第1話 吟遊詩人と外の世界に憧れる少女 PASSGE:8
──カランカラン。
パブの扉を開けると、カウベルの音が店内に響き渡る。
わたしが足を踏み入れた、その瞬間、ざわついていたパブの空気がすっと静まり返えり、パブの常連さんたちの視線が一斉に、わたしに向けられた。
「イリア」
そして正面のカウンターにはお父さんの姿があった。
わたしの名前を呼ぶお父さんその顔には、いくかの感情が浮かんでいた。
安心したような、心配しているような、複雑な思いが重なった表情。
お父さんを見据えて、わたしは一度、大きく深呼吸をする。そして横に立つおねえさんの方へ顔を向けた。
おねえさんはやさしく微笑み、静かに頷く。
「みなさん。今からイリアちゃんが歌を歌います」
おねえさんの澄んだ声が、パブの空間に凛と響く。
誰かが歌を歌うとき。
パブは静寂に包まれる。
わたしがずっと好きだった、あの静寂――
その中心に、今、自分がいる。
それがとても不思議で、夢みたいだ。
そして怖くもあった。
足ががくがくと震えて、口の中はカラカラ。
胸の奥で鳴っている鼓動の音が、自分の耳にもはっきりと聞こえる。
「大丈夫?」
おねえさんが、心配そうにわたしの顔を覗き込みながら尋ねてくれる。
「は、はい……足はがくがくしてるし、心臓もバクバクで……正直やばいですけど……」
心配そうに聞いてきた吟遊詩人のおねえさんに、わたしは精一杯の笑顔を向けて、
「でも、歌います……!」
そう伝えた。
おねえさんは頷いて、やさしく微笑む。
「じゃあ、始めようか。安心して。私も一緒にいるからね」
「はい」
おねえさんはわたしの隣に椅子を引き寄せ、腰を下ろすと、静かにギターを構えた。
まずは澄み切ったギターの音色がパブの空気を震わせる。わたしの胸にも、その音がすっと染み込んでいく。
そして――わたしは歌い始めた。
おねえさんが紡いでくれた、わたしだけの歌を。
けっして上手くはない、未熟なわたしの歌。
けれど、この声にできるすべてを込めた。
歌声に届けたい想いを込めて、精一杯伝える。
その思いがしっかりと届くように。
いままで直接伝えることができなかった言葉たち。
ずっと胸の奥でくすぶっていた気持ち。
そんないくつもの気持ちを、今わたしは歌に乗せている、
ほんとうだ、歌にすれば伝えられるんだ。
外の世界に憧れていたこと。
お母さんとの約束のこと。
それでも、どれだけお父さんが好きだったかということ。
歌いながら、胸の奥が熱くなり、心臓が激しく暴れていた。
顔もきっと真っ赤になっている。
なのに――
この時間が、ずっと続けばいいと思った。
やがて歌が終わると、パブの中は再び静寂に包まれた。
わたしは息を切らしたまま、ゆっくりとカウンターへ歩いていく。
そして――お父さんの腰に、思いきり抱きついた。
「お父さん……ひどいこと言って、ごめんなさい……」
震える腕で、きゅっとお父さんを抱きしめ、ところどころ言葉が途切れそうになりながらも、なんとか言葉を紡いで伝える。
そんなわたしを、お父さんは大きな腕で優しく抱き返してくれる。
顔を上げると――お父さんの頬には、大粒の涙がぼたぼたと流れていた。顔をくしゃくしゃにして泣くお父さんを、わたしは初めて見た。
「……いままで、すまなかった。本当に」
お父さんはそう言って、そっと腕をほどくと、膝を折ってわたしと同じ目線に顔を合わせる。
「イリアがずっと我慢してたの、わかってた。何も言わないのをいいことに、父さん、逃げてたんだ」
少しの間、目を伏せたあと、お父さんは静かに問いかけてくる。
「イリア……どこに行きたい?」
「え……?」
「父さんと一緒に、村の外の世界を見に行こうか」
「ほんとに……でも、いいの? お母さんとの約束は……」
思わずそう聞き返すと、お父さんは少しだけ困ったように笑った。
「ああ。ここまでイリアが頑張ってくれたんだ。たとえ”あかり”が消えたとしても、母さんはきっと許してくれる」
お父さんのその言葉がうれしくて――
でも、同時に少しだけ不安にもなる。
望んでいた結果、だけど、ほんとうに、これでいいのだろうか。
自分たちがいなくなったら、パブの”あかり”は……?
「”あかり”は、きっと消えないですよ」
ふいに、おねえさんの澄んだ声が響いた。
わたしとお父さんは、同時におねえさんの方を振り向く。
「だって、もうこんなに、このパブには人がいるんだよ」
おねえさんはそう言いながら、常連さんたちの方をやさしく見渡した。
「うん、行って来なよ」
ぽつりと常連のひとりが声を上げた。
その一言がきっかけになって、
次々とパブのあちこちから声があがってくる。
「考えてみたら、お前もイリアちゃんも、ほとんど毎日パブ開けてたよな」
「そんで、いつも楽しませてもらってた」
「だな。それが当たり前になっちゃってたな」
「……行ってきなよ。イリアちゃんだって、ずっとパブを手伝ってたんだ。そりゃあ、外の世界も見たいよなあ」
吟遊詩人のおねえさんが、銀色の髪をふわりと揺らしながら、わたしとお父さんの元へゆっくりと歩いてくる。
「イリアちゃんと、そのお父さん、そしてお母さん――三人がずっと灯し続けてきた、このパブの”あかり”は、たとえ二人が少しの間、村を離れたって……もう消えたりはしないよ」
ここには、灯を守ってくれる人が、ちゃんとこんなにいるんだから。ね?」
おねえさんのその言葉に、常連さんたちがうなずく。
「ああ。二人がいない間も、いつもどおり騒いでるから安心しな」
「そうそう、まかせとけって!」
パブの中が、ぱっと明るく湧き立った。
その中で、おねえさんはそっとわたしの頭に手をのせてくれる。
「ね? 言ったでしょ。
お母さんとの約束は、もうちゃんと守れてるんだよ」
そう言って、おねえさんは――
いつものように、澄んであたたかな笑顔を見せてくれた。
あれから、わたしの生活は劇的に変わったわけじゃない。
でも、確かに少しずつ、あたらしい日々が始まっている。
結局、あの夜のすぐあと、吟遊詩人のおねえさんは予定通り、旅立っていった。
すごく寂しかった。けれど――
それ以上に、感謝の気持ちのほうがずっと大きかった。
あの後、お父さんは月に一度か二度、村の外の世界を見せに、わたしを連れ出してくれるようになった。
その間も、もちろんパブの”あかり”は消えていない。
みんなが毎晩、楽しそうに”あかり”をともし続けてくれている。
わたしたちがいないあいだの酒やおつまみは、
各自持ち寄りか、事前に先払いする形式にしたらしい。
……でもある日、お酒の減りが異様に早かったらしくて、
「今度きっちり金額請求してやるぞ!」って、お父さんが笑いながら言ってた。
数日間の小さな旅から帰ってきた夜――
暗い村のなかで、パブの”あかり”が、ぽうっと灯っているのを見たとき、
わたしの胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。
あの”あかり”をがんばって灯し続けていたんだって。
とても誇らしく思えた。
そう。
わたしたちのパブは、いつだって、この小さな村の真っ暗な夜を、やさしく照らし続けている。
わたしは今、歌と楽器の練習をしている。
フィドルやギターを、常連さんたちに少しずつ教わりながら、まだまだ拙いけれど、確かに音を奏でられるようになってきたところだ。
音楽は、「想いを伝える手段」――
おねえさんが、そう教えてくれたから。
だからわたしは、想いを綴り、音にのせて届けたい。
いつかまた、おねえさんがこのパブを訪れてくれたとき――
わたしの音で、わたしの言葉で、
めいっぱいの「ありがとう」と「ただいま」を伝えてあげたいから。
……そういえば、最初に「ぎんゆうしじんってなんですか?」って聞いたとき、おねえさんの答えは、ちょっとふわふわしていて、よくわからなかった。
でも今なら、ほんの少しだけ、わかる気がする。
楽しいっていう気持ち。
さみしいっていう気持ち。
誰かを大切に思う、あたたかい気持ち。
そういう想いを、音楽にのせて――
ちゃんと誰かに届けてくれるのが、吟遊詩人。
……なのかなって、思ってるんだけど。
どうかな、おねえさん。