吟遊詩人と外の世界に憧れる少女 PASSGE:7
目を覚ますと、そこには見知らぬ天井があった。
木枠の窓から差し込む朝の光が、まぶたをやさしく照らす。
「ん……」と小さく声を漏らしながら、わたしは上半身を起こし、大きく伸びをした。
――ここ、どこだっけ?
見慣れない風景に、思わずあたりを見回す。
ふと、隣から聞こえる穏やかな寝息に気づいて、そちらに視線を向けると、吟遊詩人のおねえさんが、同じベッドで眠っていた。
朝の日差しを受けて、銀色の髪が神秘的に輝いている。
けれど、その寝顔は見事にゆるみきっていて、神秘的な雰囲気のかけらもなかった。
「……すっごい幸せそうな寝顔」
吟遊詩人のおねえさんの寝顔を見て、昨日のことが一気に蘇ってくる。お父さんにぶつけてしまった言葉。おねえさんに語った、自分のこと。
自己嫌悪と恥ずかしさが同時に押し寄せてきて、思わず頭を抱えた。
「ゔゔぅぅぅぅ……」
声にならないうめきが、自然と漏れてしまう。
昨日のことは思い出せたけれど、今の状況はさっぱりわからない。とりあえず、わたしはそっとベッドを抜け出した。
ここって……おねえさんが泊まってるところなのかな?
う〜ん、どうしよう。
おねえさんは、まだ穏やかな寝息を立てている。勝手にここから出るわけにもいかないよね。やっぱり、おねえさんが起きるのを待つしかないのかな。
それとも、起こしちゃってもいいのかな……?
そう思って、わたしはそっとおねえさんの肩に手を添えてみる。
けれど、こんなに幸せそうな寝顔を見たら、さすがに起こすのは気が引けてしまい結局、そのまま静かに手を引っ込めて、もう少し待つことにした。
「……ん〜、もうちょっと。もうちょっとだけですよ、おねえさん」
……起きない。全然起きない。
あれからずいぶん時間がたった。
けれど相変わらず、気持ちよさそうな寝息を立てたまま眠り続けている。
陽はすっかり昇りきっていて、もうすぐお昼かもしれない。
寝顔を覗き込むと、ねえさんは、やっぱり幸せそうな顔をしていた。
……でも、今回はお構いなし。
「えいっ」とわたしはおねえさんの鼻をつまんだ。
おねえさんが、「ふがっ」と情けない声を漏らす。
人形みたいに整った顔をした人が、こんな間の抜けた声を出すなんて、思わず笑ってしまった。
「……ん……イリアちゃん……? ……ちょ、なにし……ちょ、く、苦し……っ」
「目、覚めましたか?」
わたしはおねえさんの鼻から、手を離す。
おねえさんは、つままれた鼻をさすりながら上半身を起こす。
「うぅ……ひどいよ……」
「だって、おねえさん、ぜんっぜん起きないんですもん。もうお昼近くですよ」
「あはは……ごめんごめん。寝すぎちゃったかな?」
「いつも、こんな時間まで寝てるんですか?」
「ん〜、まあ。だいたいこんな感じかな」
寝癖のついた髪をかきながら、苦笑いで答えるおねえさん。
「おねえさん、なかなかのダメ人間ですね」
「う……ひどい」
そんなふうに言い合ってから、わたしとおねえさんはクスクスと笑い合う。
しばらくして、おねえさんが穏やかな声でたずねてきた。
「どうかな? よく眠れた?」
「はい。おかげさまで」
「よし、じゃあ朝ごはんにしようか」
「……もうお昼ですけどね」
おねえさんは、パブの常連のおばさんの家に泊まらせてもらっていた。
そのおばさんは、毎晩フィドルやフルートを持ち込んで演奏してくれる、パブの古株さんだ。
吟遊詩人のおねえさんが初めてパブにやって来たときに意気投合して
「部屋なんていくらでも空いてるから」と言って、泊めてくれているらしい。
昨日いつの間にか寝てしまったわたしをここに、おねえさん連れてきてくれたらしい。
正直、ありがたかった。
たぶんあのまま家で目を覚ましていたら……とっても気まずかったと思う。
「よく眠れたかい、イリアちゃん? 事情は聞いたよ。とりあえず、うちで吟遊詩人さんと一緒に泊まってていいからね」
おばさんが、優しくそう言ってくれる。
ありがたかったけれど、喧嘩したことがもう知られているんだと思うと、なんだか恥ずかしくて、わたしは視線をそっと床に落とし、小さくお礼を言った。
朝食兼昼食は、おねえさんがパン屋で買ってきてくれたパンを、広場でのんびりと一緒に食べた。
「ん〜、今日もいい天気だ」
お昼のやわらかな日差しの中、おねえさんがのんきに体を伸ばしながら、そんなことを言う。太陽の光を浴びて、風に揺れる銀色の髪が今日もきれいだった。
──気持ちを伝えるって、どうすればいいんですか……?
昨日、目尻の涙を手の甲でぬぐいながら、わたしはおねえさんにそう尋ねた。
月明かりが差し込む、銀色の光に満ちた世界で――
おねえさんは、やさしく言った。
「イリアちゃんにぴったりな、とっておきの方法があるよ」
それはね──
「歌を歌おうか」
満面の笑みとともに放たれた、思いがけないひと言。
わたしは、思わず首をかしげてしまった。
「えっ、歌……ですか?」
「うん。お父さんに、イリアちゃんの気持ちを歌にして、仲直りしよう」
「え、えっ!? そんなの、急に言われても……! それに、なんで歌なんですか?」
戸惑うわたしに、語りかけるように、やさしく続けた。
「音楽ってね、“想いを伝える手段”なんだ。特に歌は、自分の気持ちを隠さず、正直に届けることができるの。普段はぐるぐる考えちゃって、口にできないことも歌にすれば、素直に伝えられる。
どう? 今のイリアちゃんには、ぴったりな方法じゃないかな?」
おねえさんは、にっこりと笑った。
音楽は、自分の気持ちを伝える手段。
実際におねえさんの歌を聴いたからこそ、その言葉には説得力があった。
だけど――
「あの、おねえさん……昨日のことなんですけど……やっぱり、わたしには無理です。わたし、歌、うまくないし……自分の気持ちを歌に込めるなんて、そんなの、できそうにないです……」
不安な気持ちを、そのまま言葉にした。
するとおねえさんが、やさしく笑って――
「ふふ、大丈夫。そのために、私がいるんだよ」
そう言って、満面の笑みを浮かべた。
結局、おねえさんの笑顔に、わたしは反論の言葉を返すことができなかった。そして――お父さんに歌を贈るために、おねえさんと一緒に歌を作ることになったのだった。
まず、最初におねえさんにお願いされたのは、わたしの気持ちを言葉にしてほしいということだった。
今の気持ちを、飾らずに。
お父さんへの気持ち、お母さんへの気持ち。
そして外の世界への憧れの気持ち。好きな気持ちだけじゃない、罪悪感の言葉も、すべて。
頭の中はぐるぐるして、胸の奥はもやもやして、なかなか整理できなかった。
まるで心の中に溜まっていたものを、少しずつ吐き出していくみたいで最初は、とてもつらい作業だった。
だけど実際に言葉にするとおもいのほか自分の心がすっきりするのを感じる。
わたしの口から溢れる拙い言葉のしずくを、おねえさんがひとつひとつ拾いあげる。それを紡ぎ詩を作り出す。
だけど、言葉にしていくうちに、少しずつ心が軽くなっていくのを感じた。
わたしの口からこぼれ落ちる拙い言葉のしずくを、おねえさんがひとつひとつ拾い上げていく。それらを丁寧に紡ぎ詩を生み出していく。
ギターをつまびきながら、鼻歌を口ずさんだり、わたしの言葉のしずくをそっと口にしたりして、旋律に詩を乗せていく。おねえさんのギターの音色と澄んだ柔らかな声が部屋の一室に響く。
「……うん。こんな感じかな。ふふ、イリアちゃんお疲れさま」
「これが……わたしの歌」
「うん、そうだよ」
わたしの歌は、この村特有の、陽がすっかり沈みきって闇に包まれたころに完成した。自分の言葉が、一つの歌になっていることに、なんだか不思議な気持ちになる。
「今日はこれでおしまい。お腹すいたね。明日からは一緒に歌の練習、しよっか」
翌日から、歌の練習が始まった。初めはおねえさんと一緒に歌いながら、少しずつ詩を覚えていく。
最初は、自分の拙くて不格好な歌声に恥ずかしさを覚えて、顔を真っ赤にしながらの練習していた。
けれど、だんだんと歌えるようになってくると、おねえさんはギターを抱えて、わたしの歌にそっと音色を添えてくれた。
音が重なり合い、ことばが旋律に乗る。そんな時間が、次第にわたしの中に溶け込んでいく。歌を歌うって、こんなに楽しいものだったんだ。
そして数日が過ぎた。
夕暮れに残っていた朱が、ゆっくりと夜の帳に溶けていく。
「お、いよいよ今日が本番かい?」
常連のおばさんが、いつもの明るい声で話しかけてくる。
「は、はい……」
緊張で強張った顔のまま、わたしはぎこちなく返事をする。
「イリアちゃんの晴れ姿、ちゃんと見届けなくちゃね」
毎日のように歌の練習をしていたから、わたしたちが何をしようとしているのか、おばさんにはとっくにバレてしまっている。
「ふふっ、パブに着いたら、すぐに歌い始めちゃいますよ」
おねえさんがおばさんに笑顔で告げる。
常連のおばさんは、恰幅のいいお腹を揺らして朗らかに笑い、わたしたちに軽く手を振ってパブへと向かっていった。
結局のところ、おばさんだけじゃなく、わたしがお父さんと喧嘩をしたこと、そして毎日、吟遊詩人のおねえさんと歌の練習をしていることは,この小さな村ではもう、すっかり広まってしまっているようだった。
「お父さんと喧嘩したまま、このまま吟遊詩人さんについて行っちゃうんじゃないか」
そんなくだらない噂まで立っているらしい、とおばさんが教えてくれた。
それを聞いたおねえさんは、唇をほころばせながら笑っていた。そして、人差し指を口元に当てて、
「お父さんと仲直りするために歌の練習をしていることは、内緒にしておいてくださいね」
と、冗談めかしておばさんに口止めをしていた。
きっと、お父さんの耳にも噂はもう届いている。
それでも、お父さんは一度も会いに来てくれなかった。
もしかしたら、お父さんは本当に、わたしがこのまま吟遊詩人のおねえさんと旅立っていくことを、望んでいるのかもしれない。そう思ったら、パブに向かう足が、少し重くなった。
そして、パブに到着する。
けれど、扉に手をかけた瞬間、その手がわずかに震える。
……怖い。
そのとき、不安げなわたしの手を、そっと、おねえさんが握ってくれる。
その手のぬくもりに、はっとして顔を上げると、おねえさんが優しく微笑んでいた。
「がんばろっか、イリアちゃん」
おねえさんのその笑顔に、わたしの胸の奥がふっと軽くなる。
そっか。うん、きっと大丈夫だ。
今、どんなふうに思われていたっていい。
だって――今から伝えに行くんだ。
わたしの気持ちを。




