいいところがあれば教えてもらえないかと思いまして」
「うーん、ちょっと古いけど、友達がやってる宿なら紹介できるよ」
「本当ですか? ありがとうございます」
「うん。見た目は少しボロいけど、料金は良心的だから安心して。
もし急ぎじゃなければ、このあと私が案内してあげる。
それまでゆっくりしていって」
「はい。助かります」
今夜の宿が決まったことで、私はほっと息をついた。
「ねぇ、それよりさ……」
女性が興味の色を瞳に宿して言葉を続ける。
「それ、楽器かなにか?」
女性は隣にかけ立てていたイヴのギターケースに視線を向ける。
「はい。ギターが入ってます。私、吟遊詩人なので」
「へぇ〜、吟遊詩人かぁ。演奏? それとも歌がメインなのかな? ごめんね、あんまり吟遊詩人がどんなものかわかってなくて」
「ふふ、わかりづらいですよね。どちらもやりますよ。けど私の場合は歌がメインですね」
私は少し苦笑いを浮かべる。
吟遊詩人として旅をしていると、よくこの手の質問はよくされる。
旅をしていて音楽や歌、詩を口ずさむ人。それが概ねの吟遊詩人のイメージだろう。
言葉にしてみれば、
吟 = 詩を歌うこと
遊 = 旅をすること
詩人= 詩を作る人
なので、旅をしながら詩を作って歌う人というのが本来の姿なのだろうか。
だけど吟遊詩人というのはいろんな種類がある。
私のような旅をして音楽を奏でるものいれば、宮廷に召し抱えられて音楽を奏でるものもいる。
楽器ではなく詩を歌うことをメインにしている人もいれば、過去の伝承や、現在の事件や出来事などを詩や歌にして伝えるものだったいる。
吟遊詩人とは何か、と聞かれたら正直、一言で答えられないだろう。
「吟遊詩人さんの歌聴いてみたいな」
女性がぽつりとつぶやく。
「……今ここでお願いしたら、迷惑かな? あ、やっぱりお金とか必要よね」
と、苦い表情を浮かべる。
「いえ、大丈夫ですよ」
私がそう言うと、彼女は顔をぱーっと明るくする。
誰かが歌を歌うとき。
パブであれば、自然と会話が止まり、歌い手に耳を傾ける空気が生まれる。
けれど、こういう大衆酒場ではそうはいかない。
私がギターをケースから取り出し、チューニングを始めても、笑い声と話し声は止む気配はない。
「あー、なんかごめんね。こんなとこじゃ、やっぱり歌いにくいよね」
申し訳なさそうな表情を見せる女性に、私は首を横に振り微笑む。
さて、と。私は店内をあらためて見渡す。
今、この場で私に注目しているのは、カウンターの女性とお店のマスター、あとは同じくカウンター席に座っている数人だけ。
この喧騒の中、どれだけ私の音楽で皆を惹きつけられるだろうか。そう考えると楽しく、そして少し緊張もする。
こういう場だから、明るい歌だろうか、いや、ここはあえて……そんなことを考えて頭の中をぐるぐるさせる。こういうところは、私はまだまだ未熟なんだろうなと思う。
そして私は歌う歌を決める。
そしてまずは──
ギターの六本の弦をダウンストロークで思いっきり響かす。
喧騒を切り裂くギターの音色に、各々お酒を片手に談笑していた人たちの視線がこちらに向く。
無理矢理に静寂と注目を作り出す。
そして私はギターつまびく。
さきほどと一変して優しい音色で。
私がここで選択したのは、とある村の女の子が、『やさしい歌』と言ってくれた歌。昔、お母さんが私によく歌ってくれた歌でもある。
遠い北の大地。母の故郷に伝わる子守唄。
穏やかなメロディに、優しさにあふれた詩。
子ども頃から好きだったこの歌だ。
だからこの歌を歌うときは、いつも願いを込める。
昔の自分のように、誰かの心が少しでもやわらかくなりますように。
泣いていた顔が、笑顔に変わりますように。
この歌を聴いている間は、みんな幸せでいられますように。
そんな願いを込めて、一音一音ていねいに、私はこの歌を歌う。
歌を歌い終わり、私はぺこりと頭を下げる。
酒場の中に、あたたかな拍手と、笑顔が広がっていた。
居酒屋の中が笑顔と拍手に溢れる。
――やった。うまくいった!
心の中で、私は小さくガッツポーズをするのだった。